君は可愛い僕の仔うさぎ・4


 

「十八歳……か…」
会議室の隣に設けられた控室の一角で、ハジはぼんやりとしていた。
会議までにはまだ時間があるが、小夜と別れた後…他に行くあてもなく社に戻った。
しかし、仕事が手につく筈もなく、高い社屋の窓から遠い街並を見詰めて、ハジは何にともなく小さな溜息を吐いた。さっきまで真っ青な晴天が覗いていたというのに、いつしか空は低く垂れこめている。

まるで自分の気分を反映しているようだ…。
夕方から雨になるという予報らしいが、この数日天気予報など見ている暇はなかった。
昨夜…ハジは、うさぎを拾ったのだ。
ひどく愛らしいうさぎで、小さくて柔らかくて温かい。
夜のクラブで…コンパニオンと客として出会ったというのに、いかにも平和で穏やかな家庭で育ったのだろうと伺わせる素直さと健全さを感じさせた。
馴れ馴れしいという訳では決してないのに、何故か初対面と言う気がしない親しみやすさがあった。
心細く、困っているのだろうと思うと放って置けず…嬉しそうに笑ってくれるだけで、ハジをこの上もなく幸せな気持ちにしてくれた。そんな気持ちになったのは、ハジにとって生まれて初めての事だったから…すぐには解からなかったけれど。
自分は多分きっと…一目見た瞬間から彼女に心を奪われていた。
と…今更ながらに気が付いたけれど、今更もう遅い。
うさぎは自分の居るべき世界に帰って行ってしまった。
いや、自ら帰してしまったのか。

勿論、うさぎにはうさぎの事情もあるだろうし、自分とは余りにも住む世界がかけ離れている。
所詮、一緒に居られる時間は短いものだ。
どれほど望んでも、世の中には手に入らないものがたくさんあるのだと、この年齢になれば良く解かっている。
彼女は自分とは違う…。
何もかも…最初から、解かっていた事だ。

□□□


ゴールドスミス・ホールディングスと言う社名は、誰もが一度は耳にした事はある大手持ち株会社だ。国内外に多くの子会社を抱え、その株主としてグループの経営戦略・経営管理・ならびに専門サービスの提供を行っている。
ハジは若干二十八歳と言う若さで、そのゴールドスミス・ホールディングス社長であるアンシェル・ゴールドスミスの社長付という役目を仰せつかっている。
そして、ソロモンもまた同様の立場だ。
隣でじっとハジを観察していた金色の髪の青年は、男の口から無意識に零れた一事を聞き洩らしてはいなかった。
「…そうですか。うさぎちゃんは十八歳…ね」
楽しそうな様子で復唱するソロモンに、ハジはようやくその存在に気付いた。
明らかに不機嫌な面持ちでじろりと一瞥をくれる。
「…誰がそんな事を?」
「…あなたですよ」
本当に面白い人だ…と、ソロモンが零した。

毎週末に行われる報告会議には、社内の主たる重役が顔を揃える。
異例の若さで社長付という役目を仰せつかっているハジには、些か気が重い場だった。ハジにとっては年上の相手も役職上では自分の方が上である。
各部署から上がってくる報告とその改善案に、重役の面々が重箱の隅をつつく様な課題を突き付けるのだ。社会とはそう言うものだと解かってはいるけれど、自分が責められる立場ではなくとも同席してあまり居心地の良いものではない。
しかも、この会議には必ず社長自らが顔を出す。
間違いなく好奇の目で見られる事は間違いがない。
別に社長の顔を合わせるのが嫌で、強引に午後からの時間休をもぎ取った訳ではないけれど、下手に勘繰られるネタを提供してしまった事に変わりはないだろう…。
疾しいところはない。
疾しいところはなかった。
ただ、小夜が泣いているのを見ていられなかった。
だから、平然としていられた。
しかし、もう自分は気付いてしまったのだ。
自分の、この小夜に対する執着がただの親切心などではないという事に…。
彼女を目の前にした時の言葉では説明出来ない不思議な胸のざわめき…。
あの、甘い沈黙…。
しかし気付いたからと言って、どうしたら良い?
彼女にとって自分は、ただの通りすがりだというのに…。
困っていたから、この手を取ったけれど…本来ならすれ違う筈もない相手だ。
それも、大学の親友がああして家族ぐるみ親身に世話を焼いてくれるというのなら、自分が係るよりもずっとその方が健全で、彼女の為になるだろう…。
もうきっと、二度と会う事もない…。
仮に会えたとしても、もう……。
「ハジ…。心ここに非ず…と言った風情ですね…」
「…気のせいです。用がないなら、戻って働いて下さい」
「いや、流石に会議前にはきちんと身嗜みを整えてきたようだから…。半休までとって…会議前にうさぎちゃんに膝枕でもして貰ってきたのかと思って…」
貴方のそんな姿は珍しいので、からかいに来たんです…と、軽い口調でハジの様子を伺うが、いつにもましてその口は重い。
じろりと鋭い眼光で睨まれて、すんなりと取り下げる。
「…そんな訳はないようですね…」
「………………当たり前だ」
ハジは相変わらず、じっと窓の外の景色を見詰めていた。
窓ガラスがポツンと雨粒に濡れている。
そう言えば…小夜は傘を持っていない…
雨に、濡れなければ良い…
自然に浮かんでいたその心配を、慌てて否定する。
何ももう、自分が彼女の心配をする必要はなくなったのだから…。
「ハジ…。とにかくその呆けた顔を何とかして下さい。あなたが留守の間に…会議の資料が一部差し替えになったんです。きちんと時間までに目を通して確認しておいて下さいね…。…恋愛相談ならいくらでも乗りますけど…あなたの仕事のフォローまでは勘弁して下さい」
わざわざステープラーで閉じられた再生紙の資料の束をハジの目の前に投げてよこしてソロモンは自らの内ポケットを探った。
そう言えば、帰社してから一度も自らのパソコンに触れてもいない。
吐き捨てるように言いながらも、こうして彼は自分を心配してくれているのか…。
「あれ…おかしいな…」
「…タバコは止めたのではなかったのですか?」
「普段は吸いませんよ。これはささやかなおまじないです。今日の会議が長引きませんように…てね。折角週末の夜なのですから…。ハジ…タバコ、持っていますか?」
「…………いや」
「仕方無いな…。今日の会議は長引きますよ…」
覚悟して下さい…と、そう言い残してソロモンは控室を出て行く。
不意に思いついたように、ハジはソロモンの背中に問い掛けた。
「ソロモン…。十八歳は、大人だろうか…?」
振り向きざまに、ソロモンはやれやれと大きく溜息をついた。肩越しに『またうさぎの話ですか?』と大袈裟に呆れ、それでもしばらく考えて見せる。
「あくまで…一般論として……」
わざわざそんな風に付け足す男がおかしいのか、ソロモンは肩を揺らした。
「あなたはどうだったんです?」
「…………」
「まあ、難しいですね…人それぞれ、一概には言えませんよ。特に……女の子はね…」「それは……あなたの体験談ですか?」
「ご想像に任せますよ…」
言い残して立ち去る後姿を見送りもせず、ハジは遠い街並に視線を投げたままだ。
仕方なくテーブルの上の資料の束に指を伸ばすが、細かい文字列を幾ら目で追っても、文字の意味を頭が理解しようとはしない。
雨粒が次第に勢いを増し始める。
もう、何も…自分が心配する必要はないのだ。
ハジは全てから目を背けるように、資料の文字に再び目を落とした。
□□□
「ねえ、小夜…。泣いてるの?」
心配げな表情の香里に小夜は目元の涙を隠すと、そんな事無いよ…平気なふりをした。既に食べ終えたパフェのスプーンを無意識に触ると、グラスの端に当たってカチンと堅い音を立てる。
「…ちょっと、色々な事があり過ぎたから…」
「さっきの男の人は誰?…お世話になったって…小夜?…その服も買って貰ったの?」テーブルの上に置き去りにされたままの、白い名刺には彼の名前の上にゴールドスミス・ホールディングスと社名が書かれていた。世間に疎い小夜にも聞き覚えのある名前。具体的な仕事は思い浮かばなかったけれど、沢山のグループ企業を抱える持ち株会社だという事は漠然と解かる。
「社長付…て、つまり…社長さんの秘書みたいなお仕事してる人なの?」
香里の素直な問いに、小夜は俯くと小さく首を振った。
「…知らないの。私…あの人の事、…何も知らない…」
知っているのは、名前と、彼がとても親切で優しい…と言う事だけだ。
物静かで口数は少ないけれど決して無愛想な訳ではなく、強引な様で何事もさり気なく気を使ってくれていたという事。
男の人とは思えないほど、とても綺麗に食事をする事…。
目を瞑るとくっきりと睫毛が長くて鼻筋が通っている事。
掌が大きくて力強くて、でもとても優しく手を握ってくれる事…。
抱き締められると…微かにタバコのにおいがする事…。
昨夜、初めて出会ってからのほんの僅かばかりの思い出。
数えるほどもない。
しかし、思い出す程に小夜の中でその存在感は大きさを増してゆく。
出会ったばかりなのに。
彼の事を…何も知らないのに…。
さっきまで、目の前で静かに微笑んでいた。
それなのに、もう…二度と会えないの?
ただ、ほんの少しすれ違っただけの人。
きっと自分とは別の世界に住んでいる。
大きな会社に勤めて、小夜の知らないような事もたくさん知っていて…
自分とは比べようもない、大人の世界の人。
あんなに優しいのだから、…きっと恋人だっている。
…私があまりにも情けないから、見ていられなくて少しだけ手を差し伸べてくれた…。


「…ちょっと。ちょっと…待ってよ。小夜…ねえ…。泣いてるの?…小夜ってば…」
慌てる香里の声が、どこか遠く聞こえた。
「ううん、大丈夫…だから…」
…私、情けない…。泣いてばかりいる…。
小夜は小さく否定すると、涙に濡れた瞳で無理に笑って見せた。
□□□
雨に濡れたアスファルトが街灯を反射して光る。
激しく左右に揺れるワイパーも意味をなさない程、叩きつける様な勢いで降る雨に視界を遮られながら、ハジは注意深くハンドルを握っていた。
幾つかの変更を含め…予想はしていたものの…ソロモンの言ったとおり、夕方からの会議は難航した。
漸く解放されて帰途に就く頃には、雨はこの季節には珍しく土砂降りの様相を呈していた。社の駐車場もマンションの駐車場も、地下にあるので濡れる事はないが、疲れた体でこの視界の悪さはついていない。
仕事で疲れるのはいつもの事だけれど、この週末は色々な事があり過ぎた。
慣れた道ではあったけれどいつも以上に気を遣いながら、マンションまで辿り着いた時には、既に深夜とも呼べる時間帯になっていた。そんな激しい雨の中、あたりには当然の様に通行人の姿はない。
マンションの建物が見え、手前の信号で止まる。
昼間、ここを曲がった時には、隣には小夜が居たのだと…一人になるとまたそんな事を考えてしまう自分に、ハジは一人苦笑した。
好きだ…。
小夜の事が…。
多分、初めて彼女の姿を目にした時から…。
だから、彼女が泣くのを見ていられなかった。
親切じゃない…。
これは…。
昔、小さな頃…飼っていたうさぎに良く似ていた。
それは嘘じゃない。
彼女の泣き腫らした瞳は真っ赤で、真っ直ぐに自分を見てくれた。
自分の素姓も、肩書きも、何も知らなくても…。
ありのままの自分だけを…。
 
しかし、小夜はうさぎではない。
一人の、女の子だ。
ただ可愛がって、掌の中で守ってやれば良いという存在ではない。
今は何かと大変な時かも知れないけれど…、勿論彼女には帰るべき場所がある。
本当なら有り得ないような場所で…有り得ないような偶然ですれ違って…
たった一日…
それもほんの数時間を共に過ごしただけの…
ハジにとっては、もどかしく甘い一時の思い出に…いつか時間が変えてくれるのだ。
やがて信号が青に変わる。
人影のない路上をゆっくりと左折する。
明かりの点ったマンションのエントランスがちらりと伺える。
その脇を抜けて左手の奥が駐車場の入口だ。
と、その時。激しい雨の向こうで、何かが揺れた。
街灯の当たらない植え込みの陰、白いものがふらりと落ちる。
一瞬の出来事に、無意識に反応してハジは急ブレーキを踏んだ。
 
………。まさか?
 
ハザードを付けて路肩に車を停め、ハジは躊躇う事無く雨の中に飛び出した。
瞬く間にスーツが雨に濡れて重みを増してゆく。
バシャバシャと水溜りの水を蹴って、先程何かが揺れた場所へ走る。
「…小夜?」
とうとう幻まで見るのかと、自嘲するように小さく彼女の名前を呟いた。
小夜が、こんな所に居る筈はない。
昼間別れて、小夜は友人と彼女の自宅へ帰った筈だった。
余りにも恋しくて、こんな幻を見るのだ。余りにも…小夜に逢いたくて…。
延々と続く柵がまどろっこしい。遠回りをして漸く敷地内へと入ると、屋根のあるエントランスから僅かに離れた場所に植え込みが続いている。

見間違いだ…。
こんな雨の中に…小夜が居る筈が無い。
そんな思いで、ハジは額に落ち掛かる濡れた髪を指先でかき上げると綺麗に整えられた植木の間をいちいち見て回った。
自分の目を疑う。
息が止まりそうになる。
木々が雨に濡れ噎せ返るような新緑の匂いの中、その一番隅の明かりの届かない場所に小夜は蹲る様にして膝を抱えていた。俯いた顔は見えなかったけれど、確かめるまでもない。昼間着ていたあの濃紺のワンピースだ。
「小夜っ…!!」
良く通る声で彼女の名前を呼ぶ。
ハジの声に反応して、小夜が顔を上げる。
すっかり全身が雨に濡れそぼり、黒い髪が額に張り付いていた。
思わず跪くと、堪え切れずぐったりとしたその体を胸に抱き締める。
「こんな所でっ…、こんな所で貴女は何をしているんですかっ?」
思わず怒声になる。感情に任せた強い口調に、小夜の体がビクンと大きく揺れた。
「ごめん…なさい…。私…あなたに昼間借りた、ハンカチ…返し忘れて…」
「その程度の事で?この雨の中、傘もささずに…」
せめて屋根の下に居ること位は出来るだろうに…。
しかし怯えた様子の小夜を、ハジにはそれ以上責める事は出来なかった。
「…とにかく」
「きゃ…」
小さな悲鳴を上げる少女に構わず、ハジはその腕に冷え切った体を抱き上げた。
震えてしがみ付く小さな体に、愛しさが込み上げてくる。けれど何も言葉にする事は出来ないまま、来た道を両腕に小夜を抱き上げて戻る。
「ごめんなさい…」
小夜が小さな声で謝罪する。
既にハジも全身がずぶ濡れになっていた。
しかし、そんな事は一向に構わなかった。
置き去りにしたままの車に戻り、やっとまともに二人は互いを見詰めた。
助手席で…相変わらず泣き腫らした赤い瞳をして小夜がハジを見詰めていた。
信じられなかった。あのまま席を立ってしまった事を、本当はひどく後悔ばかりしていた。もう二度と会えないのだと思ったら、小夜に対する愛しさが堰を切った様に溢れ出した。ソロモンの忠告も空しく、会議など上の空だった。
「怒鳴って、すみませんでした。最初…貴女の、幻を見たのかと思いました。…私は」「ごめんなさい。…ごめんなさい。…もう…あなたに会えないって思ったら…。そう思ったら…私」
「…だからと言って…」
雨の中に崩れる小夜の姿を見付けた時は、息が止まる思いがした。
何もあんな所にいなくても良い。
雨を凌げる場所は幾らでもある筈だ。
「一体いつから、あそこに居たんです?こんなに濡れて…」
思わず差し出した指を、小夜は拒まなかった。
濡れた髪を恐れる様に指先にすくう。
「…ごめんなさい」
雨に濡れた寒気にか、それとも別の何かにか…。
小刻みに震える小夜が愛おしくて、ハジはかける言葉すら失っていた。
どんな言葉も、今のこの気持ちを小夜に伝える事は出来ないだろう。
謝らないで…とも。
泣かないで…とも。
…自分も、全く同じ気持ちでした…とも。何も言えないまま、ハジは髪に触れた指をそっとその冷えた頬に滑らせた。
驚いたように瞳を見開いて、小夜がハジを見詰めている。
突き上げてくる切なく甘い感情に突き動かされる様に、ハジはゆっくりと身を乗り出した。最初びくんと体を緊張させた小夜を、覆いかぶさる様にして間近で覗き込む。
「…あ」
薄らと開いた唇の隙間から、吐息の様な声が零れた。
恐れるようにそっと、その柔らかな唇に唇で触れる。
その瞬間、ハジの胸にほんのりとした温もりが点る。
微かに触れただけの唇は、一瞬で離れ…小夜は何事が起こったのかさえ理解出来ない様子で固まっていた。
ハジもまた、運転席のシートに深く体を沈めじっとその余韻に浸る。
自分の中で、もう引き返せない何かが固まってゆくのを、ハジは感じていた。
やがて、湯気が噴き出しそうなほど顔を赤く染めて小夜が瞼を瞬かせる。
「…今の…?」
何…?と、見詰められても、答えようがない。
「……………。何でしょうね…」
「…ハジ…さん?」
僅かに体温が上昇するのを感じ…ハジは小夜に答えられないまま、静かに車をスタートさせた。



部屋に帰ると、ハジは自分の事も構わず小夜に大判のバスタオルを渡すと急いでバスタブに湯を張り、白い電気ケトルにお湯を沸かした。一体いつから雨に打たれていたのか明るい照明の下で見る小夜の顔は幾分青ざめている様に感じられる。
すぐに準備出来ますから、…濡れた物はすぐに脱いだ方が…」
そこまで言い掛けておきながら、ハジは口籠る。
他意はない。
必要に迫られて…ではあっても、年頃の女性に『脱いで…』と言ってしまった事に対して咄嗟に羞恥を覚えた。
きっと昨夜の自分なら、平然と対応出来たのだろう…。
しかし、今ここで目の前で脱がれても困る。
慌てて自分の部屋から、替えのパジャマを用意する。小夜にはあまりにも大きすぎる様な気がしたが他に着られそうな物も思いつかなかった。
「すみません、取り敢えずこれを…。バスルームは…」
解かりますね…と。
そう言って手渡すと、小夜が冷えた指先でハジを引き留めた。
「…ハジさんも、濡れてます。私…後で良いですから…」
「何を言ってるんですか?いつからあそこに居たのです?こんなに冷たい手をして…」「…ごめんなさい」
「貴女はさっきから、謝ってばかりだ…」
小夜に謝られるような事は、何一つないというのに…。
濡れたワンピースの薄い生地がぴったりと肌に張り付いて、体の線を露わにし、余程思い詰めていたのだろう…真っ直ぐにハジを見上げる瞳は相変わらず泣き腫らしたように赤い。
そんな風に…見つめないで欲しい。
小夜は、全く解かっていないのだ。
今の自分達の置かれた状況も、先程のキスの意味も…。
そして、男の事など…全く…。
「……とにかく今は、ゆっくりと体を温めて来て下さい。話はその後です…」
「待って…。私…」
男に助け船を出す様に、給湯が完了した事を告げるチャイムが小夜の言葉を遮った。
「さあ、行って下さい…」
ハジは、戸惑う小夜の両肩をそっと掴んで後ろを向かせると、やや強引に彼女をバスルームへと送り出した。

□□□
ちゃぽん…と、水音が響く。
暖かい湯船につかると、ゆっくりとお湯の温もりが体の芯にまで沁み渡り、強張っていた体の緊張が見る見る内に解けてゆく。小さく膝を抱え…、溺れてしまいそうなほどギリギリまでお湯に沈む。
今、こうしてここに居る事が信じられなかった。
昼間、ハジが向かいの席を立った時、もうお終いだと思った。
ハジの隣に居る間、小夜は自分の置かれた状況も忘れ、とても楽しかった。しかし、彼が席を立った途端、そんな夢の様な時間ももう終わってしまったのだと…。
躊躇う事も無く…何の未練も感じさせず、立ち去ろうとする男の後ろ姿を見送って、その背中が見えなくなった時、もう会えないのだと実感した時、胸の奥に揺れるこの柔らかくて甘い気持ちの正体を漠然と知った。
ぎゅっと堪えても、自分に言い聞かせても、ハジの事を思うと涙が溢れて…、そんな小夜に親友の香里は優しかった。
躊躇う小夜の気持ちを察し、今すぐに追いかけなさい!と背中を押してくれた。詳しい事情は後で聞いてあげるから、悲しくて泣く位なら…とにかく追いかけて自分の気持ちを伝えなさいと…。
けれど…。
人混みの中にもうその背中を見付ける事は出来なくて、その上幾ら名刺をもらったからと言って、いきなり勤め先に押し掛ける様な真似も出来はしない。
仕方なく小夜は、うろ覚えながらも電車を乗り継いで、何とかハジの住むマンションまで辿り着いたのだ。しかし、セキュリティーの行き届いたこの建物には、小夜一人ではエレベーターに乗る事すら出来なくて…。
その上、次々と帰宅する住人の目が気になってエントランスにも近寄れなかった。
ここで待っていれば本当に会えるのかも、自信がなかった。もしかしたら、忙しくてまた今夜も会社に泊まるのかも知れないと、急に不安になった。日も暮れかかった頃…無情にも雨が降り出し、次第に雨脚は激しさを増したけれど、それでも今ここで諦めてしまえば、きっともう、こんな勇気を持つ事は出来ない。明日になったら、彼の迷惑も顧みずこんな風に押しかけてまで『あなたが好きです…』なんて、自分に言える自信はなかった。

火事の事も、父の行方も…今だけは…忘れさせて…。
今だけ…。
これで会えなければ、もう本当に終わりなのだと…。
あの人の事は、諦めるから…と。
たった一言『あなたが好きです…』と伝える為に…、小夜は雨の中も待ち続けたのだ。
だから…尚更嬉しかった。
離れていたのは、ほんの数時間だったというのに…
もう一度ハジに会えた事が、ただ素直に嬉しかった。
目の前に彼の姿を見付けた時、恋し過ぎて幻を見たのかと…思うほど…。
無茶な事をして怒られたけれど、それでもやはりハジは優しくて…雨に濡れるのも構わず小夜を広い胸に抱き締めてくれた。ぼうっとしていて…ふわりと体が浮いて…それで漸く抱きあげられている事に気が付いた。
先程の記憶が生々しく蘇ってきて…小夜は恐る恐る指先で唇に触れてみた。
あれは…キスだったの?
ふいに視界を奪う様に覗き込まれ、ほんの一瞬微かに触れただけで離れていった唇。
自分はあまりにもハジが恋しくて、夢と現実の区別がつかなくなっているのかも知れない。ぶくぶくと鼻先まで、湯船に沈む。
…何でしょうね…

ハジはそう言った。
あれは…キス?
それとも…違うの?
今更になって小夜は、その恥ずかしさに体が熱くなるのを感じた。

□□□

小夜がバスルームを出ると、ハジは濡れたスーツを既に着替え終えていた。
白いシャツとデニム、いつもは後ろで結っている濡れた黒髪を解いて、ぽたぽたと垂れた滴がシャツの襟元に染みを作っている。その姿に、改めて小夜は彼の髪が長かった事に気が付いた。
スーツとはまた違うハジの姿に、小夜の足は竦んだ。
あれほど、自分の気持ちを伝えなければ…と意気込んでいたのに、いざ彼の前に立つとどうしてもそんな事が言えるだろうと…小刻みに体が震えるのだ。
やはり、あの時勢いに任せて『好き』と言ってしまえば良かった。
「小夜さん…。まだ寒いのですか?」
「…い、いえ…」
勧められた向かいのソファーに座り、小夜は気付く。
ガラスのテーブルの上に小さなカードが一枚置かれていた。
「…これはこの部屋のカードキーの予備です。…これがあれば、エントランスから先、エレベーターも起動します。もう予備はありませんから、くれぐれも…無くさないで下さい。管理人には、私の方から…貴女の事は従妹だと伝えておきます。…それから、明日の朝一番で業者を呼んで…」
「…ちょ…ちょっと。待って下さい…、どういう…」
「業者を呼んで、奥の部屋のドアに鍵を付けて貰います…」
そう言って、小夜が昨夜泊まった客間に視線を投げる。
「…話が、見えません」小夜には答えず、ハジは続けた。
「…鍵?」
何を言っているの?
小夜は真っ直ぐに前が見えないまま、膝の上できつく両手を握り締めた。
「…明日は土曜日ですから、急には無理かもしれませんが…とにかく…」
「……ハジさんっ!!」
「…とにかく。……………」
沈黙が流れる。
短く言葉を切ったハジに、小夜が俯いていた顔を上げると…はっとする程、真摯な青い瞳が小夜を真っ直ぐに見詰めていた。
心底困った様に、弱々しく微笑む。
「…貴女を、手離したくないのです…」
「……………」
 
…手…離す?
 
「…手離すって」
腰を浮かせて、ハジがテーブル越しにその手を差し出す。
「…それ以上に、今の気持ちを説明する言葉が見つかりません…。貴女と…離れたくないのです…」
「…だって。私…あなたの事、何も知らないのに…」
自分も同じ気持ちだった…だなんて、そんな事を言って軽蔑されない?
小夜は頬に伸ばされたハジの指先に、そっと掌を重ねた。
ハジはやっと温まりましたね…と、安堵の吐息を零し、ハジがテーブルを回り込むようにして小夜の体を抱き寄せる。
「ここに、居て下さい…。私も、貴女の事を何も知りません…。それでも…」
と、重ねて小夜に告げた。
離れられる筈がないと、小夜を抱き締める腕に力が籠る。
広い胸で小夜は大きく息を吸った。
まだ慣れる事のない、ハジの香り。
けれど、きっと…小夜にとってはこの腕の中が一番安心出来る、絶対の場所になってゆくのだろうと…そんな予感がしていた。
 
昨夜、初めて会ったばかりだというのに…。
時間ではなくて…。
理屈でもなくて…。
 
これが、恋なんですね…と。
 
小夜の耳元で、甘い声が囁いた。

≪人ます了…?続…くかな…≫


20090605  ひとまずアプ。