君は可愛い僕の仔うさぎ・2


うさぎを拾ってしまった。
勿論、最初からうさぎを拾おうと思っていた訳ではないけれど、結果的に…自宅にまで持ち帰ってしまった。

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暗く照明を落とした店内、耳触りにならない程度の甘やかな音楽と、品の良い生け込みから漂う生の花の仄かな香り。黒く手触りの良い革張りの応接セット…。
そこは決して安い店ではない。
そこで働く女性達は皆その道のプロで上昇志向も強い。
勿論、皆美人だ。
そんな中で、彼女は一際ハジの目を引いた。
取り立てて派手な顔の造作ではなかったけれど、こんな夜の店には相応しくない健康的で清楚な魅力に溢れていた。化粧も薄く、女性と呼ぶにはまだ幾分幼い表情で、今にも涙が零れそうな真っ赤な眼をしていた。
彼女が身じろぐ度に、肩先で黒髪がさらさらと揺れた。
大きなうさぎの付け耳、黒いリボンネクタイに体の線も露わなバニースーツ…際立つ肌理の細かい白い肌。あどけなさとは対照的に…意外にも豊かな深い胸の谷間と、すらりと伸びた美しい脚線。不躾な行為と思いながらも、ハジはつい目が離せなくて…。
その視線が、無類の女好きである社長の目に留まってしまった。
だから、彼女が嫌な思いをしたのは自分のせいでもあるのだ。
慣れない様子でおどおどと壁際に立つ彼女に、社長は声を掛けた。既に完全に出来上っている。
どろんと濁った座った目をして、『きみ可愛いねえ…』だか『名前は何て言うの?』だか、とにかく酒臭い息を吹きかけて、彼女に迫る。別段、女好きの社長がこうして夜の店で女の子に声をかける事は日常の出来事だったし、勿論そのまま大人の事情に持ち込まれる事も珍しくはないのだけれど…。そもそもこういった店でホステスとして働く女性は、その辺りを賢く遊びと割り切っているし、その気になれば逆に男を弄ぶ事も容易いだろう。巧みな会話で上手くかわす事だって出来る。
彼女達は自分に貢がせる事が収入源の一つでもあるのだ。

しかし、ハジの目に彼女はそんな気安い存在には見えなかった。
真っ赤だった瞳から、とうとう堪え切れない涙が一粒零れるのを認めた途端、居ても立っても居られなくて、ハジは自らの雇い主である社長と彼女の間に割り込んでいた。

イラスト提供*くーままさま  どうもありがとうございます!!


それを見ていた店の他のホステスからは、日頃どんなに口説いてもつれないハジが、そうして新入りの一人の少女の為に席を立つ事に対するどよめきが少なからず起こったがそれはハジの知るところではない。
見ていられなくて割って入ったものの、何と言えば良いのか、一瞬惑う。
しかし、ここで口ごもる訳にはいかなかった。
邪魔をするのか?と言った憮然とした表情の社長に、ハジは小さく囁いた。
『どうかお願いですから、彼女を自分に譲って下さい』…と。
いつもなら、そんな自分の行いについて、口厳しく窘めるばかりの堅物の部下が、そんな風に自分に頭を下げるのが余程気分の良いものだったのか…社長はころりと態度を変えた。なんだ、お前が先に目を付けていたのか?と白々しく言ってのけ、この年齢になって漸く女に目覚めた部下を祝う様に、派手にハジの肩を押した。
ハジはふるふると震える彼女の肩に着ていたスーツのジャケットを着せかけ、やっと小さく吐息を吐いたのだった。

しかし…。

結局、ハジは一睡もしないまま社の仮眠室で朝を迎えた。
喫煙ルーム脇の自販機でブラックコーヒーを買って一口含むと、舌先に広がる苦味がほんの少しハジを現実へと連れ戻す。不思議と眠気はなかったけれど、昨夜から途切れることなく続く意識の中で、どこか夢を見ている様な気分だった。自分でもどうしてああしてまで、彼女を連れ帰ってしまったのか…説明のつかない感情に支配されていた。
行くあてのない彼女を放っておけないのなら、自宅へ連れて帰る以前に一晩のホテル代を都合してやれば良かったのかも知れない。翌朝になれば事情を知って泊めてくれる友人の一人や二人は彼女にもいるだろうに、すっかり怯え切った表情をしていたのは自分のせいでもあるのではないか…。あの火事場の喧騒の中で…小さく肩を震わせている後姿を見付けた時の、掻き毟られる様な胸の痛み。
思い出すと、ハジはやはり彼女を自分のマンションに連れて帰ったのは致し方の無い事だったのだと、自分を擁護せずにはいられない。

しかし純粋に、放っておけなかったというのがハジの本音だった。


「いつも几帳面な君らしくないですね…」

ハジは不意に背後から声を掛けられて、嫌な予感と共に振り返った。
今は出来るだけ見たくはない顔だった。
「…おはようございます。ソロモン…」
柔らかな金色の髪と白い肌、緑の瞳。外資系企業として外国人の社員を多く抱えるこのゴールドスミス・ホールディングスにあって、一際その美貌で目を引くソロモンは、無表情を崩さないハジの態度を気に留める様子も無く、隣に並ぶと同じ様に自販機からコーヒーを買った。彼はハジと同じ部署で働いている同僚で、年が近い分気安くはあるが何かと比べられる対照的な存在だった。
「昨日と同じ服装じゃないですか。…それに幾分、寝不足の様ですが。…社長が珍しいと気にしていましたよ。昨夜は可愛いうさぎちゃん、お持ち帰りだったそうですね?」小さな音を立てて缶コーヒーのプルタブを開ける。ソロモンもまたその口調とは裏腹に表情を崩す様な事はなかった。
「…………。あなたには関係ないでしょう?」
「勿論。ただ…面白いだけですよ…。社内一堅物で通しているあなたが、女の子を連れ帰った上に、昨日と同じスーツで寝不足とくれば…」
くっくっ…と押し殺した笑い声を零して、ソロモンがハジを伺った。
並ぶと二人とも180pを超える長身の上に、揃って人間離れした美形である。
彼らの横をすり抜けていく女子社員が、ちらりと二人に視線を投げて走り去る。離れた場所からも視線を感じて、ハジはソロモンの腕を引くと、幸いにも人気のない透明のガラスで仕切られた喫煙室の中へと入る。
少なくともここならば、通りすがりの他の社員に話を聞かれる事も無い。
「…そんな下らない事を言う為にわざわざ来たんですか?」
「まさか!単にコーヒーを飲みに来たんですよ。…タバコは頂けませんけどね…」
「それなら、黙って飲んで下さい…」
ソロモンは肩をすくめ、コーヒーの缶に口をつける。
「…一つだけ言わせて貰えれば…」
「何です?」
「そういう嘘のつけないところは、からかい甲斐があって嫌いじゃあありませんが…。あなたがそう言う態度だと、女子社員の気がそれて仕事になりません…。せめてシャツくらい取り換えてこないと…」
今頃、秘書室は大騒ぎですよ…と、楽しげに笑う。
「…下世話な発想です。それに私の服装の事など誰も気にしていないでしょう?」
ハジはあくまでも表情を崩す事はない。
「…本当に自覚のない人ですね。秘書室の半分はあなた狙いですよ?」
「…………。あとの半分は?」
ハジの質問に、ソロモンはさも愉快そうに自分を指差した。
「社内の人気は、二分してるつもりなんですけどね…」
「…仕事に戻る」
呆れたように吐いて捨てて、ハジは一息に残りのコーヒーを喉に流し込んだ。
喫煙室を出るハジを追う様にして、ソロモンが肩越しに尋ねた。
「結局、否定はしないんですね…?」
「特に…疾しいところはない」
「なるほど…。ではその様に報告しておきますよ…」
「……社長に頼まれたのか?」
「…いくらあなたが有能な社員だとしても、社長はそこまで物好きではありませんよ。秘書室の有志から頼まれたんです…。女性の頼みを断れる筈無いじゃありませんか…」
背中越しにひらひらと掌を振って、ソロモンは自分の席に戻って行った。昨日の今日でまさか社長の口から一気にそこまで噂が広がっているとは思わなかった。
それで、今朝に限ってやけに人目を感じるのか…。
昨日から着替えないままのワイシャツの首元とネクタイをぐいと緩めて、ハジは大きく溜息をついた。どうして、誰も自分を放っておいてくれないのかと思う。
昨夜からの疲れが一気に噴き出したかのようにハジはぐっと肩が重くなるのを感じた。



□□□



小夜が目覚めた時、既に部屋は明るくなっていた。
見慣れない天井に、起き抜けの頭が働かない。
どうして?
…と、ソファーベッドから体を起こし、部屋の中を見渡して…やっと昨日の出来事を思い出す。と、同時に自分の置かれた現実が迫ってくる。
ベッドから足を下ろし、枕元の携帯を確かめると既に10時を回っていて、火事の事を知った同級生から何通かのメールと不在着信があったけれど、すぐには電話をかけ直す気力が湧かない。幸いと言うべきか、父からの着信はない。身の周りが慌ただしくてまだ火事の事を知らないのかも知れない。
ハジは、朝になったら父に電話するように…と、繰り返していたけれど…。
携帯の履歴から実家の番号を探す。
何度も迷って、ようやく小夜は発信ボタンを押した。
この時間もう父は出掛けて留守かも知れない。
しかし小夜の予想を裏切って、着信音は鳴らずやがて無機質で機械的な音声でそれが告げられる。
「この電話は使われておりません」
信じられない思いで、小夜は携帯を切った。
どうしたのだろう?
急に不安が堰を切った様に溢れ出して、小夜は床に崩れ落ちた。
ずっと我慢していた。
自分の育った思い出の父の店が人手に渡っても、もしかしたらもう大学も退学しなければならないかも知れないのだとしても…自分が頑張ればなんとかなると思っていた。
でも、本当はずっと不安で、心配で泣きたかった。
でも泣けなかった。
泣いたら、もう立てなくなってしまいそうだったから…。
父が友人の保証人になっていたせいで慣れ親しんだ実家の店が人手に渡るのだと聞いた時も平気なふりをして最後の営業日にも授業が忙しいと嘘をついて顔を出さなかった。顔を出して、父の顔を見たら泣いてしまいそうだったからだ。
覚悟を決めたつもりで慣れないバイトに応募して面接を受けた時も、採用が決まって実際にバニーガールの衣装を手渡された時も、見知らぬ初めてのクラブのフロアーに立った時も、あの酔っぱらいに絡まれた時も…。
そして、火事で借りていた部屋が全て灰になってゆくのを見ている時も…。
ドンドン…
と、幾分大きな音でドアがノックされる。部屋の向こうで、ドアを開けようとする気配が感じられた。
「…小夜さん。入りますよ…」
優しい声だった。

ああ、この声だ…。

小夜はドアから背を向けて、咄嗟に涙を袖で拭った。
「あ、ま…待って…」
しかし、小夜の返事が聞こえなかったのか、それとも敢えてそれを無視したのか…、ドアが静かに開きハジが顔を覗かせた。
「すみません…。……声が聞こえたので…」
「…こ、声…?」
「どうしました…?」
決してドアの傍を離れようとはしない。小夜とは一定の距離を保つ様に、その背中に問い掛ける。
「あの、…お父さんが…。いえ…父が…」
「連絡は付きましたか?」
「…電話、掛けてみたんですけど、…この電話は使われていません…って…」
震える事で告げて、振り返る小夜の…泣きじゃくった赤い目と頬に零れた涙の痕がハジの胸を突き刺した。
無意識に駆け寄り、差し出してしまいそうな腕を懸命に堪える。
ゆっくりと傍によって片膝を突く。
そして出来るだけ冷静な声を装った。
「もしかしたら、事態はかなり深刻なのかも知れませんね…。お父さんから連絡はありませんか?」
「ありません。…最後に電話したのは、二週間前…くらい前で…」
「何と?」
小夜はぺたりとフローリングの床に座り込んだまま、縋るような目をして端を見上げている。
「こっちの事は何も心配しなくても良いから、きちんと学校に通いなさいって…」
涙は尽きる事がないのか、泣き腫らした赤い瞳からは新たな涙が零れ墜ちる。
「…あ、ご…ごめんなさい。…ハジさんには、何も…関係…ないのに。…昨日だって、二度も…」
「構いません…。泣きたい時は、泣いても良いのですよ…。私が邪魔なら…出て行きます」
小夜は大きく髪を揺すって首を振った。
18歳にもなって、こんな風に人前で泣いた事などなかった。恥ずかしいという気持ちは誤魔化せなかったけれど、一人になるのはもっと寂しかった。
家族と連絡が取れない。
それは、ただ一時だけの事かも知れないと言うのに、まるで天涯孤独になってしまったような寂しさが込み上げてくる。
もっと警戒しなくては…。
もっと自分をしっかり持たなくては…。
そう思うのに…。
昨日初めて会ったばかりだと言うのに…。
「ごめ…なさい…。すぐに、泣きやむから…、今は一人にしないで…」
見上げる大きな瞳から再び大粒の涙が頬へと零れて、とてもすぐに泣きやみそうにはなかったけれど…。
ハジは『良いですよ…』と小夜の傍らに腰を下ろした。
長い足で胡坐組んで、俯いた前髪の下をそっと覗きこむ。
「小夜さん…?」
堪え切れず、そっとその肩に指をのせる。
『何?』と尋ねる様に顔を上げた小夜に、どんな態度をとって良いのか解からず…ハジが固まると、思いがけず泣き崩れた小夜の体が胸にしがみ付いてくる。震える小さな肩、細い首筋、全体重を受け止めたと言うのに、その軽さに衝撃を受けた。どこに触れて良いのかも解からず、ただそっと恐れる様にその背中に掌を添える。
身じろぎ一つ出来ないまま、ハジはしゃくり上げるその体をそっと支えた。
鼻先に香る甘い香り、柔らかな感触。
しばらく忘れていた…女性の柔らかな抱き心地。
ただ動けないまま、小さく喉を嚥下してそのどこか落ち付かない時間をやり過ごす。
やがて、幾分落ち着いたのか…腕の中で小夜が顔を上げた。
「…大丈夫、ですか?」
「……ご、ごめんなさい…。私…」
受け止めていた体がふわりと離れて行くのを、ハジはどこか寂しく感じながら、そっとその腕を解いた。
「…いえ」
短く答えた。
その僅かな間…じっと見上げる濡れた瞳、半開きの形の良い唇。
それは不思議な感覚だった。
昨日初めて会った相手だと言うのに、その距離は近過ぎて…。
お互いかけるべき言葉も見つからないまま、まるで二人の間に引力が発生したかのような欲求。恐れる様にそっと指先を小夜の頬に伸ばす。
ほんのりと赤い唇に、素直に触れてみたいと思った。
思うと言うよりも、それはもっと本能に近いのかも知れない。
言葉よりも雄弁に、指先が招く。
小夜もまた、ハジから目を離せないまま、瞬きすら忘れて僅かに頤を上げる。
ゆっくりと、それはゆっくりとしたスピードで、二人の距離が狭まってゆく。
柔らかな頬に触れた指が、いつしか掌で包み込むように小夜を捉えていた。
微かな吐息が触れる。
小夜がそっと瞼を閉じる…。
と、その瞬間。
っぎゅる、ぎゅるるるるるるるぅ〜〜〜〜〜〜〜〜
二人の目を覚ます様なタイミングで小夜のお腹の空腹の虫が鳴る。
「…………っ」
「あ…やだ…」
弾かれた様に、小夜がハジの腕から逃げる。
途端にリセットされる空気は、しかしまだ甘い余韻を引きずっていた。
気不味く口元を押さえる男に、小夜は湯気が上がりそうなほど真っ赤な顔をして…
「恥ずかしい…」
小さく呟いた。
何事もなければ今頃どうなっていたのかを思うと、とてもいたたまれない。ハジはその場の空気を払拭するように、苦笑して立ち上がると、まるで何もなかったかのように強引に言葉をつなげた。
「きっと、お腹が空いているだろうと思って、弁当を買って来ました。一緒に食べましょう…。今後の事は、それから考えれば良い…」
□□□
ハジの買ってきた出来合いの幕の内弁当を前に、小夜は顔を上げる事が出来なかった。随分甘えてしまった。
涙まで見せて…
昨夜から…そして幾ら心細かったとは言え涙まで見せて、胸に縋りついてしまった。
あのまま、お腹が鳴らなかったら自分達はあのままキスしていたのだろうか…。
本当はそんな呑気な状況ではないはずなのだけれど、昨夜からの想いも加わって小夜はまともに正面からハジの顔を見る事が出来ない。
抱き締められると、知らない男の人の香りがした。
少したばこの混じったような、しかし小夜はそれが不思議と不快ではなかった。
昨日も小夜の腕を引いてくれた大きな掌が、優しい力で背中を抱いてくれた。
その温もりが今の小夜には嬉しかった。
心の中で駄目と強く思うのに、心はどんどん目の前の男に惹かれているのを、感じずにはいられない。
どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう?
昨夜は「飼っていたウサギに似ていた」なんて言っていたけれど…。
本当にそんな理由で、ここまでしてくれるだろうか?
ハジは何と思っているのだろう…。
少しは甘い気持を抱いても良いのだろうか…。
けれど、今はそんな時ではない。
黙々と黙って箸を運ぶハジの様子を伺う。家族以外の男の人とこんな風に二人きりで向き合って食事した事などない。
豪快な父とは違って、とても行儀よく綺麗に食事する人だな…と思った。
じっと見詰めていると、ハジが不意に言った。
「…私は、食事がすんだら入浴して着替えます。6時に会議の予定が入っているので…それまでには社に戻りますが、小夜さんは一度現場に戻りますか?誰か居ればどうなったか話が聞けるでしょうし、何か大切な物があったのではありませんか?…残念ながら焼け残っているとは思えませんが…」
「…そうですね。…大切なものって言っても、まだ荷物は少なかったから…」
黄色い出汁巻きに箸を付けながら、小夜は答える。
「…教科書とか…。紙だから残ってる訳ないですよね…」
ハジは、そうですね…と箸を置いた。
広いダイニングテーブルに、不釣り合いなコンビニの幕の内。
ハジは立ちあがると、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出すと、綺麗に磨かれたグラスに注いで小夜に勧めた。
「…そうですね。教科書は無理でしょう。こういう事情ですから、学生課に全て相談してもう一度揃え直す事になるでしょうね。なるべく授業は休まない方が良い」
「…学校に行く余裕なんて…」
ハジは自分もまたグラスに注いだ薄い緑色の液体を一口唇に含むと、じっと小夜の不安げな表情を覗いた。
「……小夜さん、貴女は学校に行かなければなりません」
「…だって。こんな事になってるのに…」
「それでも…大学に通ってさえいれば、少なくとも貴女の所在はお父さんに解かるでしょう?」
連絡があるかも知れません。…と。
「だって、お父さん…どうして…」
「ご実家が今どうなっているのかは行ってみなければ解かりませんが。貴女に連絡しないまま居なくなったのだとしたらそれはそうする必要があったからだと思いますよ…」「私…捨てられたの?」
18歳にもなって親に捨てられたなんて言うのは情けなかったけれど、小夜の唇からはそれはぽろりと零れた。
「そんな年齢ではないでしょう?」
案の定、そう返されて小夜は唇を噛む。
「…………」
「それに、望んで子供を捨てる親なんていませんよ…」
そうだ。
望んで…そんな事をする筈がない。
仕方が…無かったのだ。
「会議の時間まで、私も一緒に行きましょう。…どうにも心配ですから」
「そんな…」
大丈夫です…と言い掛けて、口籠る。実際には何をどうして良いのかなど、小夜には何も解からなかった。
「日用品や教科書はまた買って揃えれば良いかも知れませんが…。やはり通帳や保険証書の再発行には罹災証明書がいるのでしょうね…」
罹災証明書?
小夜には訊いた事すらない言葉だった。
そんなに甘えて良い筈はないと解かっているのだけれど、自分がいかに子供であるのかを思い知らされる。
「だって…。それにハジさん…お仕事あるんでしょう?」
「…ひとまず、人に任せられないものは片付けてきましたし。…指示する事は全て指示して来ましたから、夕方の会議までは自由です。緊急な何かがあれば連絡が入ります。半日位あとで幾らでも挽回できますよ」
「どうして…?」

まさか、これも私の為?
「あそこは非常に空気が悪いので…。少し外の空気が吸いたかったのです。…それに」と、ハジがそこで言葉を切った。
「それに…?」
内心の想いを誤魔化す様に、小夜は大きな出汁巻きを一口で頬張るとじっと彼の答えを待った。
美味しい…。
口の中いっぱいに、出汁と卵の風味が広がる。
そう言えば、昨日の昼からまともに食事をとっていなかった事を思い出す。
答えは返らないまま、ハジは小夜の食べっぷりに感心したように嬉しそうに笑った。
「美味しいですか?」
「…あ、はい。すごく、美味しいです」
「それは良かった…。貴女はとても幸せそうに食べるんですね…」
「え…?ええ?…そうですか?…私?」
こんな状況だと言うのに、恥ずかしくなってくる。
しかしハジは気にした風も無い。
「…やっと、笑いましたね…小夜さん。貴女はもっと笑っていた方が良い…」
そう言って微笑むハジの表情は、小夜の心の中に決定的な何かを灯した。
こんな状況であるにも拘らず…。
心の奥の方がフワフワと甘く揺れているのを、小夜はその時はっきりと自覚したのだった。

                        ≪続≫

20090528
はう。かなり強引に中編…。
書いてて一番違和感を感じるのは、ハジと小夜たんがお互いに「小夜さん」とか「ハジさん」とか呼び合てる事でしょうか…。ソロモンとの絡みが結構書いてて楽しいのですが、どうなんでしょうねえ〜。この二人…。小夜たんと三角関係になれば良いとは思うけど、そこまで今回は書いていられないですねえ。(そんな事を書いては、この話が実は脳内でどんどん続いている事がばれてしまう。まあ、楽しい事優先で書いてるので、かなり突っ込みどころ満載ですが、私の脳内妄想にもう少しお付き合い頂けたら幸いです。