花ひらく


甘く物悲しいメロディーに、小夜は揺す振られる様にして目覚めた。
けれど、照明を落とした船室にチェロの音は聞こえない。
時計を見るともう真夜中で、眠りに就くとき傍に居た筈の青年の姿は無かった。
ハジは眠らない。
「ハジ・・・」
きっと彼が弾いているのだ。
耳には聞こえていなくても、何故か小夜にはそれが判る。
ハジが手を差し伸べて、

自分の事を「探しました・・・」と言ってくれた瞬間の事をきっと小夜は一生忘れないだろう。
自分を知っていてくれる人が居る。
ただそれだけの事で、地に足の着く思いだった。
確かに自分は生きてきたのだと、知っていてくれる人。
この数ヶ月間に起こった出来事は自分の身に起きた事とは言え、俄かには信じられないものだったけれど、

ハジと言う無口な青年が自分の傍らに居る事だけは、最初からとても自然な事のように感じていた。
そして確かに、少しずつ蘇ってくる小夜の記憶の傍らには、常にハジが居た。
家族かと問われれば、過去のサヤは「そうだ・・・」と答えただろう。
しかし、今の小夜にとって、ハジはもっと別の存在かも知れなかった。
沖縄では、義父、ジョージとカイとリクが居た。
血は繋がっていなくても、家族だと信じていた。
そして今も、そう信じている。
では、ハジは・・・。
ひんやりと冷たい床に素足を下ろして、小夜はベッドを抜け出していた。
 
 
始めは幻聴のようだったそれは、甲板に出ると現実のものとして小夜を導いた。
ハジの奏でる音色は彼が無口な分雄弁で、時に甘く切なく、物悲しく、そして厳かだ。

いつの間にか心地よく耳に慣れていた。
邪魔をしないよう・・・そっと背後に立つと、まるで背中に目があるかのように、

ハジは弓を止めるとゆっくりと振り返った。
「どうしました?小夜・・・」
労るような優しい声音はいつもと変わりが無いけれど・・・。
「ハジ・・・?」
「起こしてしまいましたか?」
暗い海と空を背後に背負ったハジは、そのまま闇に吸い込まれてしまいそうで
小夜を少し不安にさせた。
「どうしたの?ハジ・・・」
「それは私の台詞です。小夜・・・」
「チェロの音が聞こえて・・・、それで・・・」
ハジは弓を傍らに置くと、座ったままの姿勢で小夜を見上げた。
いつもは見上げる位置にある彼の顔が、すぐ傍にある。
彼の気配を感じ、彼を探しに来たと言うのに、小夜には彼に掛ける言葉など無かった。
「ハジが一人で居るのかな・・・と思って、ここに居てもいい?邪魔しないから・・・」
「小夜が眠れないのなら・・・」
そう言って席を譲る。小夜は促されるまま彼の掛けていたイスに腰を下ろした。
「夜風が障ります。寒くはありませんか?」
ハジは自らが着ていた黒く裾の長い上衣を小夜の膝に掛けた。

小夜はハジのぬくもりの残るそれを受け取ると、両手で胸元まで引き上げ隣りに立つ青年を見上げた。

ハジが寒くは無いだろうか・・・と思ったけれど、彼の瞳の目に黙って受け取る事にした。
「うん・・・。ハジ・・・いつも、ありがとう・・・」
 
 
ありがとう・・・
いつも、その言葉にハジは戸惑う。
彼女を守り続ける事は、ハジのシュバリエとしての本能であり、宿命であり、そしてハジ自身の願いでもあった。
礼を言われるような筋合いはないのだと、きっと今目の前に居る少女に話したところで理解出来はしない。
遠い昔、いつまでも一緒よ・・・と笑った、あの無邪気な少女は、今やはりハジの目の前に居て、

けれど過去を完全には思い出せずにいる。
小夜はサヤであり、しかしあの頃のサヤとは違う。
時折、あの頃のサヤに無性に会いたくなって、自分の事を思い出して欲しくて、
ハジは自分の気持ちの持っていきように戸惑ってしまうのだ。
何も知らなかった小夜に目覚めの血を与える事で、確かに止まった時は動き出したかのように見えるけれど、

やるせない自分の気持ちばかりが置き去りになって行き場を失ってしまう。 
強引に抱きしめて、思い出すように仕向けるのは簡単かも知れない。
けれど、ハジの求めるものがそこにはないだろう事は、容易に想像が付いた。
そして・・・そんな行為は小夜を酷く傷つけてしまうだろう。
昔から・・・臆病なのだ・・・。
自分は・・・。
 
「礼には及びません・・・」
「ねえ・・・、ハジ。そのチェロは、私が教えたんだね」
途切れ途切れの記憶の中で、小夜は少年のハジにチェロを教えていた。
初めて友達になれるかも知れない相手に、どう接していいのか解らず、

ただ自分の出来る事をしてあげたいと思った事を、うっすらと覚えている。
「・・・そうです。サヤは厳しい教師でした。久しぶりに弾いてみますか?」
小夜は慌てて首を横に振る。
とても自分にチェロが弾けるとは思えない。少なくとも、今の自分には無理だ。
「そこまで覚えてない・・・」
「手ほどきしましょうか?」
ハジが小さく微笑んだように感じて、小夜にはそれが少し嬉しかった。
無口で愛想の無い彼女のシュバリエは、小夜の記憶の中ではもっと表情が豊かだったように思う。
無口だからといって、決して不機嫌ではないという事は共に過ごすうちに解ったけれど・・・。
小夜を待つ永い時の中で、何かが彼を変えてしまったのだろうか。

だとしたら、それは小夜自身が、ハジを孤独にさせたからではないだろうか。
ハジに対して抱く全ての感情は、いつも小夜を一喜一憂させた。
ハジが笑ってくれたら小夜も嬉しい。
ハジが悲しむのは小夜も悲しい。
いつの間にか・・・。
表情には出さないけれど、ハジの心の動きは小夜の心にも響くのだ。
小夜にとって、いつの間にかハジは空気のような、そして空気以上に大切な存在だった。

何故だか、解らないけれど。
それはもう理屈では無く、ハジがハジだから・・・、小夜が小夜だから、としか言いようの無い感情のように思う。
さっきだって、実際には聞こえていないハジの弾くチェロの音が小夜には聞こえた。小夜には、とても寂しく、

悲しく聞こえた。
だから、自分は来たのだ。
ハジを独りにしない為に・・・。
「出来るかな・・・?私にも・・・」
「きっと筋はいいでしょう・・・。昔は弾いていたのだから・・・」
ハジは小夜の前にチェロを置いた。
背後から支えるようにして、彼女の手を導く。

丁寧に指先を添え、右手に弓を握らせると、そっと脇に退いて片膝を付いた。
「結構重いんだね・・・。ハジはいつも軽々と扱うのに・・・」
「思い出しませんか?」
「・・・・・・・・・」
小夜は遠い海面を見詰めるようにして、それからもう一度ハジの顔を見て、ゆっくりと俯いた。
思い出さなければ・・・と思えば思う程、過去は遠くなっていくような錯覚。
自分の事、ハジの事、ディーバとの戦いの日々。
「ねえ、ハジ・・・。ハジは全部知ってるんだよね?」
「私が知っているのは、過去の出来事。あなたと交わした言葉、私の目から見たサヤのこと。

・・・あなたが本当に思い出さなければならないのは、あなた自身の気持ちです・・・」
「私の、気持ち・・・」
小夜の右手から、弓が零れ落ちた。
それが解らないから、惑うというのに・・・。
「小夜がどうしたいのか・・・。私はあなたの望みを叶える為に存在するのです」
何度も聞いてきた台詞だった。
ハジはいつも小夜を優先し、自らが傷付く事すら恐れない。
「シュバリエだから?ハジが私のシュバリエだから?」
彼が傷付く度に、自分もまた心に血を流しているのだと、どうやって伝えたら良いのだろう。

それとも、過去の自分は、自分の為に傷付くハジを見て何も感じなかったのだろうか・・・。
「そうです・・・」
ハジはそう口にしながら、彼女が取り落とした弓を取るともう一度小夜の右手に添えた。
「ハジ・・・、シュバリエって何?私に従うって・・・。昔の私がどうだったのか、解らない。

でも、今の私は音無小夜だよ・・・。今の私の気持ち?それとも過去のサヤ?全部思い出したら、

今の私の気持ちはどうなっっちゃうの?私は・・・」
「小夜・・・」
「ハジにとってのサヤは、過去の私なの?それとも今の私?」
小夜は自分がとても愚かしい事をハジに迫っているのだと、自覚した。
これでは、まるで・・・。過去の自分に嫉妬しているようなものだ。
「ご、ごめん。ハジ・・・。いいよ。真剣に考えないで・・・。これじゃあ、私・・・」
小夜は慌てて弓と楽器をハジに押し付ける。

立ち上がろうとする弾みで膝の上の上衣の裾を踏み、そして、転ぶ・・・と思った瞬間、彼女はハジの腕の中にいた。
音を立てて、チェロが床に投げ出された。
「大丈夫ですか?小夜・・・」
「ハジ・・・」
小夜が逃れようとした途端、その腕は力を込めて小夜の体を抱き締めた。
どきん・・・と大きく小夜の胸が鳴った。
どきん、どきん、と響く心臓の音はハジに伝わってしまわないだろうか・・・。
冷たい海風に晒されていた体は、そんなハジの体温を温かく心地よく感じてしまう。

それでも無意識に抜け出そうとする小夜を許さず、

ハジは華奢な体を胸元に抱き寄せると、困ったように小さく息を付いた。
小さな嘆息の後、搾り出すように、囁く。
「触れても、良いですか?小夜・・・」
「ハジ・・・?」
「小夜・・・」
「ハジ・・・」
それを許しと取ったのか、ハジは長い指で小夜の髪を梳くと、そのまま頬に触れて首筋へと滑らせる。

小夜の背筋にぞくりと甘い痺れが走った。
「どうして、私を忘れたりしたのです?私の気持ちを試すのですか?」
「ハジッ・・・」
右腕できつく抱き寄せ、逃れる事を許さないように左手で小夜の顎を支える。
「小夜・・・」
どうしても、その先を言葉にすることが出来なくて・・・、代わりにハジはそっと小夜の唇に触れた。
指先でなぞり、確かめるように唇を重ねる。
「・・・、私は小夜が思っているよりずっと・・・、弱くて臆病なのです。試すような真似は・・・」
「試す・・・なんて・・・」
もう一度、ハジは丁寧に小夜の唇を自分のそれで塞いだ。
小夜の息が上がる。
目尻には涙が溢れていた。
幼い彼女を怯えさせてしまった事に、ハジは漸く理性を取り戻した。
 
黒い髪も、白い肌も、華奢な手足も、記憶の底のサヤと何一つ変わっていないのに、

その表情は見違えるように素直でくるくると変わった。
大きな声で笑い、はにかみ、おどけ、時には泣いて、彼女の心が映りゆく様は空を見上げているように、

飽きる事が無かった。
長い眠りから覚めてたった一年。

記憶を無くし、宮城家で暮らした一年は、想像以上にサヤを普通の少女、音無小夜に変えていた。
自分の事を思い出して欲しい気持ちと、このまませっかく、辛い過去を忘れる事が出来たのだから・・・、

出来ればこのまま何も思い出さず、穏やかで平凡な毎日を過ごさせてやりたかった・・・と思う気持ち。
二つの感情は表裏一体となって、ハジの中をぐるぐると渦巻いていた。
 
「ハジ・・・。ハジを試す気持ちなんてない。忘れてしまった事を責められても仕方ないよ。でも、

私だってハジの事を覚えていないのは辛いんだよ・・・。ハジは私の事を覚えていてくれるのに・・・」
「小夜・・・」
「ハジは、私の何なの?・・・どうしてこんなに胸が苦しいの?」
「・・・・・・・」
答えは手を伸ばせばすぐそこにあるのに、臆病な二人にはその先に手を伸ばす事が出来ない。
「もう、部屋へ戻りましょう・・・。もう一度、小夜が眠れるまで傍にいます」
ハジは傍らに投げ出されたチェロをケースに収めると、それを肩に担ぎ、座り込む小夜に手を差し伸べた。

小夜の手を取ると、両手で抱き上げる。
「大丈夫・・・。私歩けるから・・・」
「黙って・・・。小夜・・・」
目を閉じると、ハジの脳裏でサヤが笑った。
試しているのは小夜でなく、サヤなのかも知れない。
いつまでも愛していると囁きあった愛しい少女。
「ねえ、ハジ・・・。待っていてくれる?私が全部思い出すまで・・・」
こんな時だけ強引なハジに、諦めたように身を任せて小夜が言った。
「勿論、待っていますよ・・・。小夜・・・」
小夜はサヤであって、サヤではない。
それでも、彼女の中に確かにサヤは生きている。
この先、ハジは何度も恋に堕ちる自分を自覚する事になるだろう。
「ありがとう。・・・ハジ。困らせて、ごめんね・・・」
彼の答えに、柔らかな花弁がほころぶように小夜が嬉しそうに笑った。
少女が、その感情こそが恋だと気付くのはもう少し先の事かもしれない。

2006年4月16日
結局、何が書きたかったのか解らなくなってしまった様な。
かなり苦しくて参りました。ハジはともかく、小夜はまだ全然つかめてないな〜〜。
大体、女の子って書いたことが無いです。
このまま、Hになだれ込んじゃえって思わないでもなかったけど、流石に甲板だった事を思い出して止めました。
って言うより、ハジの理性・・・かな?善し悪しだと思うけど・・・。
いや、どうなんだろう?この二人のH・・・読みたかったでしょうか?
いつかは書きたいですけどね。うん。よく反省して、次頑張ろう!