戦いの最中では、自分の気持ちの揺らぎを見詰める事など出来はしなかった。

戦って…戦って…戦って…戦って…。

小夜の心の中にはディーヴァを倒すというただ一つの強い決意だけが存在し、彼女を固く冷たい鎧で身動き出来ないほど雁字搦めにしていた。
それはまたハジも同じ様子で…。
互いに想いを寄せながらも、ただひたすらに自分を押し殺して生きてきた二人の距離は、長い間…月と太陽の様に一定の周期を巡り、決して寄り添う事などなかったのだ。

『Prière』   三木邦彦
 小夜が長い休眠から目覚めて最初のクリスマス。
小さな町の市民オーケストラ。
そのクリスマスコンサートは技巧に長けたプロの音を聴き慣れている者には少し物足りないのかも知れないけれど、そこにはたった数百円のチケット代では計る事の出来ない程、音楽の楽しさが詰まっていた。
休眠から目覚めて間もない小夜を、今夜のコンサートに誘ったのはハジだ。戻りきらない体調を気遣いながらも、少しでも小夜の気分が華やぐように…気を遣ってくれたのだろうか…。
照明を落とした会場内で、小夜はちらりと隣に座るハジの横顔に視線を投げた。
その整った穏やかな横顔から、ハジの深い心の底を窺い知る事は出来ない。
シュバリエであるハジは暗い中でさえ視力を奪われる事はない。
一色刷りの薄いパンフレットに視線を落としていた彼が、じっと見詰める小夜の視線に気付いたのか…ふいに顔を上げた。
「小夜?」
語尾を上げ、問い掛けながらもふわりと微笑みを浮かべる。
「…な、なんでもないよ。…ハジ」
小夜は周囲の客に迷惑が掛からないよう、囁くように短く答えた。
休眠から目覚め、再会を果たしたたった一人の小夜のシュバリエ。
あの最期の時、彼の告げた言葉が今も小夜の心の中で繰り返し響くのだ。
貴女を愛しています…
その言葉をハジが小夜に告げたのは後にも先にも、あの時だけだ。
ハジの穏やかな微笑みに晒されると、何故か小夜の胸は何故だかきゅんと苦しさを増す。優しい声で名前を呼んで労わってくれるハジに、何と答えたら良いのか小夜には解からない。
「小夜?」
ハジは、アットホームなコンサートの雰囲気に沿うよう…しかし演奏者への礼は忘れない程度に、ガラリとカジュアルダウンした黒いジャケットを着こなしていた。
シャツの襟元を緩め、タイを変え…コンサートホールの狭い座席の通路に、長い脚は少し窮屈そうに感じられたけれど、綺麗な発色のブルージーンズは意外にも良く似合っている。
肩に下ろした髪は特に構っていないにもかかわらず、手櫛でかき上げた前髪が額に流れる様は意図した様に美しい。
「本当。なんでも…ないから…」
甘い胸の痛み…その正体から目をそらす様に、小夜はそっと視線を伏せた。
やがて演奏が始まると、ステージ上も客席も区別なくまるで一つになった様な雰囲気に包まれる。
こぢんまりとした広さの会場を埋め尽くしている観客には、団員の家族やその知人も多く、その場には実に和やかな空気が満ちていて、小夜は演奏に聴き入るハジの横顔を気付かれない様にちらちらと盗み見ながら、ぼんやりと昔動物園で暮らしていた頃の事を思い出していた。
今では当時と比べようもない程に上達したハジのチェロの腕前だが、まだほんの幼い少年だった彼にチェロを手解きしたのは小夜だった。あの頃…時にはレッスンの途中で喧嘩もしたけれど、音楽は二人の関係を取り持ってくれた大切な恩人の様な存在なのだ。
『友達になりたいのなら…』
と…最初にそれを提案したのは養父だったけれど、確かに当時の小夜にはハジに差し出して与えられるもの等チェロの他に何も持たなかった。突き詰めれば、着る物も食べるものも屋敷にあるものは全て小夜のものではなく養父の物なのだから。
それが当たり前とばかりに物に恵まれた豊かな暮らしをさせて貰っていたけれど、あの頃の小夜は、本当はとても寂しくて、そんな毎日を心から楽しめるものに変えてくれたのはハジの存在なのだ。
あの頃はただ純粋に音楽を楽しんでいられたように思う。
あの頃だけが、二人にとって何の陰りも無い幸せな時間だった。
シュバリエになってからも、ハジは小夜に与えられたチェロを肌身離さず大切にし、折に触れ彼女の為に曲を奏で続けたけれど、しかし辛い戦いの最中で思い出に浸るにはあの美しい景色は眩しすぎた。
薔薇の咲き乱れる庭、大きな屋敷。
そこには優しい養父ジョエルが居て、隣にはハジが居て…。翼手である小夜を娘として育てたジョエルの思惑がどうであれ、小夜の思い出の中ではあの頃だけが何も知らずただ純粋に幸せだったと言えるひと時だったかも知れない。
今ではもう手の届かない懐かしい思い出が次々と小夜の脳裏を行き過ぎてゆく。

音楽に耳を傾ける内、いつしかそんな古い記憶に囚われていた小夜を現実の世界へ連れ戻したのは、ハジだった。いつの間にか溢れていた涙に歪んだ視界…そっと差し出された白いハンカチが労わる様に小夜の頬を拭い小夜が我に返ると心配そうにハジが覗き込んでいる。
記憶の中の少年の面差しを残しながら、その表情は愛する女性を労わる一人の男のものだ。『大丈夫ですか?』とも『泣かないで…』とも言葉にする事はないが、深い海の様な青い瞳はただ全てを受け入れる様に小夜を見詰めている。ハジは、そうして何も言わないまま膝の上で硬く握り締めた小夜の手を取ると、優しく膝の上に導き掌に包み込んだ。
シュバリエであるハジの体温は低い。
そのはっとする程冷たい指先が、強い力で小夜を過去から連れ戻す。
彼はもう、あの頃の少年ではない。
豪奢な屋敷も美しい薔薇の庭も、今は廃墟と化した。
時は無情にも流れてゆくばかりで、決して立ち戻る事を許さない。
小夜の手を握ったまま、ハジはもう先程までと変わらず、舞台の演奏に集中するように前を向いた。
小夜もまたそれに倣いゆっくりと視線を舞台へと戻すと、途端に指揮者の振るタクトの動きに合わせ情感たっぷりに流れ出す美しいメロディーが、小夜を包み込む。
まるで小夜に、過ぎてしまった日々を悲しむ事はないよ…と語り掛ける様に…。
小夜が居住まいを正す様に僅かに体の位置をずらすと、察したようにハジが視線を巡らせてそれを促した。
ハジはいつもそう…。
小夜が何かを口にする前に、その気持ちを察して先回りをする。
小夜は気持ちを読まれたような不思議な気分で、遠慮がちにゆっくりとハジの肩に頭を持たせかけ、溜めていた息を長く吐き出すと、ハジもまたさらさらと滑る小夜の髪に頬を寄せ、短く息を吐いた。
うっとりと眼を閉じるとまるで世界は二人だけになってしまったかのような錯覚を齎し、小夜は無意識に硬くなっていた体の緊張が解れてゆくのを感じた。

どんなに辛い贖罪の旅も、ハジが居てくれたからこうして渡って来られたのだ。
どんな時も、隣にハジが居てくれたから…。
優しい、優しいハジ…。
全てを差し出し、与え、護り、導いてくれたあなた。
その優しい表情の下で、あなたは何を考えているの?
 
どうしてこんなに…胸が痛むの?
 
声に出す事のないその問い掛けに、当然ながらハジが答える事はない。
じわりと視界が歪み、小夜の頬を新たな涙が一粒零れ落ちた

□□□

「寒くはありませんか?…目覚めて、まだ間もないのですから…」
緩くうねる黒髪を揺らして小夜に向き直ると、ハジがぽつりと問い掛けた。
自分がコンサートに誘ったせいで疲れさせてしまったのではないかと、瞳に労わりの色が伺える。
否定しようとした次の瞬間、悪戯な風が小夜の背中を押しよろけた体を力強い腕がそっと支えた。
駄目、ちゃんと立って…私の足…。
「大丈夫ですか?」
優しいまなざしで真っ直ぐに見詰める彼の視線に耐えかねる様に、小夜はコートの裾を閃かせ、慌てて体勢を立て直すと、ふいとそっぽを向いた。
さも何事でもない風を装って、手袋の両手で赤いマフラーの首元を押さえる。
小夜の首元を温かく彩るそれらは、少し早目のクリスマスにハジがプレゼントしたものだ。
そもそも、家まで歩いて帰ろうと言い出したのは小夜の方だ。
市のホールで行われたクリスマスコンサートの帰り道。
タクシーを呼んでも構わなかったけれど、コンサートホールから二人の暮らすマンションまでの距離は歩いてもたかが知れていた。街を彩るクリスマスのイルミネーションを眺めながら、こうして楽しい時間の余韻に二人でゆっくり浸るのも悪くはないと思ったのだ。
それに、タクシーで瞬く間に二人きりの部屋に帰りついてしまったら…。
シンと静まり返った部屋で二人きり、何を話すべきか…ぎこちなく会話が途切れる様が手に取る様に想像が出来た。
「大丈夫…寒くなんかないよ」
数刻前、涙を見られたせいだろうか…。強がった様に響く小夜のセリフにも、ハジは静かに微笑んで瞳を細めただけだった。
不意に小夜は感じる。
以前のハジはこんな風に微笑んだろうか…。
少年の頃はともかく、小夜の記憶の中のハジは、いつも感情を無理に押し殺したような無表情を崩す事無く、微笑む事すら稀少だった。穏やかな時間の流れが、以前は研ぎ澄ました刃の様だった彼の纏う空気をこんなにも和やかなものに変えたのだろうか…。
だとしたら三十年後の今でも、あの戦いの日々をつい昨日の様に感じている自分は、ハジの瞳にどのような姿で映っているのだろう…。
本当なら生きている筈の無かった未来。
実の妹を手に掛けた罪深い私。
こんな風に幸せになって良い筈がないと思うのに、かつての仲間達は皆小夜に優しくて…。
そしてハジは…
形の良い薄い唇が僅かに笑みを象ると、それだけでもう小夜の心はきゅん…と鷲掴みにされる。
記憶の中と寸分変わる事のない美しい青年の姿。
それこそが、彼が人ではないという証しだ。
女性とは明らかに作りの違う節張った長い手足、顎から喉仏に流れる曲線。
落ち掛かる肩程に伸ばした艶やかな黒髪も、澄んだ空の様な青い瞳も、まるで神様が特別に意図して作られた存在の様に繊細で、ずっと見惚れていたいほど美しく整っている。
その美貌の前には下手な小細工など通用しない。
きっと彼は世の女性を虜にする為に存在するのだ…。
そう、私でなくても…、きっと誰もが彼に心を奪われる。
そう思うと無性に悔しくて、小夜はほんの少し唇を尖らせた。
しかしハジ自身は、全くその事に気付いてさえいないのだ。
それとも、小夜の内心の動揺を解かっていて、彼は無自覚を装っているのだろうか。
歩く度に微かに肩の触れる距離がくすぐったい。
こんなに傍に居るのに、もっと傍にいきたい…時々無意識に小夜はそんな風に感じる。
もっと傍にいきたい。
二人の間を隔てるものを全て取り払い、いっそハジ自身に同化してしまいたいほどに…。
それほどまで彼に心を奪われている自分は、もうどこかおかしいのだろうか…。
やっと辿り着いたこの穏やかな世界。
これ以上欲しいものがある…だなんて、自分はいつからこんなに貪欲になったのだろう…。
本当はこうして生きていられるだけでも、自分は全てに感謝しなくてはいけないと言うのに…。
 
小夜は自分を戒める様にきつく唇を噛みしめた。
けれど…。
ハジはどう感じているのだろう?

たった一度だけ告げられた愛の言葉。
小夜はまだ、あの時の彼の言葉にはっきりと答えてはいなかった。
あの時の言葉は、彼の中でまだ失われてはいないのだろうか…。
あの時、ハジと一緒に生きていたいと願ったのは、小夜の嘘偽りのない真実の気持ちだ。
けれど、その心の半分で、実の妹を手に掛けるという…償う事の出来ない罪を犯した自分が、彼の気持ちに応えて良い筈がないとも小夜は思っている。
誰もそれを咎めはしないのだろうけれど、赦せないのだとしたらそれはきっと小夜自身だ。
穏やかに覗き込んでくるハジの優しい瞳に、どう応えたら良いのか解からない。
ハジの心は何を望んでいるのだろう…。
与えられるばかりの自分が、彼に一体何を返せると言うのだろう…。
小夜は無意識に隣を歩くハジの横顔を見上げた。
会話らしい会話も途切れたまま、いつしかもう、賑やかなイルミネーションは姿を消し、辺りは静かな住宅街の一角に差し掛かっていた。
次の角を曲がれば、そのすぐ先に二人の住むマンションが見える。
「小夜?」
コンサートの最中からハジの事をじっと見詰めてばかりいる小夜に、とうとうハジが痺れを切らす様に歩を止めた。
「本当に今夜はいったいどうしたと言うのです?随分大人しくなってしまったのですね?」
小夜が目覚め、誰もが異を唱える事も無く、当然の様に始まった二人きりの暮らし。
けれど、こんなに穏やかな日々は初めてだから?
それとも……今までと何が違うのだろう…。
時折二人の間に流れる沈黙の、甘い重さに耐えきれなくなる。
「…………。そんな事、ないよ。ハジ…」
「…小夜が目覚めて、ちょうどひと月程になりますか?」
差しのべられた指先がそっと小夜の髪をすくい、撫でる様にして離れてゆく。
「…うん」
短い肯定にハジは思案顔で夜空を見上げた。
漆黒の夜空に浮かぶ月が美しい光を投げかけて、二人を誘っている。
ぴんと張り詰めた冬の夜の空気。
高く澄んだ夜空に月はどこまでも明るくて…、白く煙る吐息が柔らかく浮かんでは闇に解けてゆく。
小夜の傍らにはハジの姿。


Thank you very much!
イラスト くーままさま 
「貴女が目覚めるのを、ずっと待っていました…。私は、こうして再び貴女の隣で過ごせる事を…跪いて神に感謝しなくてはいけませんね…」
「………ハジ」
そんな大袈裟な…と言い掛けた言葉を、思わず飲み込んでしまうほど、ハジの表情は真摯なものだった。

けれど、
「…私の様な存在が、神だなどと口にするのは滑稽かも知れませんが…」
ハジはすぐにそう付け足して、見上げる小夜に微笑んで見せた。
彼もまた、小夜と同じくたくさんの同胞をその手に掛けたから?
でもそれは彼自身のせいではない。
全ては小夜のせい、小夜を護るためだ。
「この背中の翼を見たら、人は悪魔だと思うのでしょうね…」
台詞とは裏腹に、ハジの表情はとても穏やかだ。
彼もまた、人ではなくなってしまった己の身を嘆く事もあっただろうに…。全てを乗り越えた表情はいっそ清々しい程で、小夜は否定も肯定も出来ずに瞳を細めた。
「小夜…。それでも……今日は折角のクリスマスイブなのですから…」
ハジは悪魔ではないけれど、大仰に首を竦めて見せる態度は敬虔なキリスト教徒の人々に申し訳ない位だ。「ハジったら、おかしい…」
今の日本だからこそ、人は皆、宗教の色もなくクリスマスを祝うけれど、かつて一度としてそんな言葉を口にした事も無いハジまでもがご都合主義宜しくそんな事を言う。
らしからずそんな態度を取って道化てみせる。
小夜はそんなハジの気遣いに漸く少しだけ微笑みを覗かせた。そして何気なくコートのポケットの上に手を置くと、大切なものを自宅に置き忘れて来てしまった事に気付く。そう、今夜はクリスマスなのだ。
目覚めたばかりの小夜には何も準備する事など出来なかったけれど、それでもコンサートに誘ってくれたハジに対して何もしない訳にはいかないと、小夜なりに細かなプレゼントを用意したのだった。
悩んだ末に、小夜は彼の美しい髪をまとめる為の新しい濃紺のリボンを選んだ。
以前使っていたものは、休眠中の小夜に捧げる薔薇に彼自ら名乗り出る代わりに結んでくれた。
カイがそれを保管し、今は小夜が大切に持っているのだ。
小さな包みをハジにいつ手渡そうか…そんな風に悩みながら、小夜はその小さな包みをコートのポケットに入れた…つもりだった。
きっと入れたつもりで、テーブルの上に出しっぱなしにして来てしまったのだ。
自分の段取りの悪さに一瞬表情が強張るのをハジが見逃す筈無かった。
「小夜…?…どうしました?」
「…あ、あのね。ハジ…。私、ハジにクリスマスのプレゼント…用意したんだけど。…お家に忘れてきちゃったみたいなの…だから…」
慌てて言い訳をするように、小夜は言い募る。
ハジは、頭一つ分は優に高い背を折る様にして小夜を覗き込むと『プレゼントの催促をしたかった訳ではありませんよ』と笑った。しかし、にこやかな微笑みは不意に真顔に変わる。
「…ハジ?」
「………小夜」
「……………何?」
「…では、折角のクリスマスですから…小夜から私の欲しいものを一つ頂けますか?」
ふざけているようで、どこか切迫したようなハジの青い瞳。
「…な、何?」
答える小夜の声も微かに震えていた。
腰を屈めたまま、ハジが小夜の耳元で囁く。
「………もし願いが叶うのならば…」
「…ハジ…?」
「私が欲しいものは、遠い昔から一つだけです…小夜」
それはとても静かな声で、小夜の心に深く沁み渡った。
間近で青い瞳が揺れている。
ハジの欲しいもの…?
「笑って…小夜。貴女の笑顔を私に下さい…」
この先もう二度と、心から笑える筈などないと思っていた。
かつての仲間達が、休眠から覚めた小夜をどんなに優しく迎えてくれようとも。
いくらこの世界が平和になったのだとしても。
小夜にのしかかる重い罪の意識が消える事は永遠に無いのだから。
自分を責める小夜の心を見透かす様に、優しい青い瞳が真っ直ぐに小夜を見詰めている。
ただ何も言わず、ありのままの小夜を…。
本当は知っていた。
本当は気付いていたのだけれど。
ハジが小夜の全てを理解し、全てを赦し、全てを愛してくれている事を…。
この腕の中だけは、ありのままの自分を赦し受け止めてくれる事を…。

ハジは優しくて…。
でも、だから…。
この胸に自ら飛び込んではいけないのだと言う事も…。
「…ごめ…。ごめ…んなさい…ハジ…」
どうしてこんなに涙線が緩くなってしまったのだろう…。
小夜は慌てて手袋の指先で目元を隠した。先程の涙と目覚めてからずっと堪えていた涙が、何もかもが混ざり合い一つになって、堰を切った様に溢れ出す。赤く染まった頬をぽろぽろと零れ落ちる涙を、ハジはもうハンカチを出して拭うような真似はしなかった。
そのまま華奢な小夜の体を強く腕の中に抱き寄せる。
濡れた頬の熱を乞う様に自らの頬を重ね、きつく伏せた小夜の瞼にそっと唇を落とす。
「小夜…。小夜…どうして、貴女が謝るのです?」
「…ハジ。…私、ハジに甘えてばかりで…。こんな私に、優しくなんてしないで…」
「貴女を泣かせたくないと心から願っているのに…私が泣かせてしまいましたね。…小夜」
「……………」
ハジに対して、何も返す事が出来ない。
ジョエルの屋敷で過ごした頃から、ハジが居てくれる事でどれだけ救われたか知れないと言うのに…。
しばしの沈黙の後、すみません…と小さな呟きがすぐ間近で聞こえた。
湿った吐息が触れ、ハジ…と呼ぶ唇を彼のそれが塞ぐ。
柔らかな唇を割ってゆっくりと小夜を求める唇が、次第に深く絡みついてくる。
流されそうになる、ギリギリのところで小夜はハジの胸に腕を付いて耐えた。
「…んっ。ハジ…待って…」
更に強く抱き締めれば黙らせてしまう事も出来そうな程、その抵抗はか弱かったけれど、ハジは敢えて小夜を尊重するかのように、そう答えた。
「小夜が触れるなと仰るのなら、私はもう二度と貴女に指一本触れません。本当に、私はこうして貴女の傍に居られるだけでも、全てのものに感謝しなくてはいけない立場なのですから…」
そんな台詞を、ハジはどんな気持ちで告げるのだろう…。
優しい彼にそんな台詞を、言わせてしまうのはまぎれも無い自分なのだと、小夜は痛む胸を抑えて、彼を見上げた。本当は自分も同じ気持ちなのだと…喉まで出かかった言葉を、小夜はうまく発する事が出来ない。心の中でその気持ちを認める事と、彼に打ち明ける事とでは月と太陽程も違う。
「…そうじゃ…ないの…」
優しい青い瞳に映り込む自分の顔はどこか歪んで見えた。
「……そうじゃ…」
「小夜?」
「…………そうじゃないの」
ハジの事が嫌な筈がない。
たった一人、一緒に生きたいと願った男性。
遠い昔からずっと、見ない様にしてきたこの胸の痛みと誤魔化す事無く向き合えば、この痛み…そしてこの涙こそが彼に対する愛情の発露なのだと知っているけれど…。
ハジがそう望むのならば、その全てを叶えてあげたいと思うのに…。
こんな自分が、彼の愛を与えられるがまま享受して良い筈がないと心の中で、もう一人の自分がブレーキを掛ける。
…………駄目…
…駄目…
この腕に、これ以上甘えては駄目…。
一人で…立たなきゃ…駄目。

「……ハジを…嫌いな筈…ないよ…」
だけど…。
小夜の声は震えていた。
「小夜…貴女が考えている事は…手に取る様に解かります」
静かな声が頭上から降った。
抱き締める腕の力を緩める事なく、ハジは言い聞かせるようにそう言って小夜の顔を覗き込んでくる。
「そうして自分を責め続ける貴女の生真面目さを、愛しく思っています…」
「…………」
答える事の出来ない小夜に、重ねてハジは言った。
「貴女を、愛しています…」
「…ハジ」
知っている。
解かっていた…。
けれどそれは…。
それを、こんな距離で言うのは狡い。
吐息が触れるほど傍で覗き込まれて、愛を囁く、だなんて…こんな状況で彼を拒める女性等いない。
解かっていて、彼はそう仕掛けているのだ。
小夜の声にはそんな非難さえ滲んでいたけれど、ハジはそれを聞き流した。
「少年の日からずっと貴女一人だけを見詰めてきたのです…」
「………駄目よ。言わないで…」
「…待とうと思いました。……貴女の心の傷が癒え、本当に心の底から笑えるようになるまで…。どれだけの時間が必要だとしても、私は…待てると…」
「ハジ…」
「…しかし」
ハジが言葉を切り、しばしの沈黙が辺りを包む。
通りに人影はなくて、小夜はその強い抱擁から逃れる事も出来ないまま、諦めた様にやがてゆっくりとその体をハジの広い胸に預けた。
優しい腕が、小夜の体重を受け止める。
所詮は無理なのだ。
彼を拒み続ける事など、自分には出来はしない。
「ずっと…何が一番貴女の為であるのか…迷っている事も確かでした」
「…………私の…為?」
問い掛ける様に語尾を上げておきながらも、ハジがいつも最優先に自分の事を考えてくれている事に、小夜は納得している。そうして貰う事に、今更ながら慣れ切ってしまっているのだと思い知らされる。
「もう、何もかも一人で背負う事はないのです。誰も貴女を責める者はいない。貴女が翼手の始祖である必要性はない。そして私は…貴女を支える為に存在するのです…」
「…だって」

私の為でなく…もう自分の事を考えて…。
ハジ…。


「この状況で、貴女の気持が私に向いている事を承知の上で、こんな選択を貴女に迫るのは狡い男の手管なのかも知れませんね…」
「ハジ…?」
「……ですから、もうこの腕は解きません。貴女が自分を責める必要もありません、私は私の意思で………貴女に知って欲しいのです。……それを私が、教えて差し上げたいと…」
始祖とシュバリエの関係がいくら主従のそれであったとしても、翼手としての潜在能力が勝っていようとも、腕力で小夜がハジに適う筈はない。
「それを教えるのが、他の誰でもない私であって欲しいと…思っていました」
小夜がいくら抗ったところで、言葉通りハジの腕は揺るがなかった。
「…知るって……?」
ハジはいったい何を言っているのだろう…。
ハジが小夜を抱く腕の力がぐっと強くなる。
「始祖でなくなった貴女は、ただの護られるべき一人の女性だと言う事を、です。そして、私はシュバリエとしてではなく、この先一人の男として…貴女を護りたいと思っているのですよ…」
知っていたでしょう?とふわりと微笑む、その掟破りの微笑みの前に小夜は為す術を失う。
「ハジ…」
「貴女は、彼女の分までも…幸せにならなければならない…。それを手伝うのに、私では役不足ですか?」
問い掛けておきながら小夜の答えも待たず、細い体が重力を無くした様にふわりと浮かんだ。
その両腕に花嫁の様に抱き上げられて、小夜は戸惑いを隠せない。
「帰りましょう…。あの部屋に…」
二人で暮らす為にだけ整えられたあの場所へ。
「ハジ…待って。…これ以上私を甘やかさないで…」
尚も言い募る小夜の濡れた瞳を、ハジはさも意外そうに間近に覗き込んだ。
「甘えて下さい、小夜。神に誓って…、私はもう決して揺るぎません。私はその為に存在するのですから」
「ハ…ジ……。…あ、…ん」
舞い降りてくる優しい口付けが、小夜から反論の言葉を奪った。
華奢な体から緩々と力が抜けてゆくのを見計らう様に、ハジが彼女を抱き上げたままコツンと路上に足音を響かせた。小夜の心の悲しみも、戸惑いも、そして罪の意識さえ、全てをその腕に抱いてハジはマンションの部屋のドアを開ける。
 
今夜はクリスマス。
誰もが神に祈り、その幸せを求める夜。
二人の間に、もう言葉はいらない。


                               ≪了≫

20090114
はあ。何とか更新出来ます。
今更なんですけど、2008年クリスマスの為に書いた為に書いたSSです。
今となってはもう、何が何だか…。
一番最初に書こうと思った話とは全然違っているのですが、それもまあ自然の流れと言うか。
時間かけ過ぎると、書きながらどんどん自分の考えも変わってゆくと言う事ですね。
一つに、大人の男ハジを目指すという目標を掲げていたのですが、自分の中で大人の男がどういうものだか
解からなくなってくる始末。
~~~~強引に押し倒しちゃう方が良いのか。
~~~~それとも、いつまでも待つ男が良いのか。
(多分、本編アニメのハジならいつまでも待つよなあ~)
結局こうなりました。あくまで穏やかに(笑)あくまで優しく(笑)しかし結局押し倒すんだろうなあ。
ただ、まともに考えると、30年後の小夜たんがそんなに簡単にディーヴァの事とか双子の事とか割り切って幸せに浸っちゃうとは思えないのですが、
だからこそハジにはちょっと強引に迫って欲しいという願望を込めて。
なんつうか、もう全てを受け止めちゃう。小夜の苦悩も愛情も、全てを理解した上で全て受け止めてくれ。
ハジ頑張れ。

ともかく、今年は真面目に頑張るぜ!と言う決意のもと…しつこく最後まで書けて良かったです。
次はバレンタインだ!!


~~~~長々とここまで読んで下さいましたあなた、どうもありがとうございます!
もしかして気長に待っていて下さったあなた、もしそんな奇特な方がいらっしゃいましたら、どうもありがとうございます!


ちなみに、タイトルの『Prière』とは、フランス語で『祈り』と言う意味だと思うのですが(苦)発音さえ正確に解からんよ。
ただ、過去にもそんなタイトルのSSを書いた事があるような気がして、急遽翻訳してみました~。
タイトル考えてなかったんです~~~~。

くーままさまから素敵イラストを頂きました!くーままさま、どうもありがとうございます!!