〜春風〜         


まだ少し寒い春の風が、黒い髪をふわりと舞わせる。
黒く美しい絹糸の様な髪に戯れる春風がまるで目に見えるかのようだ。
風は気まぐれに野薔薇の枝を揺らし、

明るい陽の光に輝く新緑を撫でると、

どこか誇らしげに嬉しそうに微笑む彼の髪に触れて、

やがて小夜の頬に優しい口付けを落とす。
その表情にはまだどことなく少年臭さは抜けないまでも、

すらりと伸びた背は小夜を僅かに追い抜いていて、

すんなりと長い手足に上質の黒いスーツは良く似合った。
自分が選んだ真っ白な絹のドレスシャツに、

スーツと同じ生地で仕立てたリボンタイ。
昨日までの彼と中身は何も違わない筈なのに、

小夜はどこか気恥ずかしくて真っ直ぐに彼の瞳を見る事が出来ず、

そっぽを向くようにして澄んだ青い空を見上げた。
「…サヤ?どうかなさいましたか?」
「…何でもない。ハジなんか嫌い」
十六歳になったばかりの少年は、突然のサヤの不機嫌に戸惑いながらも、

そんな気まぐれな主の態度には馴れたものなのか、

さして気に留めた風もなく脇に置いた剪定鋏を手に取った。
「温室の方にはもう蕾が付いていましたから…

そろそろ開いている花もあるかと思いますよ。

見に行ってみましょうか?」
「駄目よ…温室の薔薇はジョエルが大切にしているものだから、

勝手に切ったら怒られるかも知れないじゃない…」
この屋敷の中でサヤの事を本気で叱る者など居ないと言うのに、

何が気分を害したのかサヤはそんな事を言って拗ねる。
「…そうでしょうか?…では少し散歩でも。

温室まで行って、もし薔薇の花が咲いていなくても楽しめるように、

サヤの好きな焼き菓子を持って行きましょう?

それとも林檎が宜しいですか?芝の上に敷物を広げて…」
サヤの不機嫌など気にも留めないハジの穏やかな笑顔と楽しそうな申し出に絆されて、

サヤは半ば渋々という態度を装って、小さく頷いた。
ハジはポーチの片隅にサヤを待たせると、急いで屋敷の中に戻り、

厨房へ駆け込むとバスケットにサヤの好む菓子と果物の類を詰め込んだ。
余り待たせては、また彼女の機嫌を損ねてしまう。
慌しく廊下を過ぎる、額に落ちる前髪をかき上げ…

何気なく横を見ると廊下の壁に掛けられた大きな丸い姿見に、

見慣れない衣服を身に着けた自分が映っている。
昨日まで後ろで一つに編んでいた髪を解く事にしたのは、

サヤが気まぐれに『いい加減十六歳にもなったらお下げなんて止めなさい』

…と言ったからで、今身に付けているスーツも全てサヤが見立ててくれたものだ。
もしかして…余りにも似合わないから、

それでサヤは機嫌が悪くなってしまったのだろうか。
ハジはサヤを待たせている事も失念して、

鏡に映りこむ自分の姿をじっと凝視した。
 
□□□
 
「ほら…、まだ咲いてなかったじゃない」
大きなガラス張りの温室のドアに手を掛けて、ハジはゆっくりと振り返った。
サヤの不機嫌は変わらずで、折角温室まで足を運んだと言うのに、

お目当ての薔薇の蕾はまだ開いてはいなかった。
「…すみません、サヤ。でもきっともう明日か明後日には咲きますよ。

そうしたら私が朝一番に摘んでサヤの枕元に生けますから」
「…すみませんなんて、ハジが謝る事じゃないじゃない…」
ハジの謝罪にそんな風に勢いが緩む。年上とは言え…

ハジはそんなサヤの態度をとても可愛らしいと思う。
「でも、ほら。そんな時の為におやつを持ってきたのですから。

あちらの日当たりの良い芝生に敷物を広げましょう…サヤ」
「うん…」
思いがけず素直に、サヤはドレスの裾を持ち上げた。
優雅な身のこなしでふわりとスカートを靡かせる。
すれ違いざま、結い上げたサヤの髪からほのかに甘い花の香りがした。
いつもは肩に下ろした長い髪をゆったりと結い上げているお陰で、

彼女の白く細い項が露になっているのだ。花の香りだと思ったのは、

サヤの付けているパフュームだろうか?
たったそれだけの事なのに、不思議とハジの胸が鳴った。
酷く落ち着かない。
いつもは意識などした事もないのに、

急に自分とサヤでは全く次元の違う別の生き物のような錯覚を覚える。
「…ハジ?」
一瞬動作の止まった従者に対して、サヤがいぶかしむ様にハジを呼んだ。
「〜な、なんでもありませんから。さあ…どうぞ。サヤ」
ひっくり返りそうな声を抑えて、

ハジは広げた敷物の上にサヤを座らせると

バスケットから赤いりんごを取り出し、

胸の内ポケットから取り出したナイフの鞘を外すと器用にりんごを剥き始める。
手元にじっとサヤの視線を感じる。
不意にサヤが訊ねた。
「ねえ、ハジ。いつから自分の事を“私”なんて言う事にしたの?

ずっと前は“俺”だったよね?…それに、身長だって…」
敷物の上に腕を付いて、ぐっとハジの傍に身を乗り出してくる。
突然何の関連も感じられない質問をされてハジが顔を上げると、

自然…目線の先にサヤの白い胸の谷間が覗く。
決して胸元を強調するデザインでもないのに、

そんなところに目が行ってしまう自分に激しい自己嫌悪を感じつつも、

ハジはサヤの質問に答えるべく振り返ってみるが、

はっきりとそれがいつの事なのか…など覚えてはいない。
「さあ、自分では意識して覚えていません…けど、…それが何か?」
サヤはほんの少し寂しそうな表情を覗かせ、

小さく「何でもないの」と首を振った。
「…おかしなサヤですね」
「……だって、ハジも大人になっちゃう」
「…………」
それはそうだけれど…。
それが何だというのだろう。
ハジはサヤの言う言葉の意味を理解し切れずに、

曖昧に相槌を打って再び手元に視線を落とす
「もしかして、…余りにも似合わなくて、

それでご機嫌が悪かったのですか?またお下げに戻しても構いませんし、

このスーツだって…」
先程からずっと気になっていたその質問を、

ハジは何気なくを装って言葉にして投げかける。
サヤは、青々とした芝生に視線を泳がせながら、

何かもぞもぞと唇を動かしている。
「…サヤ?」
「…下ろした髪も、スーツもよく似合ってる…わ…」
「では…どうして…そんな不機嫌だったんですか?」
ハジにはそこのところが良く分からない。
「…良く、似合ってたからよ」
「何なんですか?それは…」
本当は心の中で、どれだけサヤの反応を気にしていたと思うのだ。
しかしそんな事をサヤが知るはずもない。
「…判らなくても良いのよ」
怒っているのか、呆れているのか、

どちらとも付かない表情を覗かせて、

サヤはぷいっとそっぽを向いてしまった。
ハジは手元のりんごを仕上げると、

「はい」…と何事もなかったかのように

そっぽを向いたサヤの目の前に剥いたりんごを差し出した。
「…頬が赤くて、サヤの方がりんごみたいです。
差し出されたりんごは皿の上でちょこんと丸く座り込んだうさぎの形をしていた。
「…う…さぎ?………可愛い。食べちゃうなんて…可哀相になっちゃう」
少しびっくりしたようなサヤの表情が見る見る綻んでゆく。
「ええ、耳の形に皮を残して剥いてみました」
綺麗に耳の形に残された赤い皮で、すぐにそれと判るりんごのうさぎ。
「サヤ…。もっと笑って…」
「………?」
皿にのったうさぎを手に取ったサヤがきょとんとハジを見詰め返す」
「…でないと私は…」
「………でないと?でないとハジはどうなの?」
どうしてこう…サヤは鈍いのだ…ハジはそんな風に思う。

自分の方が余程子供っぽいのだという事を判っているのだろうか?
「…判らなくても良いんですよ」
先程のサヤと全く同じ台詞を選んで、ハジは笑った。
「ハジ…ちょっと生意気よ」
「…すみません」
本当に、可愛いのはりんごではなく…サヤの方だ。
ハジはやがて訪れる恋の予感に、今はまだ気付かないふりをして…、ぎこちなくその黒い髪をかき上げた。
いつか…。
いつか…。
サヤ…。
 
鮮やかに輝く新緑を揺らし、

気紛れに、春の風が柔らかく二人の間を吹き抜けていった。


20080423
珍しく動物園の中ハジ描いたので、SS(本当に短いよ)つけてみました。
今更、あんなのやこんなの…書いてる癖に
ちょっと…純情でもどかしい恋愛以前の二人です。
サヤ…数年後にはりんごみたいに剥かれて頂かれちゃう訳ですよ(笑)
フランスではりんごをうさぎに剥くのか????判りませんけれども。

りんごをうさぎに剥くと言う事で、自分勝手に奉げさせて頂きます。
どなたにかって?…うふふ。