□□□
 
「旅に出ましょう。…私達の事を知る人が誰も居ない場所へ…二人きりで…」
どんな時も冷静な表情を崩さないハジが、いつになく思い詰めたような表情でそう言ったのは、小夜が長い休眠期から目覚めて間もなくの事だった。
遠い昔。
あの美しい薔薇の庭で、『いつか二人で世界中を旅して周りましょう…』と約束したのは二人がまだ何も知らない少年と少女であった頃だというのに、たった一人の主である少女と交わしたそんな古い約束を、律儀にも彼は覚えていたのだ。
 
それは冬の終わり。
暦の上ではもう春だと言うのに花弁が綻ぶにはまだ空気は冷た過ぎて、風は身を切るような鋭さを含んでいた。
 
 
 
 
『融点』       三木邦彦
 
 
 
□□□
 
スペインの古都、トレド。
古い歴史を抱えるこの街は、中世ヨーロッパ随一の栄華を誇り、政治、経済、文化の中心であり続けたのだという。
三方を川に囲まれた岩山に築かれた天然の要塞都市であり、中世当時の街並みをそのままに残す旧市街は、まるごとが世界遺産に登録されている。
灼熱の太陽に焦がされた赤褐色の大地、横に長い大きな空はどこまでも青く澄んで、雄雄しく茂る常緑樹の木立が南からの風に揺れる。そんな自然を背景に建造された街並み。
アーチ型の石橋、迷路のように入り組んだ石畳の路地、そしてレンガ造りの家並みにそびえ立つ荘厳な大聖堂。
一目見るなり、その美しい景色は、中世のままこの街だけが時間に取り残されてしまったかのような錯覚を見る人に植えつける。
 
初めて訪れた場所だというのに、それはどこか…互いに寄り添うように長い時を駆け抜けた二人にとって、懐かしいような不思議な景色でもあった。
 
こつんこつんこつん…
日の暮れた街外れ。
そんな歴史ある古い石畳に並んで響く二つの足音。
冷たい冬の空気に、吐く息が白く…まるで煙のように立ち上っては消える。
それが面白くて、小夜は何度も深呼吸を繰り返した。
「雪…降らないかな?」
「…そこまで気温は低くないでしょう…。それに…」
ハジはゆっくりと空を振り仰いだ。
つられて…小夜もまた仰け反るようにして見上げれば、いつしか空は真っ暗な闇が支配していた。
冬の澄んだ空気に、いくつかの星が眩しく輝いている。
本当だ、こんなに星が綺麗では雪なんて降る筈もない…。暗い漆黒の空はまるで彼のようだと、小夜は唐突に後ろを歩くハジの美しい瞳を脳裏に思い浮かべた。
「小夜…、上ばかり見て歩いていると転びますよ…」
ぽかんと夜空に見蕩れる小夜に、ハジは注意を呼びかける。
背中から声がして、小夜は慌てて振り返った。
「だ、い、じょう、ぶっ」
わざとらしい程明るく大きな声で、赤い頬をした少女は答えてみせる。
どこかぎこちない小夜の態度に、黒衣の青年の表情は傍からはそうとは見て取れないほど微かに強張った。
 
 
□□□
 
唐突に、小夜がトレドへ行こうと言い出したのは、マドリードに滞在していた、つい一昨日の夜の事だった。
 
休眠から目覚めて以来、沖縄で親しい人々と過ごす時間は小夜に今までにない幸せな日々を与えていたけれど、時折彼女が覗かせる悲しげな瞳をハジは見過ごす事が出来なかった。
これまでずっと翼手を倒す為の兵器として生きてきた小夜。
三十年という長い眠りから覚めた小夜は、依然として翼手の女王としての能力を備えながらも、たった一人の双子の妹であるディーヴァを失い、また次世代の女王が誕生した事で、実質彼女を縛るものは何も無くなった。
世界は嘘のように穏やかだ。
けれど、三十年という長い時の流れをまるで一夜の夢のように飛び越えて目覚めた少女にとっては、世界は戸惑う事ばかりが満ちているように、ハジには思えてならなかった。
時を経て、歳相応に齢を重ねた仲間達の中で、その愛しい笑顔の向こうに時折覗かせる寂しげな横顔を見ると、彼の胸は張り裂けるように痛む。
人類と翼手とでは流れる時の速さが余りにも違い過ぎる。
自分だけが取り残されてゆく寂しさ。
死を見詰めて戦い続けたあの時ですら、そうであったのに…、皮肉にも漸く手に入れた平和な時代は自分達がいかに人類とは掛け離れた存在であるかを浮き彫りにさせる。
人として育った彼女が、その事実に傷付かない筈はないのだ。
共に戦った仲間達は、小夜にとって家族と同じ存在であるのに…。
 
自分達を知る誰もいない場所へ、日常と離れた時間であれば、少しは彼女の無邪気な笑みを取り戻せるのではないかと、ハジは小夜を旅に誘った。
「旅に出ましょう…」
というハジの言葉に、小夜は縋るような瞳をして頷いた。
 
この先、どこへ行こうと構わない。
勿論、小夜がトレドへ行きたいと言うのであれば、トレドへ。
これは目的などない、元々予定など立てない旅なのだから。

□□□ 

ホテルのベッドの上に広げた荷物の真ん中で、観光ガイドを片手に小夜はそのページをハジに指し示した。

早くハジの了解を得たくて、うずうずしていたらしい。
シャワーを使っていたハジをまるで急かすようにバスルームのドアをノックした。
小夜がそんな事をするのは初めての事で、戸惑いながら『今着替えますから、待っていて下さい』と答えるハジをとうとう引っ張り出したのだ。
シャワーを浴びたばかりで、まだぽたぽたと雫の垂れる黒髪を大きなバスタオルで拭きながら、ハジは彼女の傍らに腰を下ろした。急かされて…濡れた肌に仕方なく羽織った真っ白なバスローブの前を心持ち合わせ…髪から垂れる雫で誌面を濡らしてしまわないように気を遣いながら小夜の手元を覗き込むと…
『もしスペインに一日しか滞在出来ないなら、迷わずトレドへ行け』と記された一文と美しい中世を思わせる街並みの写真が目に飛び込んだ。
別に一日しかスペインに滞在できない訳じゃないけど、そんなにまで言うなら行ってみるのも悪くはないよね…?と、悪戯っ子のように微笑む小夜を前に、どうしてハジにその提案を断れるだろう。
ハジと同じ、厚手のバスローブに身を包んだ少女の胸元と乱れた裾を気に掛けながらも『美しい街並みですね…』と当たり障りのない事を答えると、小夜の大きな瞳とぶつかった。
先に入浴を済ませた小夜が、湯上りにいつまでもそんな無防備な姿でいるとは予想もしていなかった。遠い昔から、自分が美しいという事に、彼女はあまりにも自覚がない。
漣のように乱れた白いシーツの上でしどけなく膝を崩して座る…その美しい脚線と、白く眩しい胸の谷間。
誘っているのか…もしくは全く意識されていないかのどちらかだ。
抱き締めて口付ける…その先の行為は小夜にとって、未知なる領域だ。
小夜に限って…そんな誘うような真似が出来るはずは無いと知りつつも、ハジはこれが一つの転機になるのかも知れないと…そんな一つの可能性を思う。
けれど、彼がつい身を乗り出したのは、どう言い繕っても小夜を愛する男の本能だった。
赤く色付いた唇がうっすらと開く。
「………」
怖がらせないよう細心の注意を払ってハジはその指を伸ばす。
男性にしては細く整った指先が彼女の前髪をそっと払い、丸みを帯びた白い額にそっと唇を落とすと、男の疚しい心を見透かすような真っ直ぐな瞳がゆっくりと閉じた。
ハジは指先を柔らかな頬に滑らせると、口付けを額からその赤い唇へと移動した…許しを請うようにそっと…。
僅かに触れるだけの、優しいキスをして、そっと背中を抱き寄せる
己の欲望のまま不用意に触れたら、壊してしまいそうな程…その華奢な体の線に胸が鳴る。
これまでにも数え切れないほど抱き上げた体であるのに、その状況が違うだけで、その印象はまるで違う。いや、自分が…自分の思いが違うのだと、ハジは思う。
そのあまりの頼りなさに一瞬躊躇い、それでもハジがタイミングを計るようにそっと身を寄せると、小夜の全身が大きくビクンと揺れて、男の腕から逃れるようにさり気なく身を引いた。
それが偶然なのか、彼女なりの拒絶なのか、定かではなかったけれど…、流石にいつもとは明らかに違う空気に戸惑ったのか、小夜の背中を抱いた腕に彼女の緊張がひしひしと伝わる。
ハジは、小夜には判らない様に小さく溜めていた吐息を零した。
何よりも大切なのは、自分の想いではなく…小夜自身なのだから。
彼女が望まないのならば、これ以上触れてはいけない。
「小夜…、トレドへ行くのなら…明日の出立は早い方が良いでしょう…」
どこまでも高い冬の空のように青く澄んだ瞳を優しく細めて…。
「…ハジ」
どこか縋るような表情で、小夜が小さくハジの名を呟いた。
疚しい心を封じるように、ハジは続けた。
「さあ、もうここは片付けて…お休み下さい」
 
二人は少ない荷物をまとめると、翌朝にはトレド行きの路線バスに乗り込んだ。
 
三十年という長い眠り…ただじっと彼女の目覚めを待つ己と、決して自ら望んでの事ではないのに、待たせる身の小夜とでは、一体どちらが辛いのだろう。
彼女を待つ三十年の間に、長い間、抑えてきた小夜に対する深い想いは、もう堰を破って溢れ出し、彼女の意向を確かめる間もなく小夜を飲み込んでしまいそうな程で…、それならばいっそ、その身に秘めた情熱そのままに小夜に跪き愛を請えば良いのかも知れないけれど…。
人類とは比べようもない長い寿命を持つ翼手の身を持ってしても三十年という年月は長い。
それを眠って過ごす小夜にとっては尚更、目覚めた世界はただでさえ戸惑う事ばかりの筈だ。
そんな彼女に、強引に自分の想いを押し付ける事など…ハジにはとても出来なかった。
 
怖がらせはしないか…
泣かせてしまうのではないか…
傷付けはしないか…
……嫌われてしまうのではないか…
 
 
□□□
 
目の前で…石畳の上を軽やかに跳ねる少女の後姿を見詰めて、ハジは願う。
ただ少しでも、彼女の長い眠りが安らかであれば…そして再びこうして自分の元に戻ってくれるのであれば…。本当なら彼女が共に生きる道を選んでくれただけで…、自分はそれ以上を望んではいけない。
けれど…、あの時…あのオペラハウスで、最後に小夜がくれた彼女からの口付けを思い出す度に、ハジの胸は狂おしく掻き乱される。
記憶の中で反芻されるその瞬間、確かに自分達の心は一つに結ばれていたと思う、けれどそんな甘い記憶も三十年という月日の前には、まるで儚い夢幻のようだ。
 
「小夜っ…危ない…」
足元の段差に躓いたのか…前を行く少女の小さな背中がバランスを崩した瞬間、ハジはまるで宙を飛ぶような軽やかさでひらりとその傍らに寄り添っていた。
「大丈夫…ハジ」
大袈裟に差し出されたハジの腕を申し訳無さそうに押し止めて、小夜は小さく笑った。
そして遠慮がちにそっと指を重ねると、まるでもどかしい愛撫のように優しく、繰り返しハジの掌を撫でて…じっと美しい青年の表情を伺うように覗く。
まただ。
時折見せるそのどこかぎこちない笑顔に戸惑いながら、ハジはその違和感…そして一抹の寂しさにも似た胸の痛みを耐えるように押し隠した。
少し長めに切り揃えた前髪の下から覗く小夜の円らな褐色の瞳、その中に…どこか拒絶とも違う…、けれど酷く複雑な感情の色が見え隠れしている。
「ハジはちょっと心配性過ぎるのよ…」
「…そうでしょうか?」
「大丈夫って言ったのに…。でも、ありがとう…」
小夜の頬が不自然に赤い。
ハジは無意識に指を伸ばしていた。
冷たい風に当たってなお、指先で触れた小夜の頬は火の様に熱い。
「や…ハジ…」
弾かれたように小夜が身を硬くする。
まるで不意を付くように伸ばされたハジの指先に抗議するかのように…
「…いや…」
赤く染まった頬を隠すように身を翻した小夜の腕をそれより一瞬早くハジが捕らえた。
けれど…その緩い拘束を振り切るようにして、小夜は駆け出した。
「小夜…待って」
一瞬振り返った彼女の、噛み締めた赤い唇に視線が囚われる。
先程までのご機嫌が嘘のように、小夜の瞳は潤んでいた。
ハジの腕を振り払ってしまった事で、もう引込みが付かなくなってしまったのか…それとも今にも零れそうになる涙を隠す為なのか…今度こそ本当に小夜はハジに背を向けて古い石畳の道を駆け出した。
「小夜っ…」
古い石畳に響く、ハジの静かな声音に僅かな動揺が混じる。
 
ハジにはきっと解らないだろう…
何故小夜がこんな風に、逃げるように駆け出したのか。
どうして彼女の頬が燃えるように熱いのかも。
 
「…小夜っ」
「嫌って言ったの…」
けれど次の瞬間、駆け出したはずの小夜の体は背後からすっぽりとハジの腕に包まれていた。勿論本気を出したハジの脚力に小夜が敵う筈がない事は小夜にも十分解っていたけれど。
「小夜…」
すぐ耳元で、ハジの優しい声が小夜を呼んだ。
「………」
「…小夜、周りを見ずに突然駆け出しては…」
ハジが足元を気に掛けるので、つられて小夜も足元を見下ろす。
ハジの腕ががっちりと小夜を抱き締めるその足元、柔らかなカーフのロングブーツの爪先数センチ先に、大きな水溜りが広がっていた。
「足元が暗いのですから、気をつけて下さい。お気に入りのブーツが濡れたら…」
「……そんな事…大丈夫って言ったじゃない。それにブーツなんか…濡れたって良い」
「……しかし」
そうしていても、ハジの腕が緩む気配はない。
「大丈夫…」
「…しかし、ホテルとは…方向が逆です。小夜…」
「……どうせ、私は方向音痴だもの」
拗ねたように語尾が震えて響いた。
それはつまり、小夜がハジに対して無性に甘えている証のようなものだけれど…。
何事に対しても聡明なシュバリエでありながら、ハジは小夜に対して優し過ぎ、その上盲目なのかも知れない。
小夜は背後から抱き締めるハジの腕を振り解こうと僅かに力を込めて体を捻る。
いつもなら、その意を汲んですぐに力を緩めてくれるハジの腕が、今夜に限って緩む事はなかった。
「離して…」
「小夜…」
「ねえ、ほら…向こうから人が歩いてくるよ…ハジ…」
離して…
「…小夜。…小夜、別に見られても、……構わないでしょう?」
「だって…恥ずかしい…」
抱き締めるハジの腕に顔を隠すようにぎゅっとしがみ付く。うろたえる小夜の心配を余所に、人影は二人の傍らを通り過ぎる前に、細い路地へと消えて行った。
「…ハジ」
ほっと胸を撫で下ろし、ねえ…離して…とハジを呼ぶ。
「…………」
「ハジ?」
返事もなく、抱き締める腕の力が緩む事もない。
「ねえ、ハジ…」
繰り返し…小夜が恐る恐るハジの名前を呼ぶと、しぶしぶと言った風で、ハジが口を開いた。
「あなたが…」
思わず聞惚れる程…とても低く美しく響く静かなハジの声。
「あなたが、…捕まえて欲しそうだったので…。小夜…」
まるで誘うように、ちらつかせるのに…
触れようとすれば、ふわりと身をかわし…
「………」
心の底を見透かされたような気がして、小夜はますます自分の頬が熱くなるのを感じた。
いつも冷静なハジが…まるでいつもとは違い、旅に出ようと言ったあの時のように、思いつめた様子でこう続けた。
「…いいえ。…それ以上に、……今、私があなたを抱き締めたいのです」
小夜を抱く腕の力は一層強くなり、背後からぴったりと彼女の頬に頬を寄せると、風に舞い上がった美しい彼の黒髪が小夜の視界を覆うように彼女を包みこんだ。
慣れ親しんだはずのハジの香りに不意に胸が高鳴って…小夜はゆっくりと深呼吸を繰り返した。ほんの少しだけ全身の力を緩めると、途端に背中に当たる彼の胸や抱き寄せる力強い腕の感触がリアルなものに変わり、そして…自分より少し低いその優しい温もりに小夜は胸の奥がぎゅっと締め付けられたような痛みを覚える。
「…涙の訳を教えて下さいませんか?小夜…」
「泣いてなんか………」
「いませんか?あなたの涙は…私の本意ではありません」
ハジが大きく息を吸い、その広い胸がゆっくりと揺れた。背中でそれを感じながら、小夜もそれに合わせるように、もう一度ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
吐息が白い。
けれど小夜にはもう、先程までのような…立ち上る白い呼気を楽しむ余裕を失っていて、胸の前で組まれたハジの腕にぎゅっと爪を立てた。
呼びかけに応える様に、ハジの掌がそっとそんな小夜の指先を包み込んだ。
すっぽりと包んで、宥めるように繰り返し撫でる。
片手は小夜の指先を包んだまま、ハジは男性にしては繊細な指先を彼女の頬に伸ばした。
「…私を、甘やかさないで…。ハジ…」
堪え切れずに零れた一粒の涙を、ハジの指先が拭った。
甘やかすも何も、ハジにとっては小夜が全てなのだ。
「この程度で甘やかしていると仰るのなら、まだまだいくらでも…甘やかしますよ。…私は」
「ハジ…駄目…。優しくなんかしないで…」
「どうして…そんな事を…小夜…」
長い時の流れを互いに寄り添い庇いあうように駆け抜けてきた、これまでもこれからも、何も変わってはいない筈なのに…どうして小夜は突然拒絶とも取れるような台詞をハジに突き付けるのか…。
「………」
「小夜…」
この腕を解いたら…小夜はそのままふわりと手の届かないところに飛んでいってしまうのではないか…そんな不安にさえ駆られる。
覗き込むけれど、彼女の瞳までは見詰める事が出来なくて…小夜の言葉を促すように、ただそっと後ろから頬を寄せた。
「だって…、だってハジは…もう、私のシュバリエじゃない。もうハジは…」
「…………」
自分の身より…この命より愛しく大切な少女から不意に浴びせられた言葉に、ハジはさあっと全身の血が引くような心地がした。
「…小夜」
「だって…ハジはもう自由なんだよ。…私の傍に居る必要はないじゃない…」
その白い指先まで、神経の末端まで…低い体温が凍えるように一段と冷えてゆくのが判る。
「小夜…それはもう、あなたにとって私は必要な存在ではないと…?」
震えそうになる声を辛うじて耐えて、ハジはやっとの事でそう訊ねた。
弾かれたように小夜はハジの腕に尚更強く爪を立てる。
「……………そんな事…ある訳ない…」
髪を振り乱すように首を振り…僅かな沈黙を経て、小夜の口からは確かな否定の言葉が零れ、ハジはほんの少し肩の力を抜いた。
しかしそれならば…どうして…
目覚めてからの小夜の…その何処か寂しげな表情にも、自分が関係していると言うのか。
どうして小夜は…
「それならば…どうして…。どうしてそんな事を?」
「…………」
「………小夜。…言って下さい。……私があなたのシュバリエではないなどと…。心臓が止まる思いです。……小夜?」
ぴったりと寄せた頬から、小夜が繰り返し唇を開き、再び閉じては惑っているのが解かる。
「…私はあなたのシュバリエである事を…誇りに思っています。どうして…そんな事を?」
腕を握る指の力が一層増して、小夜が大きく息を吐く。
小夜の唇から発せられた言葉は、意外なものだった。
「…私、魅力ない?」
「…………小夜?」
「ハジには……私、魅力ない?……女として…」
「小夜…」
「ハジにとって、私は…あなたを縛る始祖でしかないの?私はハジにとって、女じゃない?」
そんな事…ある筈がない。
自分がどれ程の想いで、その欲望を閉じ込めたのか…。
小夜の思いがけない台詞に、衝動に任せて…彼女の体を正面から抱き直す。
「ハ…ハジ…」
痛いほどの強い抱擁に、小夜が溜まらず青年の名前を呼んだ。
「ハジ…苦し…」
小夜の訴えに少しだけ腕の力が緩む、けれど腕を振りほどくには遠い。
「……少し、昔の話をしましょう。…小夜」
「…昔?」
「あなたと出会った頃の話です…」
「………動物園…での?」
一旦拘束が緩み、間近に覗き込んでくる青い瞳が、一瞬少年の日を髣髴とさせる。
そんな彼に見惚れる間もなく、ハジが再び小夜を強く抱きしめた。
「ハジ…話ならちゃんと聞くから…離して…」
「……駄目です。お願いですから、このまま聞いて下さい。小夜…」
今は顔を見ないで下さい…と、ハジが小さく付け加えた。
ここが往来の真ん中である事や強過ぎる腕の力に小夜が抗議しているのだと事を、ハジは全く意に介した風もない。
「初めて出会った頃のあなたは…、何も知らないお嬢様でしたね。あなたが…知っている事と言えば…音楽を奏でる事と薔薇の品種、あとは美味しいお菓子…」
そんな風にハジに言われるまでもなく、小夜は当時の自分がどれ程無知で我侭な娘だったかという事は知っている。抗議しようにも言い返す言葉がない程に。
「………ごめんね…私、ハジを困らせる事ばかり言って…我侭だったね」
今なら自然に零れる謝罪の言葉ですら、当時は何と言って良いのか解らなかった。
「…責めているのではありませんよ。小夜…」
「…ハジ?」
「確かに…。子供心にどうしてあなたはそんな無茶な事ばかり言うのだろうと、時には腹も立てましたが…」
「………ひどい…」
零れた呟きに、ハジはこれ以上無い程優しく小夜の髪を撫でた。
動物園の昔ほどではないけれど、少し長めに切り揃えた髪にハジの指先が絡まり、風に縺れた毛先を解くように滑る。
「…それでも、あなたの我侭に、私は随分…救われていたのだと…今になって思うのです。少なくともあなたの無茶に付き合っている間は、他の事を忘れる事が出来ました…」
「………ハジ?」
「いつの事だったか…泣き出した私を…抱き締めて下さったでしょう?」
…あれはいつの事?
初めて見た、いつも強く聡明な色を放つ少年の青い瞳に零れる涙の雫に動揺した小夜は、どうしたら良いのか解らなくて、いつも反抗的で強気な少年の…触れてはいけない無防備な部分に、無神経に土足で踏み込んでしまった事を察して…。
いつも自分がジョエルにして貰ったように、ただそっと少年を抱き寄せた。
「…本当のあなたは優しくて、ただそれを…相手に示す術を知らなかっただけ…」
「ハジ…」
「無邪気に…朗らかに笑うあなたが好きでした。…私は……」
尚更強くなる彼の腕の力に、ハジの想いが溢れている。
背中を抱いた指先に力を込めると、ハジが私の頬を摺り寄せるようにして囁いた。
「あの時…あなたを愛していますと言った言葉に嘘はありません…」
「ハジ…」
ハジの言う『あの時』が、あのオペラハウスでの事を指しているのだと…小夜の脳裏にあの辛かった瞬間が蘇り、尚更強く…ハジの背を抱き締める腕に力を込めた。
いつも、小夜を優先し、自分を殺し、シュバリエとして身を盾にして戦ってくれたハジが…『生きて…』とそれを望んでくれたから、小夜は生きる道を選ぶ事が出来た。
生きたかった。
本当はずっと、ハジと生きていたかった。
押し殺していたハジヘの想い…。
「……初めて出会った頃から、私は…あなた一人を、愛してきました…一人の女性として」
「ハジ…ハジ…?」
夜の空気がやさしく震え、そっと労わるように小夜の髪を撫でていた指先が、頬に触れ、細い頤を持ち上げる。
「いいえ、あの頃以上に…」
「……」
ハジの唇が予告もなく舞い降りた。
「…んんっ。…あ」
幾分性急なハジの求めに翻弄されながら、小夜の全身から力が抜けてゆく。
「…どうして、あなたに…魅力がないだなんて…。私が、どれ程の想いで…」
その誘惑に耐えていると思っているのか…。
「ハジ…。だって…一昨日の夜だって…」
一昨日の夜、その衝動に耐えるように…一度は抱き締めた少女の体を解放したのは決して彼女に女性としての魅力がなかった訳ではない。
 
怖がらせはしないか…
泣かせてしまうのではないか…
傷付けはしないか…
そして…嫌われてしまうのではないか…
小夜の全身に走る緊張に緩めたその腕を、本当は解くべきではなかったのか…。
あれは、彼女なりの…
「…それで、…あの様な…?」
「…だって…。だって…ハジ…私…」
どうしたら良いのか…解らなくて…と、小夜は男の腕の中で唇を噛む。
どうして…小夜は…
こんな…
こんなに可愛らしくて、罪作りなのだろう…。
「小夜…」
ゆっくりと言い聞かせるように、ハジは続けた。
「私にとって…あなたはただ一人の女性です…」
「…ハジ」
「私の態度が、あなたを不安にさせていたのだとしたら…謝ります」
「………」
「眠りから覚めたあなたを…何よりも一番…不安にさせていたのは、私なのですね。私の曖昧な態度が…」
彼女を守るべきシュバリエである事で、自分に必要以上に鎖を繫いで…。
小夜を傷付ける事を恐れ過ぎて…、誰よりも自分が小夜の事を傷付けていたのか…。
全てを捧げて小夜を支えたいと思うのに…。
いつだって、恐れていたのは自分の方だったのだと…、小夜を覗き込む優しく深い青の瞳が心なしか潤んでいた。
「小夜…あなたを愛したい。本当は、一人の女性として…心だけでなく…体ごと…。あなたの全てを…」
「ハジ…ハジ…もっと…ちゃんと抱き締めて…。…ハジ…」
コートの布地越しに、小夜の細い指がきつくハジの背中に食い込んでくる。
 
凍て付いた瞼を溶かすように、ハジの柔らかな唇がそっと舞い降りた。
宥めるようにそっと…小夜に触れる。
「もう…泣かないで…」
彼の触れた場所から、じわじわと小夜の全身に温もりが広がっていく。
この凍て付いた世界の片隅…凍土に覆われたその下で、じっとその寒さに耐え春の訪れを待ち侘びていた柔らかな緑がそっと目を覚まし、息を吹き返すかのように……、
ハジだけが小夜に…
そして小夜だけがハジに…
温もりを……、生きている証を与えてくれる。
人形のように…されるがまま唇を与えていた小夜は、まるで初めて世界を見る嬰児のように、恐る恐るそっと瞳を開いた。
潤んで霞んだ視界。
そのすぐ向こうにハジの優しい笑顔。
「小夜…もう部屋へ戻りましょう…」
静かで…穏やかな、そして言葉を無くすほど美しい微笑。
頷く代わりに、小夜は甘い吐息で囁いた。
「ねえ…ハジ。私の全てを、…全部ハジにあげるから…」
 
もう、始祖ではなく…
もうシュバリエではなく…
ただの小夜とハジとして生きてゆける世界。
 
ああ、どうして夜の闇はこんなに優しいのだろう…。
音も無く…二人の影を包み込んで、しっとりと一つに溶かしてゆく。
 
                      《ひとまず了…続きは裏でどうぞ》

20080225
本当に久しぶりの、やっとこさ~の更新です。すみません。あとちょっとあとちょっと…と言いながら
書き足し、削り削り…。本当はハジと小夜以外にも登場人物があったんですが、どうにもまとまりが悪くて
その分は削り、ひたすら手直し。
すごくやさしいハジを心掛けて書いたつもりですが、それはつまり…優し過ぎるのも考えものですね…というような内容になってしまったかも。
ご存知の事と思いますが、タイトルの『融点』は固体の物質が加熱により液体になる(溶ける)ときの温度の事を言います。ハジと小夜、互いの愛(ぷっ)で溶かしあうと良いと思います。きっとね、お互い好き同士なのに、あんなに長いことプラトニックのまま、あんな風に戦い続けていると、ハジも小夜もぎこちなく固く、頑なになってしまっているんじゃないかな~と思いまして、今更なのですが…。
で、この続きですよ、腐っ腐っ腐…。裏ですみません。
今から書きます。(すみません、まだです…)