昼も夜も、絶えること無く波の音が響いていた。

 


海に近いこの部屋は、いつも海の気配がしている。
深夜…ふいに何者かに揺り起こされるように目覚めても、耳に届く海の音はいつも変わらない。
静かに、絶え間なく…ただ変わらず海がそこにある事を教えてくれているようで、波の音に小夜はどこか安心出来るのだ。

 

 

恋歌…

 

 

小夜がぼんやりと白い天井に視線を巡らせてお腹を庇うようにゆっくりと寝返りを打つと、そこには寄り添うように彼女を覗き込む愛しい

人の姿があった。
小夜をじっと静かに見守ってくれる、男はまるで海のような存在。
静かに、そして時に激しく…
「眠れないのですか?小夜…」
小夜は曖昧に首を振ると、細い腕をそっと男に伸ばした。
「…ハジ。今…何時?」
「……横になってから、まだ一時間も経ちません。もうすぐ日付が変わります…」
暗闇の中の壁時計を見て、男…ハジは難なくそう答えた。

 

彼は眠ると言う事が無い。

 

遠い昔、彼がまだ歳若い青年であった頃、ハジは己の主である小夜の血を口移しで与えられた事により、その最も正当な血筋の体現者とし

て女王のシュバリエとなった。
翼手としての優れた身体能力と強い生命力を持ちながら、彼の静かで穏やかな性分は『人』として培われた彼自身が持つ本来の忍耐強さと

深い思慮深さ、聡明さに由来する。
そして主であり恋人である小夜に対する深く強い愛情。
「妊娠後期は、睡眠が浅くなると本にありました…」
「詳しいね…、ハジが赤ちゃん産むみたい…」
ハジは小さく笑ってみせた小夜の髪を優しくさらりと撫でて、ほんの少し口角を上げた。
けれどその青い瞳は少しも笑ってはいなかった。
「…男は心配する事しか出来ないのです。代われるものなら代わって差し上げたいのですが」
最近の彼の、少し大袈裟過ぎる過保護ぶりは…やはりそういう事を意味しているのだと、小夜は表情に出さず納得をする。

 

小夜のお腹には、今二つの命が育っている。
小夜と、ハジの子供。
それは、本来生まれる筈の無い…始祖とそのシュバリエとの間に宿った奇跡の命。

 

長い戦いが終焉を向え、訪れた平和。
しかし無常にも繰り返される休眠期。
必ず傍に居てくれる筈のハジは、アンシェルとの戦いに瓦礫の向こうに消え、その帰りを待つ事無く小夜は眠りに就いた。

 

そして三十年の時を経て目覚め…。
小夜はハジを失う痛みを…彼の記憶を封印する事で耐えていた。
けれどその間にも、小夜の体は子供達の命を密かに育んでいたらしい。
小夜には、彼らが離れ離れになった二人を再び一つにさせる為に突然空から舞い降りてきたように思えてならない。

大切な自分達の父親を、記憶の底に忘れ去ろうとした薄情な母親をまるで叱責するかのように、

ある時を境に、小夜の体内の命はその眠りから覚め、再び成長を始めた。
恵まれる筈もないと、最初から想像すら出来なかった妊娠という事実。
そして干乾びた大地の底から、命の源である泉が滾々と湧き出るように、愛する男の記憶は封印を破り小夜の中で蘇った。
愛しくて愛しくて愛しくて…
再び彼女の元に戻ったハジが傍にいてくれるだけで…
そして、極々当たり前のように小夜の体内の命が育ってゆく現実に…
寝返り一つにも苦労する程、お腹が大きくなった今でも…、小夜は…どこか遠い夢の中にいるかのように幸せで…。
けれどその幸せとは裏腹に、ハジもそして周りの仲間達も、小夜の体を…その体内に宿る二つの命を心配しているのだ。

 

決して小夜の不安を煽るような事は口にしない。
けれど…。

 

始祖の出産。
その前例は、妹ディーヴァの出産一度きり。
しかもあり得ないとされていた自らのシュバリエとの間に宿った命。
解らない事が有り過ぎて…全てが手探りの中、お腹の子供達は周囲の心配をよそにすくすくと成長した。
大きなお腹を抱え直に臨月を迎える小夜を、ハジは今まで以上に心配し、過保護にする。

いつも冷静な彼も、未知の出産に対しては必要以上にナーバスになっているようで…
今夜も、眠る必要の無いハジは、小夜を心配して、彼女の隣に寄り添って過ごしていたのだ。
「大丈夫よ。ハジ…私、痛いのには慣れているし、これだけは女性の特権だってジュリアさんも…」
途切れた小夜の言葉にさえ、ハジが不安げな瞳を向ける。
「…どうしました?小夜…」
差し出される手を取って、小夜は彼の心配を制した。
「ううん、何でもないの。今少し、動いたの…お腹の子供達…。大丈夫って言っているみたい」
戸惑うハジの手を少し強引に小夜は自らの丸い腹部に導く。
恐る恐る触れる男の指先に、この胎動は伝わるだろうか…。
「解る?ハジ?」
「…ええ、解ります。元気が良いですね、この子供達は…」
「パパは心配性過ぎるのよ…。大丈夫って言ってるんだわ」
ハジは切れ長の目をそっと閉じて、触れた指先に神経を集中している。
「嘘みたいに大きなお腹でしょ…」
「…ええ、生命力に満ちて神秘的です。母体と言うものは…」
「不思議ね…。こんな私でも、命を宿す事が出来たなんて…こんな日がくるなんて想像も出来なかった」
小夜の小さな呟きに…ハジは答えず…、代わりに静かに優しく彼女の体を抱き締めた。
ハジの優しさがゆっくりと触れた肌から小夜の心に浸透してゆく。
きっとお腹の子供達にも、彼の優しさは届いているだろう。
大きな掌が何度も繰り返し背中を撫でて、小夜の心を静めてゆく。
「あなたの子供よ…ハジ」
「………小夜」
今の気持ちを言葉で表す事はとても難しい。
自分達の子供が確かにこの体の中で育っている不思議、その嬉しさ、喜び、それと比例するかのように大きく膨らんでゆく不安。
けれど、結局私は幸せなのだろうと小夜は思う。
あり得る筈のない未来を、今…彼らはこうして手を取り合って進もうとしているのだから。
「ねえ、ハジ。私達に家族が出来るのよ。本物の家族。ハジはパパになるのよ…」
「小夜は…小夜はもうすっかり母親の顔をしていますね」
小夜は、こみ上げてくるものを隠すようにして、ハジの腕にしがみ付いた。
尚更はしゃいだような…努めて明るい声で言う。
「名前、早く考えなきゃいけないね!二人分だよ」
「まだ、性別が判らないのですから、生まれてきた顔を見て…考えてはどうですか?」
小夜の体内で、小さく体を丸めた姿勢の子供達の性別は、まだ判っていない。
まるでお楽しみを後に残しておきたいかのように、診察の度…ちょうどその部分を隠しているのだ。

 

小夜は思う。
それならば、それも良い。
女の子でも、男の子でも、私達はあなた達を愛しているの。

 

「のんびりし過ぎ!…せめて候補は考えておかなくちゃ…ね?」

 

 

波の音が響いている。
穏やかに絶え間なく…
嘘のように平和なひと時が流れてゆく。

 

 

波の音に重なるように、ハジが小さく呟いた。
…呟きだと思ったそれは、どこか哀愁を帯びたメロディーにのっていた。
歌…?
ハジの良く響く低音が、小夜の耳元で囁くように歌う。
聞き慣れない言葉、小夜には片言もその歌詞の意味は解らなくて…
それでも、その美しいメロディーと、ハジの美声に小夜はうっとりと目を閉じた。
このままずっと聴いていたい。
次第に眠りに誘われるように、瞼が重くなってゆく。
「小夜…?」
「ん…、珍しいね。ハジはいつもチェロばっかりで、昔から歌なんて…」
言いながら、小夜は彼がロマの生まれであった事を思い出した。

 

幼い頃は否応無く歌舞を仕込まれたのだと言っていた…。

 

それでも、その辛い出生を思い出すからか、ハジは今まで決して自ら進んで歌ったり踊ったりする事はなかった。
あの幸せな、ジョエルの屋敷で暮らした数年の間にさえ。
「…あなたと子供達を抱き締めたままでは、…流石にチェロは弾けませんので…。お嫌ですか?」
「ううん、素敵。ハジの歌なんて初めて…。ねえ、どんな歌詞なの?」
「古い恋歌です。…ロマの民の間に伝わった歌で、私も…うろ覚えなのですが…」
「…うん」
「その昔、太陽に恋をした月の物語です…」
「………?」
「幼い頃の記憶は、今ではもう曖昧な部分が多いのですよ。あまり良い思い出もありませんから、尚更でしょうか。けれど、この歌は…」
ハジは小夜を抱き締めたまま、どこか遠い目をしていた。
小夜はハジの子供の頃の事をあまり聞かされていない。彼が幼い頃、貧しく苦しい生活を強いられていた事は知っている。

だから敢えて話題にする事すら憚られて、ずっと一緒にいるのに、小夜は少年時代の彼の事をほとんど何も知らない。
じっと見詰める視線に気付いたのか、ハジはふっと表情を緩めた。
まるで心配しないで…と、無理をしているみたいに。
「そんな表情をしないで…小夜」
「そんな表情って…」
「眉間に皺が寄っていますよ」
長い人差し指がちょこんと小夜の額を小突いた。
小突くと言うよりはずっと遠慮がちで優しい仕草に、ぐっと涙がこみ上げてくる
「私は自分の母の顔をはっきりと覚えている訳ではありません。しかし、この歌は…、この歌は母が幼い私を膝に抱いて歌って聞かせてく

れたものなのです。多分、あれが母だった…という漠然とした記憶なのですが…」
「ハジの…お母さん?」
「貧しいロマの娘だった母は、結ばれる道理もない相手と恋に堕ちて私を身籠ったのだそうです。それでも幸せだったのか…今はもう確か

める術さえもありませんが、私をこの世に産み落としてくれた事には感謝せずにいられません…」
「………ハジ」
「母が私を産んでくれなければ、今こうして私は貴女の傍らに存在する事すら出来ないのですから…」
薄闇の中でさえ、空の青を写し込んだような青い瞳。
小夜はじっと見詰めるその瞳に答えるように小さく頷いた。
堪えようもない涙が、見る見るうちに溢れてくるのを、小夜はもう堪える事が出来なかった。
「小夜?」
「お腹に赤ちゃんがいると涙脆くなるんだよ。ホルモンのバランスが崩れるんだって…だから気にしないで。悲しい訳じゃないの…ハジ」

 

見た事のない幼子の姿をしたハジが、母親の膝に甘え子守唄を聞きながら眠りに落ちる。
小夜の想像でしか知らないロマの暮らは、それは決して豊かなものである筈がない。
父親は最初から居なかったのだろう。

 

小夜の中で、初めて出会った頃の冷たい目をした少年の横顔が蘇る。

 

それでも、
たとえ貧しくても、
その古い記憶が本当だとしたら、
彼もまた、きっと愛されて生まれた子供なのだ。

 

これは、悲しいと言う感情ではない。
悲しいんじゃない。
悲しくて零れる涙ではないと、小夜はハジの腕に縋るようにして懸命に首を振った。

 

ただ、お腹の中にいる子供達の存在が、幼い少年のハジの姿とだぶってしまう。

 

 

私に出来る事は何…?
この二つの命を、無事にこの世に送り出す事…。
それは解ってる。
だけど…

 

 

「ハジ…、あのね…。私。私…」
ハジの指先が、労わるように小夜の頬の涙を拭った。

 

 

常に小夜の影のように寄り添い、守り、支え、導き、そして深く彼女を愛するが故に自分の心を無にして身を引こうとすらした。

彼が居てくれたからこそ、小夜は今こうして生きている自分があるのだと知っている


私はあなたの為に何をしてあげる事が出来るの?
ハジ…

 

 

あふれる想いは言葉にならなくて、ただもどかしく、小夜はハジの背中を抱き締めた。
「どうしました?小夜…」
優しく響く静かなハジの声音。

 

けれど、彼のこの穏やかな美声が、怒りに震える様も、悲しみに打ちひしがれる様も…小夜は知っているのだ。

 

 

ハジ…
もう二度と、彼の瞳が曇らないように…
もう二度と、彼の声が震えないように…

 

私はあなたに何をしてあげられるの?

 

胸にしがみ付く小夜の背を、ハジは繰り返し大きな掌で撫でた。
そして再びそっと唇を開く。

 

哀愁を帯びたメロディーが、そっと夜の空気を震わせる。

 

彼はまるで海のような人。
静かに、そして時に激しく…小夜をじっと見守ってくれる。

 

 

私はあなたに何をしてあげられるの?
ハジ…
                                   《続》

20071216
ええと、恐ろしいほど以前お受けしましたキリリクのニアピンリクエスト作品です。
〜〜スゴイお待たせしている癖に、《続》だし(苦)
リクエスト下さいました紫舟さま、本当に本当に申し訳ございません!!!!
お受けしたものの、どうも納得出来るものが書けないまま、母が危篤状態に陥り、その後亡くなりまして…
つい、書きかけのまま放置してしまいました。
勿論これは言い訳で…もうひたすら申し訳ありませんと謝罪するしかない話です。
で、頂いたリクエストなのですが、以前書かせて頂いた同じくキリリク小説の三部作「記憶の底」「夜啼く鳥」「暁に咲く花」の更に続編と言う事で、
無事再会を果たした小夜とハジのその後、妊娠中のお話です。
書きながら、どうにもリクエスト内容と違ってないか??と思う部分もあり進まなかったのですが、
どうにも書ける様にしか書けず、その辺はお許し頂けたら〜と思っております。
でも私的には、漸く納得のいくラストが見えたような…。
ちょっと長いので、またしても三部位にまとめたいと思っています。
どうかお付き合い頂けたら〜と思います。
最近、書きたいものが長くなりすぎてみんな連載だよ(苦苦苦)
決して連載好きという訳ではありません。断じて!!