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午後、小さな町の診療所に人気はなかった。

午前の診療を終え、夕方…午後の診療が始まるまでの数時間、この場所はひっそりと静まり返る。壁際と中央とにそれぞれ長椅子を二台置くのがやっと…と言う程度のこぢんまりとした広さの待合室。白い壁には地域医療に根ざした健康推進のポスターが貼られ、明るい窓辺のガラス越しに南国らしい鮮やかな花が風に揺れている。
診察室と処置室、曲がった廊下の先にレントゲン室。
近隣のお年寄りにとっては、居心地の良い社交場であり、特にこれと言った症状がなくとも毎日のように診察に訪れてはおしゃべりに花を咲かせる。
そんな平和な…小さな診療所を、女医はとても愛しく大切に思っていた。


恋歌…<2>


女医はふわりと結い上げた淡い色の髪をそっと指先で撫でた。

待ち人はまだ現れない。
午後二時の約束を取り付けたのはつい昨日の夜の事。
彼女自身まだ心の中は揺れていて、どうしたら良いのか…など解らない。
誤魔化す様に、狭い待合室をぐるりと歩いて回ると、結局は所在無く…長い白衣の裾を整えて女医は長椅子の上に腰を下ろした。窓から射す南国の光は、とても冬とは思えない眩しさで、白く清潔な待合室に濃い影を落としている。
自分は、医者として、女として…
そして、それ以前に人として、当たり前の事をしたいのだ。
本当にただ、それだけなのだ。
彼女はこの地で、愛する男の子供を産み、育て、暮らしてきた。
最初こそ何かと苦労する事もあったけれど、最果てとも思えるこの南の島で小さな診療所の主となって以来、既に三十年余りの年月が流れ、いつしか女医にとってこの土地は第二の故郷とも言える場所となった。
この島の気質は、とても大らかだった。温かな気候が育む島民の性質は穏やかで、異国生まれの彼女を何ら分け隔てなく迎え入れてくれた。
その過去において、何度も死を覚悟した自分が人として…また一人の女性として全うに穏やかな暮らしを続ける事が出来るのは、正しくこの島と人々のお陰なのだと思うほど。
だから、出来る限り、彼女はこの島の住民の役に立ちたいと思っている。
過去はどうあれ…今は、確かに自分はこの小さな町の診療所の医師なのだと思う。
過去…彼女は医師として、研究者として、とある大きな事件の中核に関わった。
大きく世間を騒がし人々を恐怖に陥れ、けれど真相は謎に包まれたまま公になる事の無かったその一連の出来事、現実とは思えない程の多くの人々の死に関わり、その裏にある陰謀、策略、人間の欲望の深さと業を知った。
あれから…もう三十年以上の時が流れたのだ。
それはもう、夢の中の出来事のような遠い過去の出来事であり、彼女の過去を知る人間は限られている。
あの命をかけたぎりぎりの戦場で、自分は愛する男と結ばれた。
そして少女もまた、掛け替えない相手と結ばれその体内に命を宿していたのだ。
案外、自分達は似たもの同士なのかも知れない。
ふいに彼女の思索を破って、入り口の自動ドアが音を立てる。 
振り返ると、やや遅れてゆっくりと待ち人が姿を現す。
「カイ…」
僅かに混じる白髪が辛うじて年齢を感じさせるけれど、しかしとても五十を過ぎているとは思えない。
細く鍛えられた体形にだぶついた印象は皆無だった。
よく似合う細身のジーンズは程良く色落ちして肌に馴染み、洗いざらしのシャツの上に薄いウィンドブレーカーを羽織っている。
飾り気の無さは若い頃から変わらない。
「すみません…遅くなっちまって…」
宮城カイは年上の女医に対して、殊勝に頭を下げた。
手にぶら下げた紙袋は、どうやら赤ちゃん用品が詰まっているように見受けられる。彼が一人で赤ちゃん用品を買い求める姿を、果たして店員は若いおじいちゃんと思ったのだろうか、それとも、随分年齢のいったパパだと思ったのだろうか…。
実際にはそのどちらでもないのだけれど…。
「良いのよ…遅刻って程じゃないわ。ごめんなさいね…忙しいところに…」
穏やかな声で答えると、彼女は席を立つ。

彼を診察室に通そうかと一瞬迷い、けれど場所を変えたところで何も変わらないのだと思い直す。敢えて狭い診察デスクの前に移動するよりも、ここの方が余程落ち着いて話を進められるだろう。彼は彼女の古い戦友で、この土地で彼女の過去を知る数少ない一人だった。戦友に良いも悪いもあったものではないのかも知れないが、昔話をするには最適な相手かも知れない。
カイの口調はあくまで年上の女性に対する敬意が込められてはいたけれど、共通の秘密を持つ者同士の気の置けなさがある。
改めて男に席を勧め、自分は飲み物を取りに給湯室へと向かう。
「いや、あいつらに…。…小夜とハジに留守番を任せてきたんで時間は大丈夫です。小夜はともかくハジは十分店を任せられますよ…」
女医の背中にカイは苦笑交じりに答える。
「それじゃ…すっかり入り婿ね…」
背を向けた彼女には見えなかったけれど、カイは複雑な表情で曖昧に笑った。
小夜は、目に入れても痛くないという表現がぴったりと当てはまるような、カイの大切な義妹で、そしてハジは彼女の恋人…というのが、やはり今の三人の関係を示すのに一番的確な言葉なのだろう。
今、小夜のお腹の中にはハジの子供が宿っている。
もうすぐ生まれるのだ。
遠い昔、小夜を中心に三角関係に近い間柄であった事など、今ではもう懐かしい思い出話に過ぎない。
「…双子なんだから、肌着もオムツも全部倍要るって言うのに、小夜のやつ変なところでケチってるんですよ」
カイは楽しそうに、手にした紙袋を示した。
「ええ、そうね…。カイは双子の子育て経験者ですものね…。色々教えてあげると良いわ…」
「…それが、昔と違って、育児グッズっていうんですか?今は何でもかんでも便利な道具が…」どこか満更でもない様子で目を細めてカイが笑う。
昔、件の戦いの末…小夜の双子の妹であるディーヴァの、…その繭から孵ったばかりの双子の娘達を育てたのは、他でもない実の伯父にあたるカイだった。小夜を除いて唯一の肉親とは言え、元々はただの高校生…一般人であったカイが、しかも組織本部から離れた沖縄の地で翼手の始祖である彼女達を育てるには、それなりに物議を醸し出した。
しかし組織は、元はと言えば…小夜とディーヴァを『動物園』という檻の中で実験対象として育てた事からこの悲劇が始まったのだという過ちを認め、監視下であるとは言えカイに彼女達を任せる事にしたのだ。
小夜と同様、ごく普通の『人間』としての感覚を備えた存在として育てる為に。
そうして『人類』と『翼手』は共存する道を歩み始めた。
ディーヴァの娘達、奏と響はこの沖縄の地で成長し、そして成長の止まった今では、フランスの赤い盾本部で暮らしている。
女医はこの地に永住を許され地域医療に貢献しながら、そのもう一つの顔として、長い間双子の主治医であった。
そして、もう一つの役目。
他人には任せる事の出来ない、一つの大きな使命が与えられていたからだ。
この沖縄の地で眠りに就いた始祖翼手…小夜を、監視するという役目。
そして今、自分がこの町に暮らしている事の意味、その重要性を問われているのだと彼女は思う。自分達…人類の犯した大きな罪を、償えるとしたら…それは今ではないだろうか…。
「ジュリアさん…。何も育児の思い出を話す為に呼び出したわけじゃないんだろう?」
女医、ジュリアの長い沈黙をふいにカイが破った。
昔はただの高校生だった彼も、あの戦いを経て多くのものを失い、そして得る事で一人の男に成長したのだった。
日頃の柔和な笑顔の下に、なお衰える事のない鋭い視線。
「そうね。……」
「何かありましたか?」
ジュリアは細い指先で何度か眼鏡を掛け直した。
そのレンズの向こうの瞳には、既に組織の研究者としての色が伺える。
「…小夜とハジにはまだ話してないのよ…。今は色々と、負担を掛けたくないの…」
「ええ…」
カイは勧められたコーヒーのカップを手に静かに頷いた。
直に臨月を迎える小夜の体調は、順調とは言え決して安心出来るものではない。
もういつ何が起きてもおかしくない程、胎児達は成長している。ほんの些細な刺激がきっかけでも陣痛が引き起こされる可能性は高く、妊娠出産は病気では無いというが…それでも前例のない始祖翼手の出産なのだ。

この数ヶ月、彼らが…小夜とハジを囲む人々が、そして赤い盾と言う組織が、どれ程二人に対して注意を払い、この出産を迎えようとしているのかは想像に難くない。
「……ジョエルが倒れたのよ」
「………」
思い掛けない報告にカイは言葉を失いそしてあの穏やかな表情の組織の長の横顔を思い浮かべた。「……それで…」
「心配しないで。命に別状がある訳じゃないの…。でも…」
ジュリアは一旦言葉を切ると白衣の裾を払うような仕草で立ち上がった。
そして真っ直ぐにカイに向き直る。
「…その体調を慮って、長官の座を引退するかもしれない。彼の跡は…」
「ちょっと待って下さい。……ジョエルの体調は心配だけど、でも…それが…」
カイはジュリアにつられる様にして立ち上がった。
どうして今ここで、赤い盾の長官の交代と小夜の出産が絡むのか…。単に心配させない為…と言うには、余りにジュリアの口調は重い。
「…ねえ、もうあれから三十年も経ったのよ。組織の構成もどんどん若返ってゆく…。勿論それは自然な事だし、良い事でもあるのだと思う。…でも、あの戦いを実際に経験したメンバーが後どれ位残っていると思う?」
「……それは」
「若い人達は、解っていないのよ。…赤い盾と言う組織がどれ程重いものを背負っているのか…。それに、彼らは暴走した翼手の恐ろしさを知らないわ…」
「……………」
窓から射す眩しい陽の光が、一瞬きらりとジュリアの眼鏡のフレームを弾いてカイの目を射る。ああ、彼女もまた…あの戦いで多くのものを失ったのだ。
「……小夜を本部によこせと言ってきたのよ」
「なんで…」
「ジョエルが入院して実務から離れている間に、実権は彼の息子に移りつつあるのね。表向きは、彼女とお腹の子供達を無事に保護する事…。勿論、ここよりもずっと施設もスタッフも充実してるわ、でも……」
小夜の妊娠が発覚した当初、それは十分に話し合われてきた事だった。
彼女が未知の出産を迎えるにあたって、より安全を期す為に、小夜を、そして父親であるハジを本部で保護するという意見に、真っ向から反対したのは、他の誰でもないこのカイであり、最終的には小夜とハジの希望を第一に優先し、出産はこの地…沖縄で迎えること、そしてその為の準備と惜しみない協力を約束したのは、組織の最高責任者であるジョエルだ。
しかし、そのジョエルが倒れたからと言って…。
「初代ジョエルの残した研究成果、そしてアンシェルの手元に残されたディーヴァのデータ。それに始祖翼手である奏と響。……最早完璧と思える程、翼手の研究は進んでいるわ。でもね、小夜のお腹にいるのはハジの…生まれるはずがないとされていた自らのシュバリエとの間に宿った子供達なのよ…」
「ちょっと…待って…だからって…」
それが何だと言うのだ…。咽喉元まで出掛かった言葉を、カイは何とか飲み込む事が出来た。考えなかった訳ではないけれど、考えたくなどなかった。
小夜のお腹に宿る子供達が、一体どのような存在であるのかということなど…。
「カイ…」
「だからモルモットに差し出せって言うのか?俺は出来る事なら、奏と響だって手元においておきたかったんだ…」
しかし、成長の止まった始祖翼手の彼女達がこのまま人に紛れて今までどおりの生活を営んでゆくのは難しい。だからこそカイは容認し、本人達もより多く自分達の…そして父と母の事を知る為にフランスへ渡ったのだ。
「そこまで言ってないわ。…でも、あながち外れてもいないかも知れない」
「…………」
「私も…彼についてはよく知らないのよ。でもデヴィッドの話では…」
「何だって言うんです?」
「彼は、…勿論研究者ではないけれど。…取り憑かれているのよ。翼手と言う生物に…。人工的に作られた下等翼手は別として、小夜やディーヴァ、そしてシュバリエ達、奏、響……、翼手と言うのは、とても優れた生物であると思っているのね。老いる事のない強靭な肉体、優れた身体能力、永遠とも呼べる生命力の強さ、その長い寿命。…これは噂でしかないけれど、一度は奏と響に迫った事もあるみたい。自分に血分けをして…シュバリエにしてくれって…」
「馬鹿かっ…なんだよそれっ。聞いてないぞ、俺は…」
父親の表情でカイが怒鳴る。
「大体っ…ジョエルもそんなやつを自分の後釜に座らせるってのはどう言う了見なんだ…。あれだけデカイ組織の最高責任者なんだぞ。いくら自分の息子が可愛いからって…」
「相変わらずね…。でも…落ち着いて…」
若い時さながらに激高するカイを、ジュリアは静かな視線で制した。
 
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「ねえ、ハジ…。これで良いの?」
OMOROの厨房で小夜は大きくなったお腹にエプロンを掛け、流しに向かっていた。
大きなステンレスのザルにはまだ土が付いたままの野菜類が山と積まれていて、小夜は張り切ってカーディガンの袖を捲くる。
傍らで大きな豚肉の下ごしらえをしていたハジは、申し訳無さそうに『ええ…』と微笑んだ。
「これを全部洗えば良いのよね?」
「立ち仕事ですし…水が冷たいのですから、あまり無理なさらないで下さい」
料理の邪魔にならないよう長い黒髪を幾分いつもよりきっちりと結んだハジが、慌てて作業の手を止める。
「ハジはやっぱり心配性ね。大丈夫…こうやって一緒にキッチンに立てるのってすごく嬉しいの。それに野菜くらい私にだって洗えるんだから…」
「お手伝いします…小夜」
素早く流水で手を洗い腰に巻いた長いダブリエで水気を拭くと、ハジは小夜に寄り添うように流しの前に立った。
「それじゃ意味ないじゃない。…私がハジのお手伝いするんだから…」
脇から手を出そうとする過保護な恋人に、小夜は唇を尖らせて手元のザルをハジから奪おうと試みる。小夜のそんな子供染みた様が堪らなく愛らしくて、そうっとハジの青い瞳が細められた。
全てを許容するかのようなその優しげな瞳の前には為す術もなく、小夜は肩に入っていた力をゆっくりと緩めると、手元はシンクに張った水に浸けたまま、僅かに彼の体に持たれる様にして体重をかけた。
「OMOROの仕込み…ハジが他の事をしてる間に、これなら私でも手伝えるかなって思ったのに…」「ありがとうございます…」
礼を言う彼の声が微かに笑ったように聞こえて、小夜が仰け反るようにして見上げると、ハジの腕が何の予告もなく小夜の肩を抱き寄せた。反対の指先が逃げ場を奪うように頤までを支え、音もなくそっと覗き込むように彼の唇が舞い降りる。
優しく触れただけのキスが離れて行くのが寂しくて、つい追いかけてしまう視線がハジのそれとぶつかった。

「…小夜?」
「……もっと、ちゃんと…して…?ハジ…」
「……………」
仕方ありませんね…とでも言いた気な表情で、ハジが屈み込む。
「ン…あ…」
そっと触れた唇は今度そこ離れる事無く…舌先が小夜の唇を優しくこじ開けると、途端に湿った吐息が厨房に満ちる。キスの合間に、労わるようにハジの指先が小夜の前髪を梳き、時折耳朶に触れては擽るように撫でて…その度に小夜の背がびくんと揺れる。濡れてざらついた舌の感触は二人の体を熱くさせるのに充分だったけれど、引き返せるぎりぎりのところでハジは小夜を解放した。「…これ以上は駄目です。小夜」
「……ん、判ってる」
ハジの指先が、さもいとおしげに小夜の丸い腹部を撫でる。
小夜もまたハジの指先が優しく腹部を撫でる様をじっと見下ろした。
あの時。
あの廃屋で…
もう明日がないかも知れない…そんな生と死の際で…。
これが最初で最後の逢瀬だと…。
思い出すだけで胸が押し潰されそうな、そんなたった一度きりの交わりで宿った奇跡の命…小夜の体内に宿る二つの命は…一度は断ち切れそうになった二人の絆を、こうして再び結びつけ…これほどまでに二人に幸福を齎してくれる。ディーヴァを倒し…地上から翼手を殲滅する事、そして自らの命もその対象であるのだと言う事。
それだけが、あの戦いの日々の中で小夜に課せられた使命だった。
この戦いが終わる時が、自らの生を終える時であると…。
けれど…、小夜の心の奥のずっと深いところで、傍らに仕えるハジの存在がどれ程の大きく、また拠り所であった事か…。
押し殺そうとすればする程、ハジへの想いは溢れんばかりに膨らんで…それは単に長年仕えてくれる従者に対する感謝だとか、唯一同じ時間を生きる事の出来る者に対する仲間意識だとか…そんな感情とは全く別の…つまり始祖翼手としての小夜ではない…人間として育てられた一人の女性としての恋愛感情だった。抑えても、抑えても、抑え切れず、そうして彼女の中に生まれた愛情は、あの晩…とうとう自らの禁を犯すような形でハジに向けられた。
『ハジが欲しい…』と訴える彼女に、小夜に対する男としての愛情を深く胸の奥に押し殺し続けたハジもまた拒む事など出来る筈がなかった。
言葉になどしなくても、視線を絡めるだけでお互いへの想いは溢れていた。
認めてはいけないと強く禁じているだけで、互いのその感情がプラトニックなものだけでは在り得ない事など…とうに解っていた。
それほど確かな愛情が存在しながら、その切掛けさえ掴めないまま、二人は数え切れない程の夜を寄り添って過ごし、あの晩にしても…何か一つでも違っていたら、二人は肌を重ねる事など無く…今こうして小夜の体内に息衝く命を授かる事も無かったのだ。
小夜はいとおしげに腹部を撫でるハジの指に、思わず自分の手が濡れている事も忘れてそっと指を絡めた。
「ねえ、ハジ…私ね、辛い事も…悲しい事も、数え切れないくらいあったけど…。それでも、一度も自分の事を不幸だと思った事はないよ。不幸なのは…罪もないのに戦いに巻き込まれて、命を落とす事になった人達。…全部、悪いのは私なんだから…」
「…小夜」
「でもね、それだけじゃなくて…。………ハジが…あなたがずっと傍にいてくれたから。…いつか…この腕の中で…最期にあなたの手に掛かって…あなただけを見詰めながら死ねるなら…それでも良いって思ってたの」
一気に打ち明けると、どこか感極まったように小夜がじっとハジを見上げる。
「……どうしたのですか?…突然…」
小夜の突然の告白に、少し驚いたような…それでも動じる事なく穏やかな微笑を浮かべる男の、深く吸い込まれそうな青い瞳。
「だって…ちゃんと、本当の自分の気持ち…言ってなかったから」
「…小夜?」
「…私、ハジの事、ずっと好きだったの。…あなたが…まだ人間だった頃から…」
もし、自分が普通の人間だったなら…。
繰り返し…繰り返し、何度そう願ったか知れない…。
深夜、一人きりの寝室で…
また、むせ返るような薔薇の庭で…
「ありがとうございます。では…」
そんな小夜に、ハジはますます瞳を細めた。
「では、私も…。私もあの頃からあなた一人を愛していましたよ…小夜。ですから…こうして、あなたと…そしてお腹の子供達と、静かに暮らせる事が…まるで夢の中にいるようなのです」
ハジの台詞に、小夜が小さく笑う。
「眠らないあなたが?」
「ええ、ですから…尚更…。本当はまだ私はあのオペラハウスの瓦礫の下で…在り得ない未来の夢を見ているのかも知れない…」
「ハジ…」
「…知っていますか?眠らないシュバリエが夢を見るという事は…死期が近いという事なのです。皆…そうして死んでいきました。アンシェルも…ソロモンも…皆…」
叶う筈もない想いを…願いを、深くその胸に抱いて…。
ハジのいつもどおりの冷静な口調が怖くなって…小夜はぎゅっとハジの袖を握り返した。
「やだ…。そんな事言わないで…。私……ハジ…」
自分を抱き締める男の腕の中に居ながら、ハジの存在がふいに霧のように霧散してしまう…そんな錯覚を覚える。小夜の背筋が大きく震えると抱く腕の力が途端に強くなって、ハジは小さく小夜の耳元で謝罪した。
「すみません…小夜…怖がらないで…。全て…私の作り話ですから。それに私は本当に夢など見ないのですよ…。夢を見る事を手放した代わりに…私はあなたを手に入れましたから…」
「…ハジ」
ハジは小夜を宥めるように、もう一度ゆっくりと唇を塞いだ。
「あれが不幸な事故だったのだとしても…、そのお陰で私はあなたのシュバリエとして、こうして共に同じ時間を歩む事が出来たのですから…。私も自分の事を不幸だと思った事はありませんよ。それにもし…あの事故が起きなかったとしても…私は…」
穏やかな青い瞳をじっと見上げて覗き込んでくる小夜の、ハジを伺うような心細い表情。
思わず抱き締める腕の力を強くして、ハジはその額に唇を落とした。
二人の間で、存在感を増した小夜の丸い腹部が幸せを主張する。
ハジはもう一度そっと指先を丸い腹部に沿わせた。
「小夜…これが現実です。もう私達が離れる事はありません。もう私は二度と消えたりしないと誓ったでしょう?」
「だって…」
「心配性は、あなたの方ですよ。…小夜」
するりと伸びた小夜の腕が、ハジの美しい黒髪を撫で…抱き寄せるように首筋に巻きついた。
「だって…」
小夜の脳裏に昨夜ベッドの中でハジが歌ってくれたあの歌の、哀愁を帯びたメロディーが蘇ってくる。太陽に恋した月の物語だと言っていた。もう、うろ覚えだと言ったその歌の歌詞…太陽と月は果たして結ばれたのだろうか…?
自分はハジの為に一体何が出来るのだろう…。
そんな事ばかり考えてしまうのだと言ったら、ハジはそんな顔をするのだろう…。

突然、背後のドアが開いた。

ハジは小夜を庇う様に胸に抱き締めたまま、素早く振り向くと身構えるように、現れた男に対峙する。
午後の日差しにきらきらと透ける金の髪と白い肌。
その面立ちはどこかで会った事があっただろうか…見覚えがあるような気がした。
「本当に、こうしていると…ごく普通の恋人同士にしか見えませんね」
「あなたは何者です?」
ハジの問いにも答える事はなく、飄々とそしてどこか楽しげに男は続けた。
「ああ、失礼。…普通…というにはあなた方はとても美しい。それに恋人同士と言うより…ご夫婦と言った方がより正確でしょうか…」
男の視線が不躾に小夜の大きな腹部に注がれていた。
こんな田舎の食堂には場違いな程上質な三つ揃えのスーツ。
優雅な仕草と一見礼儀正しいかのような丁寧な口調。
「何者かと聞いているのです?」
ハジの本能が警戒を解こうとはさせない。それだけこの場所には似つかわしくない…男の纏う空気は異質で不穏なものだった。
「ご挨拶に寄っただけです。…眠りから覚めた始祖翼手…小夜と、そのシュバリエ。…伝説のシュバリエ…ハジ。お会いする事が出来て本当に光栄ですよ」
「………」
「私は…赤い盾7代目ジョエル・ゴルトシュミットだと名乗れば、察して頂けますか?」
男はさも愉快そうに笑った。


                                 《続》

20080315
さて・・・どうなんでしょう?ちゃんと話が続いてますか?恋歌の2更新できます。
多分ですねえ・・・リクエスト下さいました紫舟さまには、「こんなの違うわ…」と思われてしまうかも…と心配になるような内容で・・・
またしても終わってませんしね。本当にすみません。
サイトのカウンターがおかげさまで5万を超えまして、それで次が55555なんですよね。次回リクを頂くかどうか分からないんですけど…
でも書ける分はキリキリ書いておこうというか。
オリキャラも出してしまいましたし。7代目…7代目ですよ(笑)
まだ就任してないけど、もう名乗ってるし…。本当はこの後の会話とか、書きたい部分なのですけど、長くなるので…ひとまずここで更新しときます。もう少しお付き合い頂けたら〜と思います。どうもありがとうございました〜〜〜!