ここはどこ?

むせ返る緑。咲き乱れる薔薇の花。
一瞬、ここがどこだか解らなくなる。
遠い記憶の中で、ここと良く似たどこかで…
薔薇を摘んだ思い出。
寄り添う貴方の静かな笑顔。

貴方は誰?


屋上から見上げる空は真っ青に澄んで、髪を揺らす風は間もなく秋も終わるというのにどこか暖かい。柔らかな日差し、こんな穏やかな気候を小春日和と言うのだろうか…。
薔薇の咲き乱れる植え込みの傍らに置かれたベンチで、私は大きく伸びをした。
時間がゆっくりと流れてゆく。
退屈と言ってしまえばそれまでの…緩やかな午後のひと時。

「探しました…。音無さん」

植え込みの向こうから静かな声が私を呼んだ。
私は大きく息をして呼吸を整えると、内心の動揺を誤魔化すように出来るだけゆっくりと振り返った。
「突然、居なくなられては…」
「ごめんなさい…」
「幾ら暖かくても、外の風に長くあたっては体に障ります…。直に回診の時間ですよ」

医師が…勝手に病室を抜け出した担当の入院患者に話し掛けるには、あまりにも穏やかな優し過ぎる声音だった。もっと怒られるかとも思ったけれど、彼のその対応に接して、どこか納得も出来る。
彼は滅多な事では、声を荒げるような人ではない。
見上げるほど背が高いのに、隣に並んでも…大柄な人物にありがちな威圧感は感じさせず、むしろ彼の纏う空気は不思議と私をほっと安心させてくれる。

そして彼は、とても不思議な人。
歳は幾つなんだろう?
とても美しい整った顔立ち。
医師らしくない綺麗な長い黒髪を後ろで一つにまとめて縛っている。
額に落ちかかる前髪の下から覗く瞳は、澄んだ青い色をしていて、勿論日本人ではないみたいだけれど…言葉は全く不自由なく流暢な日本語を操る。
とてもエキゾチックで、昔に読んだ物語の中に出てくる騎士のよう。

彼は先月からこの病棟にやって来た研修医で、私の担当医でもある。
それは勿論期間限定の、補助的なものであったけれど…。

「診察はハジ先生が?」
「いえ…」
「なんだ…残念」
ハジ先生は、ほんの少しだけ困った表情を覗かせたけれど、それ以上のリアクションはない。
言いながら、私は目の前の青年医師の前でシャツを肌蹴て胸を露にする自分を想像して、知らずに頬が熱くなった。言ってしまってから、こんな冗談を、言わなければ良かった…と瞬時に後悔する。


私の名前は『音無小夜』ごくごく有り触れた17歳の女子高生…の筈。
今はこうして無機質な病院に閉じ込められているけれど、学校生活に戻れば親友だって居る。
…親友だって…
私は、明るく笑う親友の横顔を脳裏に思い浮かべて、唐突に焦り始める。
明るい色の髪を結んだ、あの前向きな笑顔。
彼女の名前は…何て言っただろう?
さっきまで覚えていた…もどかしく咽喉の奥に張り付いた『親友』の名前…どうして私はそんな大切な、忘れる筈のない事まで、思い出せないのだろう。
ついさっきまでは覚えていた?
本当に?
もう、その記憶すら…危うい。

私は、自分の病名をはっきりと教えられてはいない。
それはつまり、この先余り長くは生きられないという事を意味しているのだろうか…。
年老いた主治医を何度問い詰めても返ってくる答えは決まっている。
ただ『血液の…』とだけ聞かされ続け、私はもう質問する事すら諦めてしまった。
治療といえば、毎日の点滴と輸血。
…怖い、という気持ちも…勿論私の中には存在していて、問い詰めれば問い詰めただけ、その恐怖は大きくなってゆくのだ。
そして明らかな回答を得られない事で、密かに胸の奥で安堵してもいる。
自分がどんな病魔に侵されているのか…、後どれ位こうして入院していれば良いのか…それとも、もう二度と自分の足で病院の外へ出る事は叶わないのか…。
それに、なぜか私の記憶はどんどん失われているのではないだろうか。
本当は血液なんかではなく、頭の記憶を司るどこかに…大きな傷でもついてしまっているのではないだろうか…。

どうして、カイは面会に来てくれないのだろう?
カイは、私の家族、血は繋がっていないけれど…、たった一人の兄で…。
頭の中で、確かめるようにカイの姿を思い浮かべる。
カイのいつも怒った様なぶっきらぼうな口調をまざまざと思い出す事で、漸く私は少しだけ安心する。ああ、まだ覚えている…そう思うのだから可笑しい。

「どうしました?」
穏やかな声が私の意識を現実に引き戻した。

病院の屋上というより、そこは植物園のように緑が溢れている。
植物の事は詳しくないので、辺りに植えられた緑や花々の名前すら解らないけれど…辛うじて知っている赤い薔薇の花が甘い香りを放っていた。
僅かな土しかなくても、今はこんなに立派に緑が育つのだ。計算され管理された緑ではあっても、無機質な病室に居るよりは余程気が晴れますと、この場所を教えてくれたのは、他でもない目の前の青年だった。
もう随分長い間、私はこの病棟に入院しているのに、屋上にすら来た事がなかった。
大体、ここにこんな素敵な場所が隠されているなんて想像も出来なかった。
「…何でもないの。ごめんなさい…ハジ先生」
「どうぞ…」
なるべく部屋着のようなデザインを選んだのだけれど…、パジャマ一枚で立つ私に彼が差し出した桜色のカーディガンは、私の持ち物だった。
「勝手に持ち出してすみません。病室のイスの背に掛けたままでしたので、冷えてはいけないと思ったのです」
少し驚いたような私の表情を先読みして、彼が答える。
「ハジ先生ならいいよ。ありがとう…」
「…先生と呼ばれるのは慣れません。二人の時は…ハジと呼んで下さって構いません…」
どこか意味深な台詞に、私はじっと彼を見上げた。
晴れ渡る空よりも青い、澄んだ瞳がじっと私を見詰めていた。
視線が合うと、花の蕾が綻ぶ様にその整った顔に柔和な笑みが浮かぶ。
時に冷たいと噂される程ハジ先生は整った容姿をしていて、それなのに時折覗かせるこんな微笑みはウットリするほど優しくて、密かに先生のファンは多い。
それは子供からお年寄りまで、年齢を問わず、患者のみならず、看護婦や、果ては清掃のおばさんまで…。
それは短い研修期間を過ぎればまた別の病棟へ行ってしまう人だと解っているから、余計なのかも知れない。

不用意に…そんな優しげな笑みを向けられ、私の胸はドキンと高鳴った。
誤魔化すように受け取ったカーディガンを慌てて羽織る。
「…そ、それなら、私の事は音無さんじゃなくて小夜って呼んで…」
「…………小夜…」
まさか本当に、彼が何のてらいもなく私の名前を呼ぶとは思っていなくて…、私は突然の、その静かな声の響きに背筋にぞくりと甘い衝撃を覚えた。
「…小夜」
重ねて彼が囁く。
「…せ、先生。待って…」
「…どうしたのですか?…それに、先生ではなく、ハジでしょう?」
「は、恥ずかしいよ。そんな先生の事…ハジ…だなんて…」
「…すぐに慣れますよ、小夜」
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか解らないまま…彼に促されて歩き出す。
ここが病院の屋上でなければ、私がパジャマで、彼が白衣でなければ…まるで公園の散歩道をデートしているみたいだ。
そうして並んで歩く内、私は説明のつかない不思議な感覚に囚われる。
懐かしい。
こうして彼と肩を並べて歩く度に、私は不思議な既視感に襲われる。
でもそんな事がある筈はない。
ハジ先生と出逢ったのは、先月の初め、あの白い病室で、主治医の回診の時だ。

何の前触れもなく突然、彼は私の前にやって来た。
病院には場違いな位綺麗な顔に、私はたっぷりと見惚れていた。
自己紹介も忘れる程に…。
並ばなくても判るその長身とバランス良く長い手足。
医師とは思えない長い黒髪を後ろで結って、額に落ち掛かる前髪が一層彼の美貌を引き立てているようで…。
どこか切なそうな表情を隠そうともせず、言葉少なに
「初めまして…」
と挨拶をする、その深く優しい響きを耳にした時、私は初めてこの不思議な感覚を体験した。
私は彼を知っている?
そんな予感にも似た思いがした。
けれど、すぐにそんな事がある筈ないと否定した。

もしかしたら、あの瞬間から…私はこの目の前の青年医師に恋をしているのかも知れない。
私は、改めて隣に並んで歩く、『ハジ』をまじまじと見上げた。

                                  《続》

20071129
ある程度、話の筋は出来ていて…とても続きが書きたいのですが、
あれもこれも書かなくてはならない話を溜め込んでいまして…苦苦苦。
このハジは、私が自分で書くハジのうちでかなり気に入っている…筈。まだ書き上げてないけど(笑)