言葉にしてはいけない想いがある。
言の葉
不意に右手を取られて、ハジは一瞬息を止めた。
困惑気味に隣を見ると、小夜は何も言わず俯いたまま…ハジの右手に触れた指先にそっと力を込めた。小さな声が震えた。
「ごめんなさい・・・」
「小夜?」
「ハジの右手・・・、私が切り落としたんだね・・・」
今にも消え入りそうな震える声で、小夜が思い出した事実を告げる。
ハジの中で、ああ・・・と嘆息が漏れる。
自分はこの瞬間を待ち望んでいたのか・・・
それとも、恐れていたのか・・・
ハジが視線を前方に移すと、彼女のよく出来た弟が兄の手を引いて歩く小さな背中が遠ざかっていくのが見えた。
雨上がりの石畳、有り触れた街並み、雑踏の中を歩いていると言うのに、小夜とハジだけが周りの流れから取り残されたような錯覚。
ハジは覚悟を決めるように、小さく息を吐いた。
全てを思い出したのだろうか・・・、それとも・・・。
日頃、小夜の従者でありシュバリエであるハジが、彼女の行動に異を唱える事はない。
けれど、小夜がマルセイユに停泊中の赤い盾本部へ行くと言い出した時、ハジは言葉少なにジョエルの元へ向かう彼女の背中を見送りながら、彼女を引き留めたい衝動と必死に戦っていた。
もう少しで、その手を取って腕の中に引き戻してしまいたい気持ちを、ハジは押し殺して耐えた。
全てを知る覚悟をした彼女を引き止める権利は自分には無い。
それでも、全てを知った後の小夜のショックを慮るとハジの胸は絶えず痛んだ。
初めから、これはもう引き返す事など出来ない、先へ進むしかない旅だと解っているのに、こうして嘘のように何事もない日々が続くと、少しでもこの穏やかな時間が続けば良いと願わずにはいられなかった。
記憶は一気にあの血生臭い戦場へと引きずり戻されるハジの記憶の中で、あの地獄のような灼熱の戦場で、小夜は我を無くして暴走した。真っ赤な返り血に白い肌を染めて、追い詰められた野生の獣が牙を剥くかのような痛々しい姿で・・・。
瞼を閉じれば、
今でもあの夜の光景が眼前に広がる。
切り落とされた腕の痛みは、今も尚、折に触れては蘇り、ハジを苦しめる。
しかし、その痛みはあの惨劇を忘れない為の贖罪の痛みだ。
一体誰が小夜を責められるというのだろう。
責められるのは、彼女のシュバリエでありながら小夜を守り切れなかった自分である筈だ…。
倒すべき敵からも…
そして味方であった筈の組織からも。
小夜は躊躇いがちにハジの隣に並んで歩き出した。こちらを見ようとしない小夜の横顔を、ハジはそうと気付かれないように見詰めていた。
沖縄で、小夜を見付けた時、記憶を失った彼女はまるで別人のようだった。
全ての記憶を手放す事によって、漸く笑う事の出来た愛しい少女。ハジは、自分の願いが一体どこにあるのか…既に迷いの中に居るのかもしれなかった。このまま、小夜の笑顔を見続けていたいという気持ちと、彼女の記憶の中に朧な影としてしか、存在出来ない苦しさと…。
湿った風がふわりと二人の間を吹き抜けてゆく。
この風のように、時間は二人の間を吹き抜けてゆくばかりで、確かなものなど何一つ無いのかも知れない。
それでも良いと、
それでも構わないと、そう思って生きてきた筈だ。小夜の傍で、彼女を護り…支え仕える事が叶うだけで…それなのに、どうしてこの胸は痛むのだろう…小夜の笑顔を目にする度に…
小夜の頬に涙の跡を見付ける度に…
やがて、永遠に続くかと思われた石畳が途切れ、視界が一気に開けた。遠く見える海に、雲間から射す日の光がきらきらと反射する。穏やかな波が細かく揺れる様が、まるで儚い幻のようにも見えた。この平和な時間も間も無く破られるのだ。
自分はその最期の瞬間まで戦えるのだろうか…
最期まで、彼女を護り切る事が出来るだろうか…
いや、出来るだろうか?…ではなく、
するのだ…必ず。
必ず、小夜を護り抜く…
例え自分の身に何が起きようとも…
「ねえ…ハジ」
唐突に小夜が隣のハジを振り仰いだ。
小夜の瞳は、真っ直ぐにハジを射て…その色にはもう以前のような迷いは無かった。全てを知った彼女は、再び戦う事を選んだのだ。
「…腕の事も、これまでの事も…ハジにはいくら謝っても足りない」
「小夜…そんな事は……」
「とても、我侭なお願いだと思ってる…。
ハジにはずっと辛い想いばかりさせてるって事も…でも…」
小夜は一旦そこで言葉を切ると、苦しげに唇を噛んだ。
「小夜…?」
「お願い…私に…私に力を貸して…」
ディーヴァを倒すまで…私の傍に居て…
きつく噛み締めた唇がほんのりと赤い。
微かな、けれど濃厚な香りがハジの鼻腔をくすぐった。
「小夜…」
労るように伸ばしたハジの指を小夜が捕らえた。
「お願い…」
小さく呟いて、尚もきつく噛み締める唇が痛々しくて、ハジは思わずそっと唇を寄せた。触れるだけの優しい口付け。
「…ハジ?」
滲んだ血の甘みがハジの舌先に微かに沁みた。
少女はその口付けを咎める事なく受け入れて、ぎゅっとハジの胸にしがみ付いた。
「小夜…」
愛しています…と喉元まで込み上げた言葉を、ハジは戸惑い、そして胸の奥に再び仕舞い込んだ。
「小夜…今更何を言っているのです?私の全ては貴女と共にあるのです。貴女がそうと望むならば…」「ハジ…」
潤んだ瞳がぼんやりとハジを映し、何か言いたげな唇がうっすらと開いた。
ただじっと言葉を待つハジを誘うように、小夜は言葉を紡ぐ代わりにそっとその白い瞼を閉ざした。
ハジの中で、これ以上は駄目だと、もう一人の自分が戒める…
しかし、その忠告も、ハジを求める小夜の赤い唇の前に脆くも崩れ去った。
強力に引き合う磁石のように、二人の唇が重なる。触れただけの口付けから、やがて互いを確かめ合う深いものへと変わった。
そこには最早言葉は必要もなく、固く抱き寄せ合う抱擁に優しく二人の体温が馴染んでゆく。
それがはじめての口付けではないのだと、小夜に暗に示すように…。
甘い吐息を零して唇が離れると…、
ハジの腕の中から見上げる小夜の瞳は切なげに揺れるばかりだった。
堪え切れずに頬に零れた涙の一粒を、ハジはそっとその指先で拭う。
「ハジ…、ハジ…、私…ごめんね…」
「謝らないで…」
「ハジ…私…」
思い詰めた瞳で、溢れ出しそうな言葉に突き動かされそうになる小夜を、ハジはそっと制した。
これ以上、流されてはいけない。
辛くなるばかりだ。
小夜も…
自分も…
「小夜…」
花のように赤い彼女の唇に、そっと人差し指を当てる。
この唇に、もう二度と…触れません…
だから…貴女も…
ハジは心の中でそう告げた。
じっと見上げる瞳に、ぼんやりと映りこむ自分の顔は果たして…
「それ以上…言ってはいけません。小夜…」
「…ハジ。そんな表情をしないで…。解っている。ちゃんと解ってるから」
…約束も…思い出した。
小夜はそう言って、儚く笑った。
ハジは優しく小夜の背中を支え、彼女の体をしゃんと立たせると、
宥めるようにその髪を優しく撫でた。
もう、兄弟達の背中は見えない。
「行きましょう…小夜」
ハジは言葉少なに、右手を小夜に差し出した。
「………」
溢れ出しそうな言葉を飲み込んで、小夜が小さく頷いた。差し出されたハジの手に、一瞬躊躇ってみせる仕種。
それからじっとハジを見て、漸くその華奢な掌を重ねる。
互いの想いを確かめるように、情を交わすように固く指を絡め合い、指はふわりと離れた。
言葉にしてはいけない想いがある。
言葉にしてはいけないのに、その言葉はこんなにも雄弁に零れ出す。
見詰め合う視線から…
触れる指先から…
抑え様も無く
それは…溢れ出す。
儚くも脆い愛の言の葉。
20070218
なんだかんだと手直しをしていて、結構時間が掛かってしまいました。
ええと、先日パソコンの中を整理していたら、随分以前に書いて途中で忘れ去られていたこの話を見付け、
取り敢えず加筆修正してお披露目する事にしました。
たった数ヶ月前に書いたというのに、ラストをどうするつもりだったのか覚えていなくて
(…と言うよりも、多分ラストが決まらなくて途中だったんじゃないかと…)
取り敢えず、自虐的に臭くて恥ずかしい方向で終わってみました。
まあ、初心に返るべきだと思います、自分(笑)
甘く切ない二人が好きなのです。