たった一輪で良いから…

もし、この世に青いバラが存在するのなら…
他には何も要りません。
だから…
どうか神様…その一輪を…私に下さい。

少年はずっと…青いバラを探していた。
たった一人の少女の為に…
この世に存在し得る筈の無い、
天上に咲く清らかな青い花弁を…


天上に咲く青い薔薇…


まだ薄暗い、朝靄に煙るひんやりと冷たい早朝の空気の中、少年は当てもなく広大な庭を歩いていた。
その両手には溢れんばかりのバラの花を抱えている。
まだ日も明けぬ早朝…朝露に濡れた咲き初めのバラを摘んでくる事が、少年に与えられた
毎朝一番の仕事だった。
その庭に咲く、その日一番美しく花開く蕾を選んで主人の部屋に飾るのだ。
白いシャツにリボンタイ、膝丈の濃紺のズボン。
シンプルだけれど、清潔で質の良い衣服に身を包んだ少年の肌は、薄闇の中でさえ透けるように白い。
まだ大人には成りきらない、育ち盛りの伸びやかな肢体は少年期独特の中性的な雰囲気を醸している。
肩より少し伸びた艶やかな黒い髪を、少年らしくさっぱりと後ろで一つに編み、しかし瞳の色はどこか少し大人びて…その印象的な青い瞳は高く澄んだ秋空のようだ。
とても美しく、聡明な色。
少年の名はハジと言った。
初めから、苗字等ないようなものだ。
彼は『ロマ』と呼ばれる貧しい流浪の民の出身で、その貧しさ故に僅かばかりのパン代と引き換えにその身を売られてきたのだ。
ハジは、自分が売られてきた事…それ自体を不幸だと思った事はない。苦しい日々の生活に…利発な少年はもう随分前から、いつかはそんな日が来るのではないか…と予感さえしていた。
自分よりも幼い、まだ年端もいかない子供が売られてゆく姿を今までに何人も知っている。
それがたまたま自分に順番が回って来たというだけ事だ。
人買いに売られれば、どんな重労働が待っているかも知れない。それこそ見目の良い子供の中には好事家に買われて、一夜の慰みものとして身を落とす者
もいる。それでも…少年はこの先自分がどんな境遇に陥ったとしても、己の中にある確固としたプライドだけは捨てないのだと…ずっと心に固く誓っていた。
けれど、ハジが連れて来られたのは、子供の予想を遥かに凌ぐ…広大な敷地を持つ資産家のお屋敷だった。
不安が消えた訳ではない。しかし、重労働を強いられた訳ではなく、勿論人格を無視した
扱いを受けるような事もない。
彼に与えられたのは、深窓の御令嬢の従者という意外な職務だった。
生まれて初めて自分の為の部屋を与えられ、上等な衣服を着て、毎朝バラを摘む。
ハジの待遇は最初から他の使用人に対するそれとは一線を画していて、単に身の回りの世話をする為の使用人というよりは、少女の遊び相手に近いのかも知れない。
こんなに待遇も良いのに、聞いた話によれば…今までに彼女の性格が原因で何人もの従者が出ていってしまったのだというのだから、俄かには信じられなかった。
彼の主人である少女は少し我侭なところはあったけれど、決して心が冷たい訳ではないとハジは思う。それどころか…ハジには時折、むしろ優しいとさえ感じられる瞬間があるの
に…多分サヤは上手くそれを表現出来ない不器用な性格なのだと…。
サヤと言う、どこか異国風の響きを持つ名前の少女は、どうやらこの広い屋敷の敷地内か
ら余り外へ出た事がないのだ…ハジがそう気付いたのは、出会って間もなくの事だった。
サヤはハジより明らかに年長であったけれど、人が経験を重ねる事によって子供から大人になってゆくのだとしたら…この屋敷の中しか知らないサヤは、ハジよりもずっと子供な
のかも知れない。

今はこうして何事もなく暮らしているけれど、いつか自分も追い出されてしまう日がくる
のだろうか…。

『だって、青いバラがないわ…。私の一番好きなバラよ…』

そうあどけなく意地の悪い笑みを浮かべたサヤもまた、ハジに引けを取らずとても美しい少女だった。
初めて彼女に対面した時、少年は彼女のあまりの美しさと存在感に魅了されて、呼吸する
事も忘れていた。不躾にじっと凝視してはならないと知りつつも、彼女の姿から視線を外す事すら出来なかった。

この世にこんな美しい女性が居るなんて…。

贅を凝らしたデザインのドレスを優雅に着こなしたサヤは、凛とした強い視線で真っ直ぐにハジを射抜いた。見詰められているだけで、胸が苦しくなるような…気恥ずかしさ。
見る見るうちに頬が上気してしまうのを、少年には止める術さえ見つけられない。
肩に下ろした黒髪に映える白く滑らかな肌と強い意志を宿すつぶらな黒い瞳。
ふっくらと柔らかそうな、朱を指した赤い唇。豊満な胸から…きゅっとくびれたウェストへ続くラインが窓からの逆光に一層際立っていた。
そして、ハジは一瞬にして悟った。
今まで自分が生きてきた世界とは全く無縁な遥か高い場所に彼女は生きてきたのだと…。
あれから一年以上の月日が経ったというのに…ハジの心の中には今でもあの日の景色が焼き付いている。


ハジは徐々に明るさを増す東の空を見遣って、小さく吐息を零した。
サヤの前では決して見せない小さな溜息。
彼女が欲しいと言った青いバラは、今朝も見付からない。
所詮、見付かる筈がない事は彼も承知していた。
青いバラは決してこの世に存在しない筈のものなのだから…。
そして、いくら彼が子供だからと言って、主人から命じられたその難題が自分を困らせ、ここを追い出す為の口実に過ぎなかったのだという事も十分に理解していた。しばらくはその有り得る筈のない青いバラを探す日々が続き…、けれど彼女はお嬢様らしい気紛れで唐突にその難題を取り下げた。
だから本当はもう青いバラを探す必要など…ハジにはどこにもないのだ。
サヤはバラを探す代わりにハジにチェロを弾く事を求め、そして自らがハジの教師を勤めている。
彼女は厳しい教師であったけれど、元より音楽の才能に恵まれていたハジはそれを辛いと思った事はない。
まだまだサヤの無理難題に困らせられる事もあるけれど、教え、教えられる関係は二人の距離をぐんと縮めていた。
ハジは、もう見付かる筈もない青いバラを探さなくても良いのだ。
けれど少年の心の中には「もしかしたら…」と言う思いが拭い切れず、広大なバラの園を歩く度…無意識のように彼は青いバラを探してしまう。

水を張った桶に一旦摘み取ったバラを生けると、ハジは剪定用の鋏で手際良く水切りを済ませ、丁寧に一つ一つの棘を取り除いてゆく。
刺すように冷たい井戸水と、鋭いバラの棘が彼の白い指先を傷付けた。
けれど悴む指先が痛むその感覚も、やがて麻痺して判らなくなる。

もし…
もし…たった一輪で良いから…
自分に朝露を含んだその青いバラの蕾を見つけることが出来たなら…


優雅な弦楽の音が流れていた。
淡い色彩でまとめられた上品な調度類、大きな天蓋付のベッドが目を引く広いサヤの居室。
鏡の前には今朝もハジが摘んだバラの花が芳しく香っている。
ハジはサヤの喉を潤す為のお茶の準備を整えて、彼女の奏でるその心地良いチェロの音に耳を澄ませていた。
窓から差し込む柔らかな午後の日差しを浴びて、一心にチェロを奏でるサヤの横顔はとても幸せそうで、傍で見守るハジもまた…とても幸せな気持ちになれる。
こうしていると…たった一年と少し前までは毎日の食事にも苦労していた過去がまるで嘘
のように思えて、時折ハジは自分が夢を見ているのではないかと疑いたくなった。
まるで夢のように穏やかな時間は、もうそれがずっと昔からの日課であるように、ハジとサヤとの間を流れてゆく。
とても幸せで、少年はこのひと時が永遠に続けば良いとさえ願ってしまう。

「ハジ……ハジ?」
呼ばれて、ハジはふいに現実に引き戻された。
いつの間にかサヤは演奏を止め、チェロを手にしたまま間近にハジを覗き込んでいた。
「ねえ、ちゃんと聴いていてくれた?ハジ…」
「も…勿論です。サヤ…」
ハジは、いつの間にか自分が全く別の意識に引き込まれていた事を慌てて否定した。
サヤは疑わしげにハジの表情を伺ったけれど、
「ふうん…、そう?ハジったら心ここに在らずって感じだったわ…」
そう言っただけで、僅かに唇を尖らせて可笑しそうに笑う…その表情は、初めて会った頃が嘘のように柔らかい。
ハジがサヤに対して献身的に仕えるうち…射抜くようだった彼女の厳しい視線は、いつしか弟を見詰めるような優しげなものに変わっていた。
ハジにはそれが嬉しくて、そして何故か少し寂しくもある。
自分にそれを寂しいと感じさせるものの正体。
献身的に何の見返りも求めず、ただ彼女に笑って欲しいと願う気持ち。
ハジはその感情に薄々気が付いているのに…、それは酷く疚しい想いのような気がして真
っ直ぐに直視する事が出来なかった。
「そ、そんな事…無いです…。サヤ…」
従者と言う立場でありながら『サヤ様』と呼ばないのは、サヤがそれを望まないからで、彼女にとっては正しく従者と言うより自分の思い通りになる…年齢の近い遊び相手と言う
感覚なのだろう。
否定しながらも、ハジは自分の頬がどんどん熱くなってゆくのを止める術がない。
ハジの赤く染まった顔を見てサヤはそれをどう受け止めたのか…くすくすと微笑んだ。
テーブルに整えられた茶器のトレイと焼き菓子の盛られた皿に視線を投げると、
「わかったわ…、お腹が空いたんでしょう?ちゃんと昼食を食べないせいよ…。ハジったら少食なんだもの…。大きくなれないわよ…」
さっさとチェロをケースに収めてしまう。
「休憩にしましょう…。折角の紅茶が冷めてしまうわ。ねえお茶の後はハジがチェロを
弾くのよ。ハジは筋が良いから教えがいがあるもの…。きっとすぐに私より巧くなるわ…」
ちょっと悔しい気もするけれど…と付け加えて、供されるより早く焼き菓子を細い指先に摘み上げた。
「サヤ…、お腹が空いているのはサヤの方じゃないですか…。行儀が悪いですよ…」
「構わないわ、良い音楽はお腹が空くものなの…」
ハジが止めるのも気にせず、それを口に運ぶ。
とても深窓の令嬢には相応しからぬ豪快さで焼き菓子を頬張る姿につい苦笑が漏れる。
初めて会った時には想像も付かなかったけれど、ハジにはそんなサヤの姿もまた憎めず親しみが湧いたのも確かで…、嗜める言葉も自然に弱くなった。
「美味しい!ねえ、ハジも食べてごらんなさい…」
サヤは二個目の焼き菓子を摘まむと、今度はそれを半分に千切り強引にハジの口元に押し付ける。
「はい、お口を開けて…」
「サヤ…お…俺、いや…私は自分で食べられます…。子供じゃないんですから」
「何よ…、年下の癖に…。はい…」
生意気よ…と言わんばかりに押し付けられるそれを、ハジは仕方なく口に入れる。
焼き菓子の優しい甘味が口に広がるのと同時に、一瞬唇に触れたサヤの指先に益々頬が染まってしまう。
「美味しいでしょう?」
味も定かでないままもぐもぐと飲み下し、ハジはサヤに言われるままこくこくと頷いた。
ハジの同意を得られたサヤは満足気に微笑み、少年の淹れた紅茶のカップを形の良い唇に
運ぶ。何か塗っているのだろうか、サヤの唇はいつもバラの蕾の様にほんのりと赤い。
じっと見詰めていると、それだけでもうハジは胸が苦しくなってしまう。
どこか後ろめたいその感覚に…少年は逃れるように視線を外し、どうかこの胸の高鳴りが
彼女に聞こえてしまいませんように…と祈るばかりだった。
誤魔化しきれず、ぎこちなく茶器を鳴らす少年の指先にサヤがふいに視線を止めた。
「ねえ…、ハジ。指を見せてごらんなさい…。それは…またバラの棘で?」
「…いえ、何でもありません…から…」
慌てて後ろに隠そうとする腕をサヤは一瞬早く捕らえ、少年の荒れた指先を見詰めると、
今までの上機嫌が嘘のように彼女の表情は悲しみを含んだ色に変わる。
「サヤ…」
「…ハジ、もうバラは摘まなくて良いわ」
「…サヤ、でも…それは…」
自分にとって、それはここへ来て最初に任された仕事だった筈だ。いや…、サヤの為にバラを摘む…それはもうハジにとって仕事ではなく、もっと別の感情が混ざっている。
「ハジの指が荒れているの、前々から気になっていたのよ。今日は酷すぎるわ。そんな事、これからはもう他の誰かにやらせる事にするから。こんな指じゃ弦を押さえるのにも痛む
でしょう?」
「でも…」
「良いのよ…。ハジが摘んでくれるバラは嬉しいけれど、どうせもうすぐ冬が来てバラの季節も終わるもの…。今まで……棘まで落としてくれたのはハジだけ、凄く嬉しかったか
ら…もう良いの」
サヤはハジの両手を労るように撫でた。
滑らかな優しい感触が、ハジの心を波打たせる。
「…薬を持ってこさせるわ。私が塗ってあげるから、今日のレッスンはお休みよ」
「サヤ…」
胸の奥にむくむくと湧き上がってくる後ろめたい感情。
そうして彼女に触れていると何故だか体の芯が熱く火照ってくるようで…。
少年にはそんな自分がとても穢れている様に思えた。
しかしハジは愛しいサヤの手を振り解く事も出来ず、ただ体を強張らせるしかなかった。
「ハジ…」
ふいにサヤが言う。とても寂しそうな声。微笑んでいるのに、どこか寂しげな表情。
何の前触れもなく、時折覗かせるサヤの悲しげな微笑は、決まっていつもハジの胸をきゅうっと切なく締め付ける。
こんな大きなお屋敷で何の不自由もなく暮らしていても、サヤにはどこか寂しげな陰がある。
それが何なのか…はっきりとは解らないけれど、ハジは本能的にサヤの孤独を感じてしまう。
こんな広いお屋敷の中で、今まで一人の友達も無く…ただ音楽を奏で、花々を愛でて、暮らしてきたサヤ。
もし…ここを出る事が叶うなら、ハジは彼女にもっと色々な世界を見せてあげたいと思う。
そうしたらきっと、サヤがこんな風に寂しげな笑みを浮かべる事も無くなるかも知れない。
しかし、こんなに美しい少女はきっと外の世界の厳しさには耐えられないのではないか…。
そして今の自分には彼女を守るだけの力もない。
サヤの為に…自分には一体何ができるというのだろう…。
嘘のようだけれど、サヤと出会って以来…ハジの生活はすっかりサヤ一色に摩り替わって
しまっていた。それは彼女の従者としては当然の事なのかも知れない。
けれど、本当にそれだけならどうしてハジの胸はこんなに苦しくなるのだろう…。
ざわざわと騒いで、落ち着かなくなってしまうのだろう…。
「ハジ、この一年ですごく背が伸びたね。手もこんなに大きくなって…。きっとハジはすぐに私より大人になって、きっと…」
私より…?
一瞬感じた違和感をハジは問い詰める事も出来ず、オウム返しのようにサヤに先を促す。
「…大人になって…?」
サヤは遠い目をしていた。見える筈のない未来を見透かすように、ハジの顔に視線を合わ
せながらも、サヤはずっと遠いどこかを見詰めている。
「きっと、大人になったら私の傍から離れて行ってしまうのね…」
「そんな事…そんな事ありません…。俺…、いえ…私は…ずっとサヤの傍に…」
思わず大きな声でそれを否定する、その気持ちに嘘はない。
もう帰る場所すらない今の自分には、サヤだけが全てなのだから…。
この先も傍に置いて貰えるものなら、どうして自分からサヤの傍を離れるだろう…。
「……ハジ。でもね…ハジだってきっと大人になったら変わってしまうもの…。皆そうなのよ。そうでなくても…好きな女の子が出来たり、もっと他の世界を見たくなったりする
わ。そうしたら退屈な私の相手なんか…、嫌になってしまう。でもね、今はその言葉だけで私には十分なの…。ありがとう…ハジ…」
「どうしてそんな事を言うんですか?サヤ…私は…、私は…サヤの他に好きな女の子なんて…」
ハジはサヤに取られた手を振り解き、反対にサヤの両手をそっと包み込む。
サヤの手をすっぽりと包み込んでしまうには、ハジの掌はまだ少し小さくて、ハジは思わ
ず補うように、包み込んだサヤの両手に頬を寄せた。
「ハジ…?」
「大人になってもずっと…変わったり、しないよ…。ずっと傍にいて、守ってあげるから」

だから、待っていて…サヤ…
早く…大人になるから…
サヤの掌を、すっぽりと包み込んで守ってあげられる位。

「ありがとう。…ハジ」
サヤは、そんな少年の額に厳かに唇を押し当てた。
柔らかなその感触に、ハジはそっと瞳を閉じる。

どうして、自分は無力な子供なのだろう…。
どうして自分はサヤより年長に生まれなかったのだろう…。
サヤよりも低い身長がもどかしい。
サヤよりも狭い肩幅が恨めしい。
サヤよりも小さな掌が情けない。
もし今、自分が大人の男だったなら…
すぐさま自分は大人になっても変わらず、必ず傍に居る事をサヤに証明出来ただろうか…。
こんな風にサヤが寂しく微笑むのを慰める事が出来たのだろうか…。
そうしたら、
今よりももっと…このもどかしくて柔らかな気持ちをサヤに伝える術が見つけられたかも知れないと言うのに…

ああ、
神様…
たった一輪で良いから…
もし、この世に青いバラが存在するのなら…
他には何も要りません。
だから…
どうか神様…その一輪を…私に下さい。

…たった一輪で良いから…
もし自分に、朝露を含んだその青いバラの蕾を見つけることが出来たなら…
サヤは心から笑ってくれるだろうか……




「ハジ…、ハジ…、どうしたの?ハジ」
耳元でサヤに呼ばれて、ハジは自分が古い思い出の底に沈んでいた事に気付いた。心配そうに自分を覗き込むサヤは、姿こそ変わらないものの、身に付けている衣服は古めかしいドレスではなく、シンプルなデザインの白いワンピースだ。
膝上のスカートが歩く度にふわりと広がって、上品なのに可愛らしい印象を受けるそれはサヤにとても良く似合っていた。
サヤが安住の地と定めたこの南の島は、もう十二月だと言うのに冬とは名ばかりの暖かな日々が続いている。
陽気に誘われるように市街に出ると、気の早いクリスマスツリーが二人の目を引いた。
南国にはどこか不釣合いなソリやトナカイ、そして赤いコートのサンタクロース。
色取り取りのオーナメントを見て歩いているだけでも、気分は華やいだ。
「すみません、サヤ」
「大丈夫?ハジ…、ハジも人込みに酔ったりするの?」
「いえ、大丈夫ですよ…サヤ」
心配そうに覗き込むサヤに、ハジが穏やかに微笑んでみせると…彼女は漸く安心したように破顔した。
戦う使命から開放され、長い眠りから目覚めたサヤは、以前のあの張り詰めていた神経を解いたせいか…、どこにでも居る少女のように優しい空気をまとっている。

どうしてあんな昔の出来事が突然蘇ってきたのか…、視線を巡らせるとすぐ目と鼻の先に小さな花屋が目に止まった。
店先は鮮やかなバラの花で溢れている。
懐かしいバラの芳香に誘われて…、眠らない筈の自分がこの賑やかな雑踏の中で白昼夢でも見ていたと言うのだろうか…。
行き交う車と歩行者の流れに立ち止まっていた二人は、急に時間が動き出したかのように再び歩き出した。
ショーウィンドー映る自分の姿は、少年の頃とは余りにもかけ離れている。

「ねえ、少し休憩にしよう…」
あの日のようにサヤは笑って、丁度通り掛ったカフェの前で早速メニュー表を吟味し始めた。
あの頃から少しも変わらない姿に苦笑をこぼし、ハジはサヤの後を追った。
案内された席でも、サヤは尚もケーキセットの写真を覗き込んでいる。
平和な午後のひと時。
「ねえ、ハジ…このりんごのブラウニーとフルーツタルト、どっちが美味しいと思う?」
「…、悩むのなら両方とも召し上がったらいかがです?
サヤ…」
「もう、二つも頼むのが恥ずかしいから聞いてるのに…」
「では私もケーキセットにしますから、ケーキだけサヤが召し上がって下さい」
サヤは大きな瞳をくるくると輝かせた。
「本当?じゃあ、やっぱりケーキは三つ頼もう!」
「三つ…ですか?」
楽しそうに店員を呼ぶ、翳りのない彼女の横顔。
そんなサヤを見ていると、本当にやっと平和な時間が訪れたのだと実感する事が出来る。
あの頃、何も知らなかった幼い少年は…、ただサヤに心から笑って欲しいと言う気持ちだけで、あるはずのない青いバラを求めていた。無力な自分がサヤの為に出来る事、そんな事ばかり考えていた。

ああ、
神様…
たった一輪で良いから…

目を閉じれば…瞼の裏に咲き乱れる美しい青いバラの残像。
少年に見つけられる筈もない。
この世に存在する筈のない青いバラは、彼が立ち入る事を禁じられた屋敷の最奥、彼女の妹が閉じ込められていた搭の天辺にだけひっそりと咲いていた。
幻のように儚く鮮やかなあの景色を、今はもうただ単純に美しいと済ませる事は出来ない。
青いバラを見れば、サヤは否が応でも亡くした自らの半身の存在を思い出すだろう。
そして同時に失った多くの人々の命と幸せ、そして彼女自身の罪を…。
ハジは、じっと自分の掌を見詰めた。
あれから…自分は、サヤを守れるだけの男に成長出来たのだろうか…。
自問自答する心の中で、それでもあの少年の日と変わらないサヤへの想いが溢れた。
平和な日々が訪れて…シュバリエとしてサヤを守り、その身を挺して戦う必要のない今、それでも…自分はこうしてサヤの隣に在る事を許されている。
「サヤ…」
そっと名前を呼ぶと、彼女は黙ってハジを見詰め返した。
「昔、私に青いバラを摘んでくるように仰った事を覚えていますか?」
サヤは運ばれたブラウニーにフォークを刺しながら、恥ずかしそうに唇を尖らせた。
「…覚えてるよ。ハジを困らせたかったの…、だって嫌われてしまった方がずっと楽だと思ったんだもの…。いつかきっとハジが私の傍から離れて行ってしまうなら、先に私から
追い出してしまえば…傷付かなくて済むと思ってたの…」
じっと考え込む恋人の横顔に、サヤは再び心配そうに彼を覗き込んだ。
「ハジ?」
「…サヤ、今でもそう思っているのですか?」
ハジの静かな問いに、慌てて首を振る。
「ううん…」
「…………サヤ?」
サヤは幾分潤んだ瞳を瞬かせ、
「ううん、……今は、ハジに傍にいて欲しい。ずっと傍に居てくれる?ハジ…」
そう告げると、瞬時にサヤの頬が真っ赤に染まった。
同時に、ハジがテーブルの上に置かれたサヤの手を取ったのだ。重ねられた二人の左手、その薬指には同じデザインのプラチナのリングが輝いている。
「それは先日、誓ったばかりでしょう…。サヤ…」
「ハ…ハジ…。恥ずかしいよ。…人が、見てるから…」
「誰も…私達の事など気に留めません。サヤ…」
今ではサヤの手をすっかり包み込んでしまえる程大きな掌でハジはそっと優しく彼女の指を握った。

青いバラになど…、それ自体にもう何の意味もない。
形のある…目に見えるものなど…
この揃いのリングですら…

本当に大切なものは全て、目には見えず、色も形さえもない。
お互いを愛しく大切に想う気持ちも…
こうして共に居られる平和を尊いと感じる心も…

あの少年の淡い恋心は、今…形を変えて確かにこの掌の中にある。
ハジは、穏やかに笑ってサヤに告げた。
「昔から変わらず、貴女の事だけを想っていますよ。サヤ…」
「…急に、どうしたの?…んもう……恥ずかしいよ。ハジ…」
耳まで赤く染めて、サヤはつれなくそっぽを向いてしまう…。
「…今でも私が青いバラを探していると言ったら…笑いますか?…サヤ…」
「ハジ…?」
サヤはハジの意図するところが解らず、不思議そうな瞳を揺らしただけで…、
決して笑ったりはしなかった。

瞼を閉じれば、鮮やかに咲き誇る天上の青いバラ。
あの日の少年が、少女を想い祈る姿が重なる。

…たった一輪で良いから…

サヤの為に、今の自分に一体何が出来るだろう…
姿は変わっても、少年の日から…サヤを想う気持ちは少しも変わらない。

青いバラ自体に何の意味もない事も…今はよく解っている。
それでも…
彼は今も、青いバラを探し続けている。
たった一人少女の笑顔を守り続けるために…

                                    

20061130
ええと、『ハジ小夜祭』に献上させて頂いたSSです。
ちょっと桂版風味です。
バラの棘を取っておいてくれるハジが思った以上にツボだったので、
ちょっとそんな話を書いてみたかったのです。
それに私、ハジはサヤに一目惚れだと思っているので、そんな感じ。
ええ…、なんて恥ずかしいんでしょう…。
初めて書いた少年ハジは、私の中では13〜14歳位のつもりなんです、はっきり言って守備範囲外なので良く解りません。
でも、一つ…TVの少年ハジはかなりスレてそうだけど、桂版のハジってすごく素直そうなので、ちょっとそんな感じが出たら良いなあ〜と思って書いてました。
しかし、どうにも苦しいし、寂しいので、ちょっと大人ハジにも登場してもらってかなり強引なオチにしてしまいました。
で、ずっと密かにやりたかった、マリッジリングネタ…。
(と言う程触れられなかったけど)戸籍がある訳ではないと思うので、
まあ気持ちの問題ですけど、一応『愛を誓った仲』なのです。
い、今更ですけどね(笑)
投稿しといてもう遅いですけど、私って(いつも)誤字脱字多過ぎ!
ここでは直してるけど(まだあるかも?)そっちの意味でも非常に
恥ずかしいです。
頭の悪さ暴露…です。
コレで一生の記念になるのかしら…?誤字脱字記念か???
しかしそれは嫌だな〜。
なので、(挽回の意味も含めて)また何か期間内に書けたら投稿したいです。どうもありがとうございました!