ハジの腕はいつも優しかった。サヤを労るように抱き寄せてくれる。
長い時間の中で、サヤにはハジしか、そしてハジにはサヤしかいなくて………
翼手の始祖とそのシュバリエでありながら、単に主従の関係に留まらず、二人は家族…
姉と弟であり、
時に友であり、また唯一お互いに背中を預けて戦える相手でもあった。この長い時を、互いの血を交わす事で命を繋いできた。
そして、たった一度だけ、彼らは男と女だった。
 
 
記憶の底…
 
 
 
その夢の中で、囁かれる男の声はサヤの良く知るものである筈なのに、熱に上ずったような余裕の無さはまるで知らない男の様でもあった。濡れ羽色をした艶やかな髪に細い指を絡め首筋を抱いて、彼の頭を引き寄せる。間近で覗き込む男の瞳は深い海を思わせる潤んだ青で、ずっと見惚れていたい程美しかった。この瞳に映り込むものが、永遠に自分一人なら良いと思う。他の誰にも渡したくないと、サヤは自ら噛み付くように男の唇を塞いだ。まるで互いを喰らい尽くそうとするかのように…その口付けは激しさを増して、息が上がり、サヤは気が遠くなる。
触れ合う素肌の感触は、今までどんなに欲しても与えられる事のないものだった。
男の熱を全身で感じる。ずっと彼が欲しかったのに、それを口にする事は憚られて、素直になれないままどれ程長い時を過ごしただろう。
男に愛されたい。
素直なその想いは、彼女の抱える罪の意識をひどく刺激して、それ自体がもう禁忌であるかのような重みを持っている。男が傍に居てくれるのは、サヤの血が男を永遠に縛り付けてしまったからだ。
サヤが望みさえすれば・・・男は従者としてそれに応えるだろう…。だからこそ、これ以上男を欲してはいけないとサヤは長い間その想いを押し殺してきた。必死で目を背け、気付かないふりをしてきた。
外は雨が降っていた。
閉ざされた空間に、サヤと男は二人きりだった。もう、帰るべき場所はない。
明日、この雨が上がれば・・・二人とも生きている保障すらないのだ。
だから…
どこかで、何かが音を立てて崩れた。
ただ、生きている証が欲しかった。
 
 …サヤ…
 
今だけ…一度だけ…と
生々しい息遣いの合間に、男がサヤを呼ぶ。繰り返し、繰り返し。
男は熱を孕み上ずった声でサヤを呼ぶ。
 
…サ…ヤ…

身を切られるような切なさと、狂おしい愛しさ、その甘い名残を引き摺ったまま、サヤは目覚めた。
もどかしい。
いつまでも夢の中をたゆたっていたいのに、無理に引き裂かれるような…。
…それは不愉快な目覚めだった。
深夜、家の中は寝静まっている。
 
無性に喉が渇いて、サヤはゆっくりと体を起こした。物音を立てないように気を払いながら、温かい布団を跳ね除けると、ひんやりとした夜気がサヤを一気に現実に引き戻した。視線を上げれば、淡い色合いのカーテンの隙間から差し込む月の光。
月の光が良く似合う……あれは…誰…
懐かしい…と感じさせるそれが何なのか…。
暗い室内、日に焼けた畳の上にそれは真っ直ぐに届き、サヤの素足にも複雑な陰影の模様を落とした。頼りない足元を見下ろしながら、脳裏に浮かぶ素朴な疑問。
 
あれは…誰?
 
……私は……
 
けれど、ついさっきまで…手を伸ばせば触れる事が出来た筈の、甘い夢の名残は、指の間から零れる砂のようにその輪郭を失った。
まるで、サヤの追求を逃れ、月影に身を潜めるかのように…
後には、ただ餓える様な喉の渇きが残るばかりだった。
 
 
 
 
 
 
 
宮城カイが、養父宮城ジョージから受け継いだもの…それは町の風景と一体化した古びた食堂OMOROと、そして義妹…音無小夜の未来だった。カイがOMOROを継いだ時、彼はまだ二十歳をいくつか過ぎたばかりの若者だった。そんな彼が、その若さで一時は銃器を手に、秘密組織のエージェント紛いの活動を行っていた過去を知る者は、この平和な町には少ない。それはカイ当人にとっても昔の話で、今ではもうすっかり食堂の親父が板についていた。頭に白いものこそ混じり始めたものの、体型は以前と少しも見劣りがせず、若い頃はがむしゃらで、どこか、触れれば切れるような鋭さすら含んでいた表情には、いつしか深く柔和な笑みが馴染んでいた。
 
カイにとってのこの三十年は、必死で、そしてまさしく夢のような時間だった。
 
翼手と言う未知の生物と人類の行く末をかけて戦った過去、しかし彼にとってのその戦いは、人類の未来などと言う大袈裟で世界規模の思想からではなく、単に家族を守りたい、大切な人の笑顔を守りたいという素直な気持ちから、余儀なくされたものだった。これで全てが終わったのか…と半信半疑のまま、しかし必ず家族の幸せを守るという固い決意を秘めて戻った沖縄の地。
養父ジョージが大切に守ってきたOMORO
そして大切な『弟』リクの血を引く双子の娘達。
慣れない育児や、OMOROの切り盛り、そんな些細な日常に振り回される日々こそが、あの戦いの最中に求め続けたかけがえのない平和だった。
 
カイは一人、厨房の奥でゆで卵の殻を剥きながら、いつしか古い思い出に浸っていた。以前、小夜が美味しいと言ったゆで卵。
料理とも呼べないそれを、小夜はOMOROの新名物に…と笑った。
その笑顔はどこか寂しげで、図らずともその理由を知るカイは、肩を竦めながらもかける言葉に迷っていた。
あれから、もう三十年以上の年月が経っただなんて…
長い眠りから覚めた小夜は、あの日と変わらない少女の姿のままで、ただ地に這う程に伸びた黒髪がその年月を感じさせた。それまでにも、彼女が自分とは違う生物であるという証をまざまざと見せ付けられてきたのに、三十年と言う月日はその記憶を徐々に風化させ、こうして変わらない姿で眠りから覚める小夜を見るまで、あの戦いの日々すら夢の中の出来事のように感じ始めていた。
しかし、目覚めた小夜は紛れもなくカイの『妹』だった。
蘇ってくる過去の記憶。
振り返れば…一時は血の繋がらない妹を女性として愛した時期もあった。
愛した…という、その感情は嘘ではないけれど…、それは限りなく透明な想いで、今にしてみれば男女のそれとは百八十度方向の違う感情であったような気もする。カイと小夜の間に流れるものは、相手を焼き尽くすような激しい恋情のそれというよりも、まさしく兄と妹の穏やかな思慕だ。
しかし、きっと小夜がそれを望みさえすれば、カイは一人の男として、その想いに応える事が出来ただろう。
…そうならなかったのは、小夜が別の男を選んだからに他ならない。
 
…ハジ。
 
それが妹、小夜の恋人の名前だ。
 
カイは、あの物静かな青年の美しい横顔を思い出すと、苛立った気持ちそのままに手元にたまった卵の殻を乱暴にかき集め、シンクの横のごみ入れに投げ捨てた。少し大袈裟に舌打ちをして、誰もいない店内を顧みる。
「面白くねえな…」
きっと彼はどこかで聞いているのだろうから…。
カイは思う。
ハジは、小夜にとって唯一の存在なのだ。
それはあの男にしても同じであろうに。
どうしてそうややこしい事になってしまったのだろう。
小夜がその三十年と言う長い眠りから覚めた時、何故だか彼女は以前の記憶の一部分を失っていた。自分が人ではない事も、妹ディーヴァとの戦いの記憶も失われてはいないのに、ただ一つ、あんなに帰りを待ち焦がれていたハジに関しての記憶がすっかり欠損していた。
常に小夜の傍らに寄り添っていたハジ。
彼の記憶を失ったお陰で、小夜の記憶はどこか辻褄の合わないままなのだ。
そしてハジは、彼女が自分の記憶を失っている事を理由にサヤにはもう会わないと言い出したのだ。
ハジは黙ってカイに小夜を託した。
あれから一年余り、ハジは決して小夜の傍を離れようとはしない。けれど、頑なに小夜の前に姿を現そうとはしないのだあの男が何を思って、愛する小夜を手放そうとしているのか…、カイには理解が出来ない。
小夜の為を想って…、それは構わない。相手を思い遣る事はとても大切な事だ。
けれど、ハジのように身を引く事が美徳だとは思わない。それが小夜の為だとはどうしても考えられない。
現に今の小夜は心から笑う事が出来ないではないか…。
小夜が毎晩のようにうなされている事に、カイは気付いていた。
カイが大きな溜息をついて振り返ると、誰も居なかった筈の店内、カウンターの一番奥の席に黒衣の青年が座っていた。
人間離れしやがって…
カイは元より人間とは異種の生物である青年に、今更そんな感想を抱きながら…、大して驚くでもなく大きな業務用冷蔵庫の扉を開いた。
「カイ…、あなたには申し訳なく思っています…」
「ハジ…そうやっていつも付かず離れず、OMOROを張ってるのか…。小夜なら使いに出てるけど…。会っていかないのか?」
ハジと呼ばれた青年は、否定も肯定もしないまま切れ長の瞳をじっとカイに据える。彼を知らない者が見たら、とても冷たく感じられるのではないか…、そんなハジの美貌の前にも、カイは臆することなく、言葉を繋ぐ。
「小夜が心配なら、陰でこそこそせずに、名乗り出たら良い…」
「…それは前にも言った筈です。彼女が全てを忘れたというなら…、それは彼女が忘却を望んだのです。もう一度…、人として…」
「…お前…」
「あのオペラハウスで、一度は死を覚悟しました。再び生きてサヤに会えるとは、思っていませんでした。自分はここで死ぬのだと…。サヤが生きる希望を取り戻し、幸せになってくれるなら…その為に死ねるというのなら…それで構わないと思ったのです。私は彼女にとって死んだ存在なのです。辛い過去ごと忘れてしまえばいい」
「…ハジ…」
それでも、お前は生きて帰ってきたじゃないか…
それでも、沖縄に戻り絶え間なく襲う休眠の眠気と必至で戦いながら、小夜は待っていたのだ。
あの日、崩れ落ちるオペラハウスの瓦礫の向こうに消えた愛しい男の帰りを…。
そんな小夜を見ているから、尚更その選択が小夜の幸せだとは思えない。
「馬鹿言うな…。俺だってあいつが『人』として幸せになれるって言うなら、もう三十年も昔にそうしてるさ…。だけど、気持ちの上でいくらそう願ったって、実際には小夜の寿命は人間のそれをはるかに凌駕する。…お前以外の誰が小夜を守ってやれるんだ」「…………」
「この白髪を見ろよ…。いつかは俺だって死ぬんだ…」
カイの皮肉な口元にも、ハジは目を逸らし
「それでも…」
苦しげに、言葉を濁すばかりだった。
そんな青年の姿にカイはきつく眉間を寄せた。取り出した野菜を、無造作に調理台に投げ出し、開店の仕込みも捗らないまま脇に寄せた丸椅子に腰を下ろした。
「小夜の事はよく知ってるだろうけど、あいつ毎晩うなされてるぜ…。一体、誰のせいだ?」
小夜とハジとの間には、カイが知っている以上の時間が流れていて、だから…既に第三者である自分が、好き合っている二人の事情にとやかく口を挟むべきではないのかもしれない…。何があっても、この男は小夜の幸せを第一に考えていた筈だ。
ハジにも何か理由があっての事かも知れない…とも思う。
けれど、カイにはハジのその判断がとても正しいものとは思えない。
「…ともかく」
「サヤには会えません。私の存在はサヤの辛い過去そのもの…なのですから…」
きっぱりと告げる口調。
ハジの頑なな態度にカイは開きかけた口を閉ざした。
知らず、何度目かの溜息が零れる。
今はまだ時間が必要だという事か…。
「…お前等、不器用過ぎるよ…」
例え小夜には会わないのだと言っても、彼が小夜の傍を離れる事は考えられない。
渋々ではあるが…ハジを容認するように、カイは青年に背を向ける。
そうだ。
ハジも、そして小夜も、お互いを想い合う分だけ臆病で不器用なのだ。
振り返ると目を離したほんの数秒で、ハジは現れたとき同様再び煙のように姿を消していた。
カイはハジの座っていたカウンターの席に複雑な視線を投げた。
「小夜…、なんで忘れちまったんだよ。ハジは…、お前の全てなんじゃないのか?」遅れてしまった仕込みをするべく、野菜に手を伸ばすものの…、この先を思うとカイの包丁を握る手は鈍るのだった。
 
 
 
 
 
空が青い。目を細めて、サヤはもう一度、カイから手渡された買い物メモに視線を落とした。一つ一つ確認しながら、ポケットの財布を握り締める。
三十年という月日が経ったにも拘らず、この賑やかな町の喧騒はどこか懐かしい。
昔、養父ジョージが健在だった頃も、こうして買い物を頼まれたものだ。学校帰りには、親友の香里と寄り道をして、些細な出来事が嬉しかったり悲しかったり、あの頃、本当に自分は何の変哲もないごく有り触れた高校生だと思っていた。
記憶がない事にしても、想像できたのは常識の範囲内だ。
例えば交通事故とか、そういった類の…
まさか自分が、人間ではないだなんて…。
 
サヤが眠りから覚めると、そこには嘘のように平和で穏やかな日々が待っていた。
三十年経っても、変わらないカイの笑顔、親友の香織。
そして見違える程に成長したディーヴァの娘達。
戸惑いながらも、サヤは自分を受け入れてくれる彼らの元へ戻った。
この先どうするのかは決めていない。
けれど、戦いのない平和な日々はサヤを癒してくれる筈だ。
筈なのに…
コザの町を歩きながら、サヤは懸命に記憶の糸を辿っていた。
どうして、毎晩同じ夢を見るのだろう。
夢の中身は忘れてしまう癖に、それが同じ夢だとサヤには判る。
記憶がないという事は…例えるなら、それは幼い子供が道に迷い、迫りくる夕闇を前に帰る家を見つけられないような…そんな心細さを孕んでいる。
その不安感は自分が今生きているという実感すら麻痺させる。
翼手との戦い…
そしてディーヴァの最期…
頭では理解しているのに、サヤにはどうしても納得がいかない。全てではないにしろ、サヤは自分の記憶の不確かな曖昧さを感じずにはいられなかった。
平和が戻り、沖縄に帰って…、そして宮城家の墓所で眠りに就いた。
しかし、どうやって…?ディーヴァを倒して自分も死ぬ…そう思っていた筈だ。
どうして自分はここにこうして生きているのだろう…
本当にこれが現実なのだろうか…
まだ永い夢を見ているのだろうか…
…笑顔が…
脳裏に浮かんでは消える微かな声。過去を手繰り寄せる手がかりは、手を伸ばせば伸ばすだけ遠のいてしまう。不安になると、どうして私は誰もいない筈の後ろばかり気にしてしまうのだろう。誰かの腕に縋りたいのに、その腕が見付からない。
カイでも、他の誰でもなく…
自分を支えてくれていた…
あれは…誰?
 
サヤは二、三度頭を振ると、コザの街を思う。何かが足りない、けれど…この青い空の下を歩いていると、サヤは確かにこの地に生きていた自分を感じる事が出来た。
知らない筈の街角を、迷う事なく自分は歩く事が出来る。
それでも確かに何かが足りないのだ。
カイに渡された買い物のメモを握り締めて、サヤは不意に意識が遠のくのを感じた。
暗闇に堕ちて行く視界の中で…
誰かがサヤに告げる…
…笑顔が、欲しかったのです…
泣きそうな目をしてそう言ったのは…
 
ハ…
 
…………ジ?
 
突然、禁忌に触れたようにサヤの意識は完全に遮断され、彼女の身体は力なく路上に崩れ落ちた。
 
瞬間、黒い風が吹いた。
サヤの体が路上に打ち付けられる直前、疾風のように現れた黒衣の青年が、その体を受け止めサヤを衝撃から守った。
「…どうして、忘れてしまったのです?サヤ…」
意識のない青白い面に浮かんだ汗に、そっと指先を伸ばす。
愛しげにその前髪をすくう。サヤの大きな黒い瞳に真っ直ぐ見詰められたのは、もう昔の事だ。
愛しくて、愛しくて、青年にとっては何事にも…例え自分の命であろうとも、代えがたい存在。
「サヤ…」
良く響く優しい声音でその名を呼んで、自らを過去と定めた青年、ハジはその両腕に彼女の体を抱き上げた。
無表情の奥に僅かに寂しげな色を浮かべて…
 
                            to be continued
 
 
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20061019
沙奈さまから頂きました9000hitSSリクエスト作品でございます。
…が私が思っていたより、ちょっと長めになりそうなので、前編…『記憶の底…』として更新させて頂きます。
まだ話が途中なのでどのようなリクエストだったかは、今ここでは控え…た方が良いですよね?
ネタバレしてしまいますので…(笑)
沙奈さまからは、とても…もうそのままSSに出来るんじゃないかな〜?と言うほど、イメージ豊かな読み応えのあるリクエストを頂きまして、…わ、私が書いてしまっても良いんですか?とちょっと
ビクビクしながら、でも凄く楽しく書いています。
この後、中編『夜啼く鳥…』、後編『暁に開く花…』と続く予定です。
どうか、心広く見守って下さいませ。なるべくお待たせする事が無いように・・・したいと思っておりますので。
そして、沙奈さま素敵なリクエストをありがとうございます。イメージぶち壊しですみません。