「雪が見たいね…」
もう眠りに就こうかという、夜のひと時。
唐突にサヤが呟くので、ハジは少し意外そうな表情を覗かせた。
青い空と海、
眩しいほどの太陽の光。
サヤが安住の地と定めた南のには、雪ほど不釣合いなものはなかった。


一片の雪…


「雪…ですか?
「うん…。真っ白な雪…」
サヤはベッドの端に腰を掛けて、懐かしそうに瞳を細めた。

昔、二人で極寒の地を旅していた時には信じられない台詞だった。
一面の雪は確かに美しかったけれど、
ハジのシュバリエとしての能力に頼る事をよしとしなかった当時のサヤは、何度となく雪の前に進路を阻まれ悪態をついていた。
それを思い出したのだ。

例え風邪を引くような事はなくとも、サヤの体は単純にシュバリエのそれほど強くは無い。
血液の摂取以外にも食事睡眠は欠かせない上に、いくら美しかろうと、寒いものは寒い。旅の途中、重く垂れ込めた空も、身を切るような風の冷たさも、サヤを悩ませた。
第一、あの地には悲しい思い出が多過ぎる。

サヤはハジのそんな思いが解るのか…くすくすと小さく笑った。
既にベッドに横になる体勢だった体を起こし、ハジが無言で差し出したカーディガンを肩にふわりと羽織る。
眠気はどこかへ行ってしまったのだろうか…。
素足を床に下ろし、スリッパに足を通すと、ハジにも隣に座るように促した。
ハジは言われるままに、サヤの隣に腰を下ろす。
途端に二人分の重みを受けてベッドがギシッと音を立ててきしんだ。
「あの頃ね…。あなたと二人で雪原を歩きながら…、いつも辛くて、辛くて、自分の犯してしまった罪の重さに耐え切れなくて、…このまま雪と一緒に真っ白に消えてしまいたいって…思ってた…」
「サヤ…」
「前を歩いて、先に道を作ってくれるハジの黒い背中を見詰めながら…」
寄り添うサヤの背中をそっと労るように抱き寄せて、ハジもまた当時を思い返したのか…白いその瞼を伏せた。
「もし、私が普通の人間の女の子だったら…、良かったのに…って」
「サヤはサヤですよ…」
当時と同じ台詞を告げて、ハジは静かに微笑んだ。
「貴女が自分を責めて、悩んでいる事には気付いていましたが……」
今のように抱き締めて慰める訳にはいかなかったでしょう…と、優しい微笑が苦笑に変わる。
サヤもまた、そんなハジの言葉に唇を尖らせてみせた。
「そうね…。でも抱き締めてくれたら…良かったのに…。ねえ、ハジ…」
頬に、睫毛に、ふわりと舞い降りた純白の雪の結晶は…、サヤの体温に触れて儚く消えてゆく。
その度にサヤは自分の命を実感する事が出来た。
あの厳しい自然の中で…ぎりぎり限界の体力の際で、確かに生きている自分を…
そして…
真っ白な世界に、漆黒の髪をなびかせて…
どんなに過酷な状況の中でさえ、優しい腕を差し伸べてくれた貴方。
あの頃…
そしてどんな時代にも…
ハジが居てくれたから、戦ってこれたのよ…。
「あの頃には…私もう貴方を愛していたの…」
嬉しそうにサヤが笑う。
今だからこそ…
沢山の犠牲の上に、やっと手に入れる事の出来た平和な日々を暮らしているからこそ…
認める事の出来る想い…
ハジは、そんなサヤの告白に…とうに気付いていましたよ…と言わんばかりに、サヤを抱く腕に力を込めた。
「やっぱり…抱き締めておけば良かったですね。人肌が一番温かいのですから」
真面目な顔をしてハジが言う。
ハジの腕に身を任せ、サヤは暫く考えるようにしていたものの…
やがて居心地を正すように身を起こした。
「やだ…、ハジ…スケベ…」
この手は何?と、ハジを睨み付けた。
何の予告もなくハジの左手が、サヤの胸元を探り始めていて…
サヤは危うく流されてしまいそうになりながらも、その手を押さえ込んだ。
「それは心外です…。…誘っているのはサヤの方でしょう?」
夜、ベッドの上に恋人を呼んでおいて、
可愛い顔をして…そんな昔から『愛していた』だなんて甘い告白をして…
「だって…そんな…」
つもりじゃなかったのに…と訴えるサヤの言い分も虚しく、ハジは軽々とサヤの体を抱き上げてベッドの上に押し倒した。
圧し掛かるハジの黒髪が零れてサヤの鼻先を掠めた。
洗い髪はまだ僅かに湿り気を帯びて、シャンプーの甘い香りがした。
「ハジの髪…良い香り…」
シャンプーを新製品に取り替えた事を言いたいのだろうか…。
出鼻を挫かれ、あまりの緊張感の無い恋人の発言に、ハジは叶わないとばかりに苦笑する。
「まあ…貴女も同じ香りなんですけどね…。サヤ…」
ハジがサヤの髪に鼻先を埋め深呼吸する気配に、サヤはじっと瞼を閉じた。
瞼の裏に広がるロシアの雪原。
真っ白な世界に、一点の墨を落としたような存在感。
身を切るような冷たい風に、漆黒の髪を靡かせて…
ハジがそっとその手を差し伸べる。
「サヤ…」
低く穏やかな声音。
あの時、

あの瞬間…

サヤには確かに見えたのだ。

愛する男の背中に…

力強く、神々しく羽ばたく黒い翼を…
真っ白な世界に舞い降りた彼は…
いつだって、サヤにとっては行く先を導く守護天使のようで…
「ありがとう。…ハジ」
ハジは僅かに愛撫の手を休め、サヤを見詰めると黙って再びサヤの唇を塞いだ。
男の愛撫に、熱を与える男の肌に…サヤは次第に意識が蕩けてゆくのを感じた。
二度と、二人の上に冷たい雪が降り積もる事は無い。
代わりに…
サヤは、熱を与える男の肌に自分の命を実感するのだ。

20061030
…どこにも、明記してませんが(駄目じゃん)新婚です。もうすぐ結婚する位の関係が良いなあ〜と
思って書きました。実は密かに、以前書いたロシアを旅する二人のその後…というか。
それはまだ3月頃に書いたので、サヤとハジが今後どうなるのか…何にも解らずに、ただ最後は幸せになって欲しいと思って書いたので、強引に幸せになって貰いました。
結婚するとですね、…というか一緒に暮らすようになると同じ匂いになってゆくよなあ〜と言う
実体験を元に(笑)だってシャンプーもボディーソープも同じの使うし。
なんか、書きたかった…のです。