前を歩く、彼の背中・・・

 眩しい日差しの中、前を歩くハジの背中。

以前と変わらない濃紺のリボンで一つにまとめた黒髪は、あの頃から比べて少し伸びただろうか・・・。

見上げる程の長身に反して、無駄な肉の一切無い引き締まった体はとても痩せた印象を受ける。

しかし、こうして白い薄手のシャツを纏っただけの背中は、サヤにはとても広く逞しく感じられた。

気が遠くなるほど昔から一緒に居るのに、まじまじと彼の背中を見詰める機会など今までにあっただろうか・・・。

翼手化したままの右手を極力目立たせない為、ハジは袖の短いシャツを着る事がない。

手首までを袖で隠し、手首から先は包帯を巻く事で隠している。

そうする事でまた、赤褐色をした右手の固い皮膚がサヤを傷付ける事が無い様にしているのだと

改めて気付いたのは、つい最近の事なのだから・・・サヤはあまりの自分の鈍さが少し情けなくなる。

先を急ぐでもなく、前を歩いて行くハジの背中を見詰めながら、

彼がサヤに触れる時の優しい仕草を思い出すと、思わず頬が熱くなった。

思えば、彼と過ごした時間の大部分は翼手を倒す為だけに生きていたのだから・・・

こうして真昼の明るい公園をのんびり二人で散歩するなんて、まさしく彼がまだ人間だった頃、

ジョエルの館で主人と従者として庭を散歩して以来かも知れない。

ハジはサヤの従者だ。

・・・いや、従者だったというのが正しい。

永遠に繰り返されるかのように思われたディーヴァとの戦いが、実妹の死という形を持って終結し、

サヤは彼女を想う二人の男性、義兄のカイ、そしてサヤ唯一のシュバリエ、ハジの言葉に生きる未来を選んだ。

そして間もなく就いた長い眠りが覚めた時、サヤとハジの関係は少し今までとはその形を変えていた。

サヤはサヤであるし、ハジはハジである。

当然のように、ハジは変わらずサヤの傍らに控え彼女の身の回りの世話して、サヤはそれを受け入れている。

かつてのように、サヤが記憶を無くしたという訳でもない。

しかし、二人の間に流れる空気は以前と少し違う。

それが何なのか・・・、目覚めてからずっと感じているその差異に気付きながら、

サヤは心のどこかでそれを有耶無耶にしてきた。

 

目覚めて早1ヵ月。

三十年余りの長い眠りから覚めて、サヤが最初に目にしたのは懐かしいハジの姿だった。

ハジは大切にサヤの体を抱きかかえ、まだ半分夢を見ているかのようなサヤに、目覚めの血を与えた。

シャツの襟を寛げ、優しく導くようにサヤの前に首筋を晒す。

サヤは本能のままに、彼の白い肌にそっと唇を重ねた。鋭い犬歯がぷつりと皮膚を破り、

溢れ出す血液は甘くサヤの喉を潤した。

彼の懐かしい穏やかな笑顔の前に、涙が零れて止まらなかった。

ハジ・・・、ハジ・・・、ハジ・・・

 

こうしてハジの背中を見ていると、それはもう誤魔化しようの無いもののように思われた。

これまで、ハジがサヤの前に立つ時は、いつもその背中に庇われる時だった。

翼手との戦いの場面で、本当はとても強いハジが敢えてサヤの背後でサポートに回っていたのは、

勿論彼女の血が唯一翼手を倒す力を秘めているからに他ならないのだけれど、

それだけではなく・・・ハジは自責の念に駆られ続ける自分の気持ちを尊重してくれているのだと、

薄々サヤは気が付いていた。

ハジが後ろにいてくれる、ただそう思う、それだけでどれだけ安心して戦う事が出来ただろう。

そして彼がサヤの前に背中を晒して立つ時、自分が彼に守られている事にどれだけ安堵した事だろう。

その時は気付いていなくとも、今のサヤにはそれがよく解った。

ハジのほんの些細な挙動にも、サヤの心はさわさわと震える。

それが何故のものなのか、そうと気付いたのは最近の事だ。

ハジを好きだと想う気持ちが、単に家族に対するものではなく、

まして親しい友人に対するものでもなく、もっと色鮮やかな柔らかい感情だったなんて・・・

ただ平和になってみなければ考える余裕すらサヤにはなかったのだ。

ハジを想うと胸が騒ぐ。

彼の一挙一動を目で追いながら、その甘くてくすぐったい胸の痺れを、サヤはどこかそわそわと噛み締める。

本当は今すぐにでも、あの広い背中に触れて彼を振り向かせたいのに、

自分の胸がこんなにどきどきしている事を知られたくないとも思う。

夜、眠る必要のない彼がサヤに寄り添うように体を横たえる、その間近に覗き込む穏やかな青い瞳は、

以前よりずっと柔らかみを増した。

戦う必要のない嘘のように穏やかな日々は、毎日ハジの新しい一面を覗かせてくれるのだ。

それとも、自分の方が変わったのだろうか・・・。

以前以上にハジを愛しいと思う気持ちが、自分にそうさせているのだろうか・・・。

いつも共に居てくれるハジを、見詰めている自分が変わったのだろうか・・・。

そう思った瞬間、サヤの背筋を甘い痺れが走った。

じっと見詰めるハジの背中。

「サヤ・・・」

立ち止まったサヤの気配に、前を行く青年が振り返った。

まぶしい・・・

サヤは思わず目を細めた。

長い沖縄の夏が終わろうとしている。

どこか潮の香りを含んだ風にふわりと舞う長い髪が彼の白い肌を縁取っている。

以前は冴え渡る月の光がよく似合うと思ったハジの横顔は、

その夏最後の眩しい日差しを浴びても一層その美しさを際立たせるようで・・・

「・・・・・・」

「・・・サヤ?」

応える事も出来ず・・・ただ立ち尽くすサヤに、ハジがわずかに首をかしげた。

「・・・ハジ。・・・私・・・」

「疲れてさせてしまいましたか?サヤ・・・目覚めてまだ間が無いのですから・・・」

ハジはサヤの体を気遣うように、恨めしげな表情で眩しい太陽を見上げた。

「ううん、違うの・・・ハジ」

ああ、なんて言えばいいのだろう・・・

ハジが好き・・・こんなにも・・・

たったそれだけの事なのに・・・

その一言を上手く声にする事が出来ない。

・・・貴女を愛しています・・・

あの長い別れの日、彼が最後にそう告げてくれた言葉にすら、

サヤはまだ自分がはっきりと答えていない事に思い至る。

愛しているという言葉の意味が、今になって現実味を帯びて蘇る。

・・・私も愛してるの・・・貴方を・・・ハジ・・・

「あ、あの・・・私・・・」

・・・ああ、ハジに触れたい・・・と思う。

以前とは違う何かが、サヤの中に生まれようとしている。

「あ、・・・あの・・・」

ハジの訝しむ様な・・・それでいて、暖かく見守るような視線。

「・・・ハジ。・・・あ・・・えと、手を・・・繋いでもいい?」

突然のサヤの申し出に、ハジは一瞬だけ拍子抜けしたように、しかし嬉しそうに瞳を細めると、

すっと左の手を差し出した。

「一つ一つ断らなくていいんですよ・・・。サヤ・・・」

言外に、私の全ては貴女のものなのだから・・・と滲ませて・・・。

「だって・・・」

少しぶっきらぼうな態度で唇を尖らせて、サヤはハジの指の先を握り締める。

華奢なサヤの指先を、ハジはしっかりと握り直した。

サヤはサンダルの足元に出来た濃い陰をじっと見詰めて思う。

ちゃんと・・・言わなくちゃ・・・

「サヤ・・・?」

「あ、あのね・・・ハジ・・・。私・・・」

ハジの視線が真っ直ぐに自分に向けられている事を感じながら、サヤはゆっくりと言葉を選んだ。

「・・・いつも、傍にいてくれて・・・ありがとう。ハジ・・・。ずっと・・・待っていてくれて・・・。あのね・・・、私・・・」

最後はとうとう言葉に出来なくて、サヤは俯いていた顔を上げると自分の表情を隠すように、

覗き込むハジの首筋に片腕で強引にしがみついた。

ハジはわずかに身を屈め、サヤに任せている。

サヤは抱き寄せたその耳元に、そっと吐息を吹きかけるようにして甘く囁いた。

サヤの体を抱き寄せるように支えていたハジは静かに瞼を閉じて、彼女の告白を聞いた。

優しい抱擁はやがて次第にきつくなり、互いを求める気持ちそのままにしっとりと唇が重ねられた。

「初めてあなたに出逢った子供の頃から、あなた一人を愛してきました・・・サヤ」

もう泣かないと決めた筈なのに、サヤの頬には涙が零れていた。

サヤの涙に気付いて、ハジの唇がそっとそれを優しく拭う。

「・・・でも、ハジ・・・私一人が・・・こんなに幸せになっていいの?・・・ハジ・・・」

サヤの脳裏に焼き付いた石化した妹の死に顔。

一度は死を覚悟した。

まさしく死ぬ為に生きていたような人生だった。

ディーヴァを解き放ち、この世界に大いなる厄災の種をまいた自分の罪、

そしてそれ以上に実妹を手に掛けようとする自分の罪に、サヤは自分が生きていてはいけないのだと、

自らの死を定め、ハジにその辛い役目を負わせた。

ハジにしか頼めない。

けれど、サヤの心のどこかで、死ぬのならハジの腕の中で果てたいという気持ちがあったのではないか・・・。

「私・・・一人・・・」

「サヤ・・・」

ハジは赤く泣き濡れたサヤの瞳を真っ直ぐに覗き込んで告げた。

「一人ではありません・・・」

あなたが幸せならば、私はそれ以上に幸せなのです。

・・・以前、ハジはこんなに表情が豊かだっただろうか・・・。こんなにも嬉しそうに、穏やかな表情で・・・

まるで、遠い少年の日に戻ったようで・・・

「もう充分、あなたは赦されているのです。サヤ・・・」

そんなハジを見ていると、サヤは自分の方が恥ずかしくなって再び足元の陰に視線を戻し、すたすたと歩き出した。

ハジは少し困ったようにその後を追う。

「・・・サヤ、待って。・・・サヤ・・・手を、繋いでも良いですか?」

耳まで赤く染まったサヤに、ハジはそっとその手を差し出して・・・

そんな意地の悪いハジの台詞に、サヤはほんの少し唇を尖らせる。

二人の脳裏に一瞬蘇る、穏やかな動物園での日々・・・

「もう、・・・断らなくても良いって言ったのはハジだよ・・・」

・・・私の全てだって、とっくにハジのものなのに・・・

差し出されたハジの手を、サヤは尚もぶっきらぼうに握り返した。

どちらからともなく、二人の指が絡み合う。

いつも、寄り添うように後ろに控えていてくれたハジ。

これからは共に並んで歩むのだ。

その人生を・・・

サヤは隣に並ぶハジを振り仰いだ。

眩しい太陽の光に目が眩む。

「ハジ・・・一緒に幸せになろうね・・・」

「サヤ・・・それがあなたの望みなら・・・」

何度も繰り返されてきたハジの台詞に応えるように・・・

今・・・二人の陰が一つになる。


20061011
どうしてこんな事になってしまったんだろう・・・。凄い恥ずかしいよ!この二人。
・・・ひとまず、30年経って、サヤの目が覚めて再会し二人がぎこちなく、お互いを想う気持ちを確認するというか、
今まで無自覚だったサヤが、改めて自分がどれほどハジを愛しているか(おお!)に気付く話が書きたかった模様です。じたばた・・・。
ゆ、赦されたいのは私です・・・。
これまで散々出来上がっている二人を書いてきましたが、この二人は一応まだ・・・してません、という事で、
手を繋いでちゅうがやっとでした。まあ、真昼間の公園で、それ以上の事をしたら捕まります。
目覚めて一ヶ月と言う適当な設定で、アバウトに書きたいことだけ書いてしまった・・・。
・・これはサヤサイドの話ですので、今度はハジサイドで書きたいな〜と思っております。
出来たら、夜の寝室の話・・・。
今回タイトルに一番苦しんで、苦し紛れ・・・。まあ、への六番よりはマシか・・・という感じです。うへえ・・・。
いつも適当なタイトルですみません。
・・・まだまだ書きたいよ。この二人。