いつか、海で・・・         

古い石組みの階段を下り切ると、突然視界が開け、目の前に広大な海が広がった。

そこは小さな海沿いの町で、どこか時間が止まってしまったかのように寂れていた。海岸に辿り着くまでにすれ違う人もなく、静かで、遠くから聞こえてくる波の音や、次第に濃くなっていく潮の香りがどこか現実離れしているようにも感じられた。
二人で並んで歩く。
たったそれだけの事で満たされるものもあると言うのに・・・。
二人にとって現実はとても過酷なものだ。
砂の上に降り立つと鼻に抜ける潮の香りは一層新鮮で、サヤは大きく深呼吸を繰り返した。
直に日が沈もうとしている。
遠い水平線にきらきらと夕陽が反射して、辺りは柔らかな朱色の影に包まれている。
夕方の海から吹く風は遮るものも無く、肩に下ろしたサヤの長い黒髪を悪戯に弄んでは宙に舞わせる。
彼女はそれを何度も両手で梳いては押さえつけるのに、仕舞いにはとうとう諦めた様子で、風に任せていた。

きっちりと着込んだドレスは砂浜には酷く不釣合いで、けれど遠い水平線を見詰めるサヤの横顔はとても美しかった。
夕陽がサヤの頬を朱色に染める。けれど、それは夕陽の照り返しのせいだけでなく、初めて間近で海を見る抑え切れない興奮によるものかも知れない。
こんなサヤは久しぶりだ。
ハジは少し離れた砂の上で、そんなサヤの姿を見詰めていた。
箱庭のように閉ざされた世界でサヤは育った。
好奇心の塊のような少女が外の世界を知る手段は極限られていて、人伝に聞いた話や本を読んで得た知識を確かめたくて、口癖のように「いつか・・・」と繰り返していた。いつか外の世界を観に行くのだ・・・と言ったあの言葉が・・・
その時はハジも一緒よ・・・と笑った約束が・・・
まさかこんな形で叶えられる日が来るとは、サヤも、ハジも、想像すら出来なかった。
しかし、サヤは外の世界では生きていけない、その頃まだ子供だったハジにもそれはうっすらと感じられた。
そして、それはハジが大人になって確信に変わった。
サヤは、歳を取らないのだ。
初めて出逢った頃・・・見上げていた彼女の背をとうにハジが追い抜いても、サヤの容貌はあの頃と少しも変わらず、時折あどけなささえ覗かせる無邪気な少女のままだったのだから。

サヤはあの大きなお屋敷の奥深くで、ジョエルという稀代の資産家の庇護があるからこそ、世間の好奇の眼差しや畏怖の念から守られて生きていけるのだと思った。
あの眩しい光に満ちたバラの庭。
例えそこが仮初めの楽園だったのだとしても、あの頃のサヤは生命力に溢れていた。零れんばかりの笑顔をハジに惜しみなく与えてくれた。彼女が何者であったとしても、傍に居られるだけで幸せだと思っていた。
それは今も変わってはいない。
けれど・・・。
今はもうあの眩しい楽園を追われ、彼女を守るものは自分一人しか居ないのだ。
海が見たいと言い出したのは、移動の汽車の中での事だ。
膝の上に広げた地図を指先で辿りながら、目的地の町が海に近い事を知ると、サヤは突然思い立ったように海が見たいと切り出した。
ジョエルの館で育ったサヤは、川や湖は知っていても、海というものを見た事は無い。
僅かに赤みを帯びた黒い瞳は純粋な好奇心を宿しているようでもあり、その表情は、一瞬・・・かつてジョエルの館で何不自由なく暮らしていた頃のサヤを彷彿とさせた。そんなサヤを見るのは、この長い旅が始まって以降初めてのような気がした。
ハジが主人であるサヤの願いを聞き届けない筈はないけれど、サヤはハジの反応を心配でもするかのように、
じっとハジの様子を伺っている。

ハジは澄んだ青い瞳を細めると、
「夕方になってしまいますよ・・・」
と、小さく笑った。
慌てて指定された宿に向ったところで、待っているのは初対面となる赤い盾のエージェントだけだ。少し位待たせても構いはしないだろう。彼らがサヤを見る時、大抵はその丁寧な物腰の奥に人間ではない異質の化け物に対する畏怖の念と好奇心がありありと浮かぶ。
不愉快な視線を向けられるのはハジも同じではあったけれど、“サヤ”と言う存在を単に翼手を倒すための兵器だと教えられてきたエージェント達には、彼女の姿は意外な程無防備に映るのだろう。
古い写真とそっくり変わらぬ姿で存在している事を除けば、サヤは一見どこも普通の少女と変わらない。
普通の少女どころか、サヤはとても美しくて・・・
ひと目見たら忘れられないほど印象的な艶やかな黒髪と白い肌。唇は赤い花を落としたようで、初めて目にする生身のサヤに彼らは心を奪われるのだ。そして同時に本能が呼び覚ます原始的な恐怖に取り憑かれる。
ハジはサヤの傍らに仕えながら、そんな人間達の姿を見続けてきた。

かつては自分も彼らと同じ人間であったと言うのに、ハジは彼らを好きにはなれなかった。
「サヤ・・・寒くはありませんか?」
無心に海の向こうを見詰める後姿に、ハジは堪らず声を掛けた。
海を見詰めるサヤの横顔は美しくて、いつしかそのまま波のしぶきと共に夕陽に解けてしまいそうな錯覚を覚えていた。ハジにとってサヤはかけがえの無いたった一人の存在で、それは初めて出逢った子供の頃から変わらず、サヤの存在だけがハジをこの現実の世界に繋ぎとめている。サヤの血を受けた事でハジの肉体は不老不死へと変化し、そればかりか、眠る事も食事をする事も、もうハジには必要の無い行為だ。おおよそ人として・・・その生を実感できる瞬間を奪われ、自分が今いる世界が現実であるのか、長い夢であるのか、ともすれば自分が生きていると言う感覚さえ失われてしまいそうな日々の中で、サヤだけが、ハジに生きる欲を与えてくれる。
「触れても良い?」
問いには答えず、サヤは振り返るとハジに許しを請う。
ハジの唇に指先を伸ばしかけ、ハジの一瞬驚いたような表情を横目で小さく笑い、すっとあっけなく身を翻すと・・・サヤはためらう事無くスカートの裾を膝までめくりブーツを脱ぎ捨てると、淑女にあろう事か・・・ドレスの裾を強引に片手でまとめ、素足を晒して寄せては返す波につま先を浸した。
「サヤッ・・・」
「・・・冷たい!」
慌てて駆け寄るハジの手を振り払い、そのまま指先を足元の砂に伸ばす。
泡立つように寄せる波に恐れるように一瞬触れて確かめると、今度は大きく足を踏み出していた。
濡れた砂の感触がくすぐったいのか、よろけるような仕草が危なっかしくて、ハジは振り払われた手で強引にサヤの腕を取った。
「危ないですよ。サヤ・・・。・・・ドレスが・・・」
「ハジこそ、折角の革靴が濡れちゃったね・・・」
ハジも足元はしっかりと海水に浸かっている。
サヤは悪びれもせずに、確信犯的な笑みを浮かべた。
「・・・私の事は構いませんから、・・・さあ、サヤ・・・」
尚も先へ進もうとする彼女の腕を、ハジはしっかりと掴んで引き止めた。
「・・・完全に日が落ちてしまう前に、行きましょう」
「まだ良いでしょう?・・・あの夕陽が半分海に沈むまで・・・」
お願い・・・とハジを覗き込んでくる。
ハジが絆される様にしてその腕を開放すると、サヤは困らせてごめんね・・・と小さく呟いた。
無意識のように伸ばされた指先が、隣に立つハジの袖を心細げに掴む。
たったそれだけの仕草に、ああ、いつもの癖だ・・・と、ハジはどこか心がほっと安らぐのを感じていた。
「海が見たかったの。だって本で読んだ事しかなかったのよ。・・・海の水って・・・本当にしょっぱいのね・・・」
「サヤ・・・?」
振り返ると、彼女の瞳にきらりと光るものが零れて、それはあとからあとから溢れては高潮した頬を濡らした。

「サヤ・・・どうしたのです?泣かないで・・・サヤ・・・」
突然理由もわからないまま、涙を零す主の姿にハジは密かに狼狽した。
海が見たいと言った時、不意に時間が巻き戻されて昔に返れるような錯覚を覚えた。悪戯な風に何度も両手で髪を整える仕草に、水平線の彼方に心を奪われる横顔に、そして素足やドレスが濡れるのも厭わない大胆な行動に、ハジは無意識にあの頃の彼女が再び戻るような期待を抱いていた。
「ハジ、顔を見ないで・・・」
「サヤ・・・」

サヤの涙は、ハジにとって何よりも辛い。
厳しい戦いの毎日の中で彼女が傷付いていない筈は無いのに、ハジはただ傍に居て・・・それなのにどうしてやる事も出来ず、どうすればこの愛しい少女の心まで守ってやる事が出来るのかが解らない。
戸惑うハジの首筋に、サヤはそのしなやかな腕を差し伸べた。
「サヤ?」
「やっぱり、少し寒い・・・」
抱いて・・・と言う無言の仕草に促されて、ハジはその腕にサヤを抱き上げた。
顔が見えないよう、細い腕を首筋に巻きつけるようにしてしがみついてくる。
抱き上げたドレスの裾が強い風に舞う。
「戻りますか?」
「ううん・・・もう少しだけ・・・」
「サヤ・・・もう泣かないで・・・」
潮の香りよりも強く、サヤの甘い体臭がハジを包んだ。
「うん、でももう少しだけ・・・こうして居させて・・・ハジ・・・。・・・ずっと海が見たかったの・・・ハジと二人で。約束したでしょう?昔。一緒に旅に出ようって・・・」
「ええ・・・覚えています」
「いつかこの海を渡る日もやって来るのかな?」
サヤは一つ大きく息を吸って吐くと、言葉を選びながら続けた。
「ハジ・・・ごめんね。私のせいで、・・・この旅に出てから。ううん・・・私がハジをシュバリエにしてしまってから、ハジは昔みたいに笑わないね。いつも心配そうな顔で私を見るの・・・」
首筋にしがみつかれているお陰で、彼女がどんな表情でそれを言ったのかは定かでなかった。
「謝らないで・・・サヤ。・・・私は・・・」
「・・・ハジに昔みたいに笑って欲しいのに、今の私はハジに寂しい顔ばかりさせてしまう・・・」
「サヤ・・・そんな事は・・・」
「でもね、私は狡いのよ。・・・ハジを苦しめる事が解っていても・・・」
抱き締めた耳元で小さく、サヤが囁く。
「傍に居たいの・・・」と、震える声がハジに告げた。
ハジはしがみついてくる少女の体を強く抱き締めた。
それはハジの台詞だった。
サヤの傍に居たい。
例え、この身が人外の化け物に成り果てたとしても、サヤが拒まない限り、ハジはサヤの傍に居たいのだ。彼女を守るためなら、この命を捨てる事すらためらいはしないと言うのに。
「サヤ・・・。私はあなたのシュバリエになったのです。あなたと共に永い時を生きて、必ず・・・あなたを守ります。・・・あなたを・・・」
サヤは腕を緩め、そんなハジの顔を覗き込んでくる。
その表情はもう泣いては居なかったけれど、以前の・・・あの眩しい笑顔からは程遠くどこか寂しげで、ハジは「愛しています・・・」と唇から零れそうになった言葉を飲み込んだ。
「・・・ありがとう。シュバリエにしてしまって、ごめんね・・・ハジ・・・」
「サヤ・・・それは・・・」
謝らないで・・・
例え、そうと知ったとしても、自分はサヤのシュバリエになりたかったのだと・・・言えないまま、サヤが咎めるようにハジの唇に自らの指先で触れる。
「ハジは優しいから、これ以上ハジの言葉を聴いていたら・・・決心が鈍ってしまうの・・・」
「サヤ?」
「ハジにお願いがあるの。・・・ハジにしか頼めないのよ」
「・・・・・・」
問いかけるハジの瞳を真っ直ぐに見詰めて、サヤはそっと目を伏せる。
「・・・きちんとハジの目を見て頼める時がきたら、ちゃんと話すから・・・。今はこうしていて・・・ハジ・・・」
サヤの指がそっと優しくハジの頬に触れる。ハジの胸に縋るようにしがみついて、サヤは言った。
「いつか、また・・・ハジと二人で海を見られたら良いね。・・・その時は・・・もっと明るい色の海が良いな・・・」
「・・・そうですね。・・・いつか・・・」
全てが終わったら・・・
その先は言葉にはせず、ハジは静かに頷いた。

沈みゆく夕陽が砂浜に長く、一つになった二人の影を敷いて・・・
やがて、辺りは夜の闇に包まれてしまうだろう。
寄せては返す波の音だけが、絶え間なく響いている。
その約束が果たされる日は、まだずっと先の未来。
いつか、
いつか・・・海で・・・

20060926

ええと、結構前からちょっとずつ書いていたものが、漸く日の目を見る事が出来そうです。
何が書きたかったかというと、お互いに愛し合ってるのに擦れ違う二人・・・かしら・・・はて?
ハジとサヤってお互いに凄く想い合ってるのに、凄く二人とも不器用そうで・・・。
多分例の約束をするにあたり、サヤにもきっと悩んで覚悟を決める時間が必要だったのではないかと思いまして。
まして、ハジはすきな男な訳だし。(でも好きな男だからこそ、全てを託せるのだと思います)
ハジはハジで色々悶々としてそうなんですけど、上手く書ききれなかった!
それにしても、ドレスで砂浜・・・きついですね。ハジの革靴に至っては海水でぐちゃぐちゃでしょう(笑)無茶してしまった。
まだ最終回とか、最後の方を見る前に漠然と書き始めて随分時間が経ってしまったので、
最初と最後ではなんかイメージが変わってしまったかもしれないなあ〜と心配しております。

最終回でめでたく二人の気持ちが通じ合い、その勢いで書き上げましたが恐ろしい事に読み返してません。
途中で、なんか他の言い回しが出来ないものかと、自分の文才の無さに悩んだりしましたが、
それがどこだったのか思い出せず(馬鹿)そのままで、ちょっと不安も残しつつ、
しかし明日から旅立つ身としては、何とか更新して行きたいと思いまして。

強引に更新(笑)