いつか、夢で咲く



雪が降っていた。
音も無く降り積もり、世界を真っ白に染めてゆく。
サヤも、ハジも、こんなに寒い土地は初めてだった。
吐く息も凍るような冷気が肌を突き刺し、手足の末端を痺れさせる。
ともすれば身体中の感覚を失ってしまう程、この地の自然は生き物に容赦が無くて・・・
北へ北へと進むうち、緑の森は姿を変えた。
全ての生き物は息を潜めて、厳しい冬をやり過ごそうと耐えている。
 
サヤは覚束無い足取りを止めると、空を仰いだ。
暗い空からは相変わらず、白い雪が舞い降りてくる。
頬に、睫毛に、舞い降りた雪は、熱に触れて儚く消える。
その度に自分が生きている事を実感出来た。
雪は嫌いではない。
このまま全てを、白く消してしまえば良い。
このまま、二人で消えてしまえたら良い。
 
「サヤ・・・」
サヤを庇う様にして先を歩いていたハジが、サヤがついて来ていない事に気付いて振り返った。
優しい夜の闇を映した漆黒の髪、穏やかな瞳、その白い景色に一点の墨を落としたような存在感。
白い肌は陶器のようで、彼の固い意思を示すようにきつく結ばれた口唇には微かに朱色が差している。
ハジは息を呑むほど美しくて、サヤはそんな彼の姿を見ていると瞬きさえ忘れてしまいそうな自分に気付く。
この音の無い世界で、サヤには彼こそが唯一命ある者のように思えた。
生真面目な真っ直ぐさで自分を見詰める青年に、サヤは目を細めた。
・・・そうだ、私には彼が居る。
それがとても傲慢な発想である事も、今のサヤはよく解っている。
彼が献身的に自分に仕え、守り、また導いてくれる事、それを当たり前だと疑いもしなかったのはもう随分昔の話だ。
ハジが、居る。
ハジが、居てくれる。
けれど裏を返せば、サヤにはもうハジしか居ない。
そんなサヤに青年は一瞬訝しげに眉根を寄せたけれど、敢えて問いただす事も無く、片手を差し出した。
「サヤ・・・。雪が酷くなる前に・・・どこか休める場所まで急ぎましょう」
「・・・私なら大丈夫よ。ハジ・・・」
「このままずっと雪の中に居たら、体が冷え切ってしまいます」
「ハジがね・・・」
「サヤ・・・?」
小夜は差し出された手をそっと握ると、彼の隣に並んで歩き出した。
「ほら、こんなに冷たい・・・」
青年の指先は雪に触れたように冷え切っていた。
一瞬、この旅の目的は何なのか・・・、そんな事すら見失ってしまいそうになる。
このままずっと、この真っ白な世界を歩いていられたら良いのに・・・、そんな事を思ってしまう。
 
 
運良く見つけた廃屋の隅を、彼らは今夜の宿に決めた。雪と風さえ凌げればいい。
固い床の上に敷物を重ねただけの簡素な寝床から、サヤはずっとハジの横顔を見詰めていた。
オレンジ色に揺らめく炎の向こうで、ハジは壁に寄りかかったまま片膝を抱えていた。
まんじりともせず、じっと一点を見つめている。
彼は眠らないのだ。少なくとも彼が熟睡するような姿を、サヤは見た事が無い。
遠い昔、彼が未だあどけない少年の頃、眠る事は彼にとって当たり前の生活の一部だったと言うのに。
ある日を境に彼はそんな日常から永遠に切り離されてしまった。
彼がそうなってしまった責任はサヤにあり、それがいつもサヤの心の中に燻っている。
しかし、またその心の片隅で、彼が今こうして隣に居てくれる事に深い安堵を感じてもいる。
もし彼が居なければ、今自分はどうしていたか等、サヤには見当も付かない。
 
外はいつの間にか酷い吹雪で、ビョウビョウと吹く風の音が近く遠く絶え間なく聞こえてくる。
それはどこか亡くなった人々の声に似て、サヤを責める様に吹き続ける。
硬い床のせいだけではなく、小夜は眠らなければと思えば思うほど眠れなかった。
この旅の目的を思うと、彼女自身が自分の存在を否定してしまうことになる。
物心付いた時から、ジョエルの館で何不自由なく幸せに暮らしていた。
定期的に輸血を必要とし、傷口もすぐに癒える。
確かに自分は人とは少し違っていたけれど、それでもサヤは自分の事を彼らと同じだと思っていた。
望んでいたのは、こんな事ではなかった筈だ。
自分は・・・、こんな・・・。
「サヤ・・・」
身じろいだサヤの気配を察したのか、ハジが視線を上げた。
「眠れないのですか?」
夜更かしの子供を宥める様な、そしてまた咎める様な口調。
「ハジが眠ったら・・・、私も眠る・・・」
そんなサヤに、ハジは僅かに腰を浮かせた。
今更どうしてそんな駄々を捏ねるのだと言いたげな、困惑の表情をして・・・
「私が眠らない事は知っているでしょう?」
「・・・でも、少しくらい体を横に位したら良いでしょう。休まらないわ・・・」
「・・・・・・私なら大丈夫ですよ」
初めて会った少年の頃の頑固な一面を曝して否定する。
薄らと笑ったような横顔はどこか皮肉で昔の面影を覗かせていた。
あの小さな少年の横顔を懐かしく思い浮かべながら、小夜はつられる様に笑った。
あの少年は一体どこへ行ってしまったのだろう・・・。
いつの間にか彼の背はサヤを追い抜き、今はもう見上げなければならない程で・・・、肩も腕もかっちりと逞しい。
変わらないのは、彼の美しい黒髪と瞳、サヤ・・・と主を呼ぶ穏やかな声音。
「私を一人にしないで・・・ハジ・・・」
「どうかしたのですか?サヤ・・・」
「眠るのは嫌・・・。怖い・・・」
そこまで聞いて、ハジは漸く立ち上がるとサヤの元へ跪いた。
固い床にサヤは腕を付いて体を起こした。
「私はどこへも行ったりしませんよ・・・」
「本当に?」
「信じられませんか?」
彼を信じられない訳ではない。試す気持ちも無い。
彼が自分に対して嘘をついたり、約束を破ったりする事などサヤには考えられない。
そうではないと、サヤは何度も首を振り、ハジの腕に縋った。
「でも・・・目が覚めたら、一人きりかも知れない」
「私が居ます・・・」
壊れ物に触れるように、ハジがそっとサヤの肩を抱いた。
「それでは駄目ですか?誰が居なくても、私は決してあなたの傍を離れません」
何度も言い聞かされた台詞だった。そして、その誓いは違えられる事無く、ハジは常にサヤの傍らに存在し続けた。
サヤは鼻の頭がつんと熱くなったのを感じ、ハジの顔を見ていられず、俯いた。
「駄目じゃないよ・・・。ありがとう、ハジ・・・ごめんね・・・」
「謝らないで下さい。私が今ここにこうしているのは、紛れも無く私自身が望んだことなのです」
言い含めるようにゆっくりと言葉を選びながら、ハジが包帯を巻かないままの左手を、サヤの頬に添えた。
あんなに冷たかった指先が、今は燃えるように熱い。
「・・・夢を見るの。ハジ・・・」
「夢・・・?ですか」
「うん・・・、私が・・・、こんなじゃなくて・・・」
もしも、サヤがサヤでなかったら・・・。
こんなじゃなくて・・・。
ごくごく有り触れた家庭に生まれ育った、ごく普通の少女だったら・・・。
両親に、姉妹に、家族に囲まれて、友達が居て、些細な日常に笑って、怒って、
毎日を暮らす。平凡な日々。
そしていつか恋を知る・・・
「普通の女の子だったら・・・」
「サヤはサヤですよ・・・」
サヤの迷いを打ち消すように、ハジはサヤの肩を更に強く抱き寄せた。
「サヤはサヤです。普通の女の子と何も変わりません」
いつも傍に居る、すぐ傍に体温を感じる、触れた事も何度もある。
それなのに・・・、ほんの間近にあるハジの横顔に、サヤは魅入られていた。
その胸のざわめきの正体を知らず、サヤは瞬きも出来ないまま彼の腕に身を任せた。
ふわりとハジの黒髪が小夜の頬にかかった。
「目を閉じて・・・」
咎める様にハジは小さくサヤに囁くと、そっと唇を彼女のそれに重ねた。
一瞬で離れていく温もりに、言われるまま目を閉じたサヤはただ呆然として、
彼の触れた唇にそっと自らの指先を触れて確かめる。
「何・・・?」
唇を触れた事は初めてではなかった。
過去にもサヤは自らの血液を、横たわる青年に口移しで与えた。
ハジを失うことを恐れて、ハジの時間を永遠に止めてしまった。
けれど、今のそれは何もかもが違っていた。
「・・・・・・すみません、忘れて下さい」
ハジは気まずそうに誤ると、サヤの肩を不意に開放した。
「ハジ・・・?」
「もう眠って・・・サヤ。明日の朝、雪が止んだら出発しましょう・・・。先を急がなければ」
「ハジ・・・」
身体を離していくハジを引き止めたのは、無意識だった。
「・・・どこへも行かないと言うなら、このまま傍に居て・・・」
縋るようにして彼の腕を掴んだサヤの指を、ハジは一本一本外して言い聞かせた。
「無理を言わないで・・・サヤ。・・・私はもう昔の少年ではないのだから・・・」
そういえば昔、何度も隣で眠った事を小夜は思い出した。
あの頃も随分無理を言って彼を困らせていた。
我儘を言い、彼を困らせて、年下である少年に甘え、いつも寄り添っていた。
そんな事は解っていると言わんばかりに、サヤはハジの首筋に縋る。
「今も昔も、ハジはハジよ・・・。隣に居てくれるだけで・・・、安心する」
「・・・・・・サヤ」
「ごめんね・・・」
サヤはもう一度、小さくハジに謝ると、彼の胸元で瞳を閉じた。
少女の我侭を諦めたように、ハジの指が心地よく小夜の髪を梳いてくれる。
ハジの胸は広くて、温かくて、冷え切った体に彼の体温がじんわりと染みてくる。
頬に触れた雪のように、彼女の心も解けるだろうか・・・。
やがて、とろとろと落ちていく眠りの中で、サヤはぼんやりと気が付いていた。
自分こそが彼を一人にしてしまうのだと・・・。
長い時の間、ハジはいつ目覚めるかも知れない自分を待っていてくれる。
優しい、優しい、ハジ。
もし自分が、ごく有り触れた女の子だったら・・・。
優しい両親に、姉妹に、家族に囲まれて、些細な日常に笑って、怒って・・・。
そしていつか恋を知る。
その時も、傍にハジが居てくれたら良い。
そうしたらきっと、今のこの不思議な感情を彼に伝える事が出来る。
 
あり得るはずの無い、幸せな夢。
 
「サヤ・・・今は雪に閉ざされていますが、春になればこの辺りは一面の花に覆われるのだそうですよ・・・」
抱き寄せた少女の不安を解くように、ハジは優しく囁く。
「・・・本当?・・・ハジ。・・・・・・素敵・・・ね・・・」
サヤの瞼の裏で、淡い色の花々が優しく風に揺れた。あれはいつの事だったろう・・・。
咲き乱れる花の庭で、緑に溢れた森の中で・・・
今となっては涙が零れそうな程、穏やかな時間。
ハジ・・・?
「いつかまた、一緒に・・・」
花を摘みに来られたら・・・そう言い掛けて、ハジは彼女の気配に気付く。
胸元の甘い吐息が、規則正しい寝息に摩り替わった。
「サヤ・・・眠ったのですか?」
ハジは彼女が凍えないようにそっと小夜の体を抱き寄せた。
 
せめてこの白く冷たい雪の世界に、闇を裂く暖かい陽の光が射すまで・・・。
せめて束の間のまどろみに、愛しい彼女の見る夢が暖かく幸せであることを祈って・・・。
 
訪れる事の無い眠りのふちで、彼女の命を感じながら・・・
ハジは自らもまたうっすらと瞼を閉じた。

 


20060329  
リハビリ中。自分なりにですが、小説を書くのは5年ぶり・・・。それでも相変わらず腐った甘々ですな・・・。
これは誰だ?って程、ハジもサヤも別人。でも私が書くとこうなります。はははん・・・。
しかし考えてみたら、ホモ以外のカップリングで書くのは生まれて初めてなのでした!
凄いじゃん!私・・・。ホモじゃないよ〜〜〜。
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