そっと重ねられた唇が、やがてゆっくりと離れる。
とろんと潤んだ瞳をして、小夜がほぅっと甘い吐息を吐いた。
あの雨の夜とも、昨夜とも、それはまるで違うキスだった。
『驚かさなければ…』という言葉の通り、ハジは小夜を驚かせない様にそっと覗き込んだ。
あの青い瞳が、了解を求める様に小夜に訴え掛けてくる。
驚かなかったかと言えば全くの嘘で、小夜にとってやはりそれは胸がパンクしそうな程衝撃的な出来事だったけれど、抵抗する事など思い付きもしなかった。
あなたが好きと、喉まで出かかった言葉がうまく声にならないのは、緊張故なのか…。
けれど耳まで真っ赤に染まった小夜に、ハジもまた幾分恥ずかしそうな表情で瞳を細め、微笑んだだけだった。
仔うさぎの溜息 3
 
『突然ですみませんが、来週の月曜と火曜…大学を休む事は出来ますか?』
ハジが突然にそんな事を言い出したのは、どこかぎこちない空気のまま彼の準備した夕食を全て食べ終えた時だった。食べている間中も、ろくに味が解からないほど舞い上がっていた小夜は、唐突な彼の質問の意味を理解するのに数秒を要した。
後片付けの為に並んでシンクの前に立つと、彼の方が頭一つ分は優に大きい。
見上げる小夜にハジは僅かに視線を投げたけれど、すぐにまた手元の食器に集中した。
「…あ、多分。……何とかなると思います、けど?」
何が言いたいのか解からずに、答えながらも小夜のその口調は語尾が上がり疑問調だ。
「…急な話で申し訳ありませんが、明日大学の終わる時間に迎えに行きます。二日ほど休みが取れたので、明日の最終便を押さえました」
ハジの話が見えないまま小夜は手元の皿を置いた。
「…最終便って?」
ハジもまた小夜につられる様に食器を濯ぐ手を止めた。
「20:50の沖縄行きです…」
「…ちょっと待って」
「一度、実家の様子を確認してきた方が良いでしょう?」
「それはそうなんですけど、……そんな簡単に、飛行機押さえました…なんて…」
言われても…。
ここから沖縄までの飛行機代が一体どれだけかかると思っているのだろう?
まだバイトさえ決まらずにいる小夜には、とても払えるものではない。
第一、実家へ帰るのだとしたら自分一人で充分な筈だ。
「…勝手にすみません。しかし話せば貴女は遠慮するでしょう?」
「当たり前です!これ以上…私を、甘やかさないで…」
「貴女を甘やかしているつもりはありませんよ…」
「だって、私…そんなお金も持ってないし。この間からの洋服代だって…、それにこの部屋の家賃とか、光熱費とか…」
「…困りましたね」
彼の態度は、さほど困った様子には見えないけれど…。
小夜は強調する様に繰り返した。
「…困ります!」
ハジは手に付いた洗剤の泡を丁寧に洗い流すと、手拭きで水滴を取った。
「使った分を貴女に払って欲しいとは、全く思ってはいませんよ。……私が勝手にしている事なのですから…。それにこの部屋は賃貸ではありませんから家賃も発生しません」
「……………」
勿論、ハジに一度として代金を要求された事などない。
どうしても気になるのならば、支払うのはもっとずっと後でも良いと言ってくれてもいる。
けれど…。
小夜には、ハジの事が好きだからこそ曖昧にはしたくないという気持ちがある。
彼は自分より年上だけれど、少しでも対等でいたいと思うのだ。
「もっと早く休みが取れれば良かったのですが…。…ただ、お父さんから未だに連絡がないのですから、やはり一度はご実家の様子を確認してきた方が良いでしょう?」
「…私、一人でも行けます」
あんなに忙しいのに、大切な休みを自分の為に使って欲しくはないと小夜は思う。
「貴女を一人で帰すのは、気が進みません。ただの帰省と言うのなら構いませんが…」
ハジが言いたい事は小夜にもぼんやりと解かった。
連絡もせずにいなくなってしまった父の行方。
状況も考えれば、もしかしたら事件に巻き込まれているかも知れない…と言うのだろう。
なるべく考えない様にしていた最悪の事態が小夜の頭をよぎる。
「それでも、大丈夫…です…」
強がる声がほんの少し震えていた。
小夜の心の奥底に、押し隠していた不安が噴き出してくる。
もしかしたら表情にも出てしまっているだろうか…。
「だって、私の為に…」
「私が付いて行きたいのです。…運転手と荷物持ち位にはなりますよ…」
ハジはそう言って、そっと小夜の髪に指を伸ばした。
優しく前髪を整えられて彼に向き直ると、一瞬またキスされるのかと思ったけれど、優しい指はすっと大人しく小夜の髪から離れて行った。
「…明日、授業が終わる時間に大学まで迎えに行きます」
良いですね…と念を押す様に…。
じっと見上げる小夜を横目にハジは洗い物を再開する。
「…ありがとう。…でも」
「でも?」
「どうして…そこまでしてくれるんですか?お仕事休んでまで…沖縄なんて…」
ハジは再び洗い物の手を止め、仕方がないといった様子で小夜に向き直った。
「ただのお節介ですか?……貴女にとっては…迷惑でしょうか?」
「いえ、そうじゃなくて…」
小夜の中にある様々な感情を一言で言い表すのは難しい。
いや、言葉にしてしまえばたった一事なのだけれど…。
好きだから…。
好きだから…迷惑をかけたくはないし、負担にはなりたくない。
好きだからこそ、世話の焼ける子供ではなく…、対等な女性でありたいと…小夜はそう思う。
過去には、小夜にだって仄かに憧れの男の子がいた事もある。
ただ告白するとか、されるとか…そんな事には到底至らなかったというだけの話で…。
しかしハジに対して抱いている想いは、いつしかそんな仄かなものではなくなってしまっている。必要以上に優しくされたら、その分だけ期待してしまう。
ハジがいつも隣に居て、困った時には手を差し伸べてくれる…それが当たり前になってしまうのが怖い。

それに…。

キスしたからと言って…。
小夜にはそれがどうしても現実の事と思えなかった。

「迷惑とか…そんな事じゃなくて。…私…」
とうとう俯いてしまう小夜にハジは、小さく零した。
「…やはり、きちんと手順を踏まなければ、貴女には察して頂けないのでしょうか…」
何を言っているのだろう…。
手順?
察する?
何を…?

「………………」
「…解りませんか?」
「………………」
ハジは些か大袈裟に肩で息を吐いた。
そしてほんの少し困った様に、小夜を見詰めたまま腕を組む。
「誰に対しても、ここまでする訳ではありませんよ…。貴女にだけです。…小夜さん…」
「………………」
「貴女を手放したくないと言ったでしょう?…私は…」
「………わ…たし…は?」
ほんの少し間を置いて、ハジは続けた。
「……………。何事もなければ良い。しかし、もし貴女を一人で沖縄に帰して、何かあったら…。それに…人手に渡ったお父さんの店を前にして、貴女が冷静でいられるとは限らないでしょう?また…目を赤くして一人で泣くのかも知れない…。そう考えたら…仕事が手に付きません」
「…それって」
どういう事?
仕事が…手に付かない…?

ハジはゆっくりと背を屈めると、目線を小夜に合わせた。伸ばした指先で目元に触れる。
「ここまで言わなければ、解かりませんか?」
「………………」
「私は…貴女の事が好きだと言っているんです。…何も思っていない相手に口付ける程、いい加減な男ではありません…」
澄んだ青い瞳に真っ直ぐに見詰められて、足が震える。
「あ…その…わ、私…」
思わず後ずさりシンクの縁にぶつかると、咄嗟に差し出された腕が小夜の体を支える。

解かっている。

…解かっていた。
彼がいい加減な事をする様な男の人ではないという事を…。
貴女を手放したくないと言われた時に…。
貴女の事をもっと知りたいと、言ってくれた時に…。
そして繰り返し抱き締められた腕の中で、そっと優しい口付を受けた時に…。
それが、どういう意味であるのかという事は…。
「…大丈夫ですか?」
ただ自分に自信がなくて…。
はっきりとした言葉が欲しかった。
「…………ハジ、さん」
「…初めて、貴女を見付けた時から…好きでした。出会ったばかりで、しかもまだ大学生になったばかりの貴女に…ただどう伝えたら良いのかが、解かりませんでした……」
「………………」
「…十も年上の男は嫌ですか?」
嫌な訳がない。
ずっと私も好きだったのと…。
あの夜、慣れない場所で窮地に立たされていた自分を助けてくれた人。
大きな背中を見詰めて、夜のネオン街をただ黙々と歩いた時の記憶が鮮やかに蘇る。
私も、あの時から…好きだったの、と…。
しかし、うまくそれを言葉に出来ないまま、小夜の瞳が潤み始める。
見られたくなくて俯くと、心配げに男が小夜を覗き込む。
見ないでと顔を背けた小夜を深追いする事はせず、ハジは穏やかな声で告げた。
「…年の差が縮まる事はありませんが、そのうち気にならなくなる時が来ますよ。……急いで答えを出さなくても良いのです…。いくらでも、私は待ちます。それに今はもっと大切な事があるでしょう?」
「……ハジ…さん…」
「沖縄へ、…貴女の生れたところへ連れて行ってくれますか?……何かとお役に立つ自信はあるのですが…」
答える代り、小夜は堪え切れず…その胸に縋りついていた。

                            《続》

20090624
さて。仔うさぎの後編なのですが…。
実は前回、中編でここまで書く予定でした…。が、ハジが小夜たんにキスしたのは予定外だったので
悩んだ挙句…一旦あそこまででアプしたのですが…。しかしやはりこの後の事を考えると、やっぱりキリが悪いので
いつもよりかなり短めですが、これだけアプしちゃえ…。
いつもいつも、計画性なくてすみません!!
このあと、舞台は沖縄へ行くらしいですよ。
あ〜、この仔うさぎのハジってちょっと積極的ですか?アニメに比べると、やっぱそうかも知れないけれど…。
ハジって元々別に奥手ではないと思うし、本編であれほど自分を押し殺していたのは、色々なものに縛られていたせいだと思っているので。
そんなこんなで、もう告っちゃったよ〜〜〜〜〜。とほほ。
しかし…まあ、好きだという事をやっぱり明らかに宣言しておかないと、沖縄に同行させるのはちょっと…。
何の関係もない男にそこまでされたらキモイ…笑。
さて。これからどうしよう…苦笑。