震える指が躊躇いがちに白いシャツを肌蹴た。
小夜の意図を悟り、ハジは大人しく為されるがまま滑らかな項を小夜の眼前に晒した。
辺りはまだ先程までの戦いの余韻が満ちている。
客席の壁際に追い詰められ、もう少しであのディーヴァのシュバエリエの爪がサヤを貫く…息を呑んだ瞬間、ジェイムスの攻撃を制したのは同じく敵であるシュバリエ、ネイサンだった。
ネイサンはその物腰とは裏腹にジェイムスをも黙らせる驚異を秘めているのか…、小夜に相応しい死に場所を用意するのだと言い残し、ジェイムスと共に姿を消した。彼の真意が何であれ、辛うじて命を取り留めた…そんな緊張感は今も静まり返った空気を凍り付かせていた。
小夜の呼吸もまだ荒いままだ。
体勢を整える事すらせず、小夜が跪いたハジの首筋に縋った。
ハジはただ黙って全てを小夜に任せながら、じっと目を伏せた。
痛々しい小夜の姿に、書ける言葉すら失っていた。
例え自らのシュバエリエからであろうと…自ら血を摂取する事をよしとしない小夜が、躊躇いがちにゆっくりと唇を開き、その隙間から覗く白い犬歯がそっと皮膚に押し当てられた。
背中に突き刺さる様な視線…この背中の向こうでじっとカイが自分達を見詰めている。
それをハジは痛いほどに感じる事が出来る。
何も今ここで、この様な場所で、カイの前で己のシュバリエの血を飲む必要などなかった。
立てない程体力を失っていると言うのなら、自分に任せてくれれば良い。彼女を抱き上げて安全な場所まで移動する事は容易い。少なくとも、いつもの小夜なら大人しくハジのリードに任せ引く場面だ。
しかし、今日の小夜は違った。
小夜にとってこれは儀式なのだ。
彼らと決別する為の儀式。
ハジにはそれが解かるから、それを小夜が望むと言うのなら、どうしてそれをハジに拒む事が出来よう…。
しかし、ハジは背中の気配でカイが視線をそらすのを察すると、目にも止まらぬ速さで小夜の体をその腕に抱き上げた。
これは、主の命に背く事になるのだろうか…。
しかし、もう充分過ぎる。
考えるより早く…音も立てず野生の獣の様なしなやかな動きで、ハジは床を蹴った。
人間には有り得ない高い跳躍。
次の瞬間、きっとカイには二人が幻のように姿を消したと感じられただろう…。抱き上げられ、咄嗟に首筋にしがみ付く小夜の唇が小さく「ハジ…」と乾いた声で呟くのを、彼はその幽かな吐息で感じた。その頼りない響きはハジを非難しているようでもあり、どこか安堵した様子でもあった。
これが主の命に背く事なのだとしても、ハジにはとても見ていられなかった。
例えその『儀式』が小夜にとって必要なものだったのだとしても、これが主命に背く事になろうとも…これ以上小夜が傷つく姿など、ハジはもう見たくはない。
小夜自身、未だに血を摂取する事に抵抗すら感じていると言うのに…。
ハジの煩悶を打ち消す様に、ぷつりと微かに皮膚を破った傷痕は僅か数瞬で消えた。
破れた皮膚は再生し、程なくその痕すらが解からなくなる。
けれど、その刺す様な痛みは長い間、ハジの心から消える事はなかった。
 
 
 
『震える指先…』   三木邦彦
 
 
 
窓の外には、何気ない街の景色があった。立ち並ぶビルの林、見降ろせばその間を忙しなく行きかう人々と車の群れ。
この時代に生まれた者にとっては、何の違和感も感じないであろうその日常の景色を、ハジはじっと視界に収めた。
彼の生れた十九世紀の風景とは余りにもかけ離れた世界。
イギリスに始まった産業革命は瞬く間に世界を飲み込み、それ以来人類の進歩は加速度的にスピードを増した。しかし彼らは一体どこまで行こうとしているのか…。
世界の移り変わりを目の当たりにしてきたシュバリエである彼には、それが解からない。
生きている限り…欲求を満たしたいと願うのは生物として自然な姿なのだろうが、人間の欲と言うものは限りがない。人はとかく度を超えて何かを得ようとする。
しかしこの広い世の中で、本当に自分の欲しいと思えるものを自覚出来ている存在は果たしてどれほどいるのだろう…。
かつては人間として…ロマの貧しき人々の中に生を受け…自身もまた僅かばかりの金貨と引き換えに肉親によってその身を売られた青年には、永遠とも呼べる永き命をえた今、人の欲望、業の深さが尚更愚かしくも思えるのだ。
彼は既に人ではない。
小夜のシュバリエである彼にとって、それはまた主の望み以外は関心事ではないからだ…とも言えるが、彼はシュバリエである以前に、主である小夜を深く愛していた。
それはまだ幼い少年の頃からの深い愛情だった。
ハジの傍らで、小夜は今夜もまた窓の外の景色を眺めていた。
翼手でありながら人として育てられた小夜は、その人々の生活の中に自分には決して与えられる事の無かった何かを求めているのだろうか…。
まるで外を知らない飼い猫が外の世界に憧れる様に、小夜はこのアパートに引っ越して以来、この窓際に腰を掛けて、その人々の日常を見詰めている。
小夜の体力は、そろそろ限界を迎えようとしていた。
常に小夜を襲う眠気と目眩、そして倦怠感、海を越えてこの地にやって来た頃から、小夜の症状は一際目立ち始めていた。本来ならばすぐに回復する様な傷さえ長い間小夜を苛んでいる。
それの意味するところは一つしかない。
小夜の休眠期が近づいているのだ。
しかしもっと早くから…主の休眠が近い事をハジはシュバリエの本能で感じ取っていた。主とシュバリエとを繋ぐ絆は言葉では説明のつかない不思議な感覚で構成されていて、小夜の体調や気分、感情もまた、まるで見えない透明な糸で繋がれている様にハジに影響するのだ。
そしてそれは彼女の休眠中ですら例外ではない。
どことなく生気の感じられない様子でぼんやりと窓の外を見ながら、小夜は右腕の内側に繋がれた点滴の管に指で触れた。無意識の仕草だったのだろう…。
針の刺さった薄い皮膚の上に貼られた白いテープを撫でると、ふと我に返る様に指を引っ込めた。
今の小夜には血液の摂取は欠かせない。
その頼りない細いチューブで小夜はかろうじて体調を維持しているのだ。小夜の細い腕が、直に空になる輸血用血液のパックがぶら下がった点滴スタンドを傍らに引き寄せた。
頼りないその動作に、ハジもまた一歩前へ進むとその小さな指先に掌を重ねる。
「…小夜」
「……ありがとう。…ハジ」
「……」
そのいつもよりずっと小さくゆったりとした言葉の響きに、ハジは返す言葉も無くただ小さく頷くと視線を伏せた。
昔、いつだったか…彼がまだ少年だった頃、夜中の雷が怖いから…と言う理由で小夜に押し切られ、ジョエルや他の使用人達の目を盗んで一晩を共に過ごした事があった。
大きな天蓋付きのベッド。
柔らかな羽根布団の感触。
鼻孔をくすぐる甘い小夜の芳香。普段は大人ぶってハジを子ども扱いする癖に、雷が怖くて、一人が寂しくて、それなのに怖い話には人一倍興味を示し、夜一人で眠れなくなる。
子供ながらに、そんな彼女の矛盾を愛しく思ったのは、いつの事だったろう。
あの仄かな恋心は滅する事無く、今もこうして胸の内で息衝いている。

小夜を守れるだけの大人の男に早くなりたかった。
早く、彼女の背を追い越したかった。
計らずとも、自分はこうして彼女のシュバリエとして今もその傍らに在る事を許されている。
自分は、あの頃思ったような存在になれたのだろうか…。
幾度もくず折れそうになりながらも、こうして今ここに在る事を、ハジはこの世の全てに感謝する。
そして、強く心に誓うのだ。
今度こそ、小夜の望みを果たす時が来たのだと…。
ディーヴァを倒し、全てを終わらせる。
そして…。
そしてたった一人の主と交わした遠い日の約束を、果たして自分は全うする事が出来るのだろうか…。
その時が訪れた時、果たして自分は…迷う事無くその刃を小夜に向ける事が出来るのだろうか…。ハジの内心の迷いをよそに、小夜は頼りない仕草で自ら点滴の針を抜いた。
ぷつんと浮いた赤い血の粒が目に染みる。
ハジは手早くスタンドを脇へ片付けると小夜の前に跪き、まるで今から愛を告白する騎士の様に真摯な瞳で小夜を見上げた。
小夜は今にも閉じてしまいそうな瞼を辛うじて持ちこたえながら、窓の外の景色と目の前に跪くハジとを交互に見やって、何か言いたげにうっすらと唇を開いた。
けれど、とうとう言葉が発せられる事はない。
思い余る様に、ハジが口を開く。
「…小夜。眠いのでしたら…ベッドへ行ってきちんと休んだ方が…」
「……もう少し、ここに居たいの…。ベッドに横になるのは嫌…」
横になれば、すぐにでも深い眠りが小夜を攫い、もしかしたらもうこのまま長い休眠に落ちてしまうのではないかと言う不安は、小夜と同じくハジの胸にも芽生えていた。
ここにきて…。
ここまでディーヴァを追いつめておきながら、小夜の体力が今を持ちこたえなければ、全ての犠牲と苦労が無になってしまう。ディーヴァをこの世界に解き放った自らの責を一人で負い、この長い旅の中で何度も繰り返されてきた台詞。
『これは私達の戦いなの…』
他者を拒み続けた小夜も、本当は気付いているのだ。
時にどれほど酷い扱いを受けてきたのだとしても、どれだけ多くの人々の協力と献身によって、自分達が今ここにあるのかと言う事を…。
小夜は決して一人ではない。
共に闘った仲間達が居る。
そして、それを気付かせてくれたのは、沖縄で巡り合った兄弟のお陰なのだろう。
ハジの心深くに、あの時の痛みが微かに蘇る。
自分では、どんなに心を砕いても小夜に与えられないものを…彼は易々と小夜に与え、その垣根を越えてくる。
小夜は戸惑い、しかしやがて心を開き理解するだろう。

胸の奥の痛みを、しかしハジは最早心地良くすら思う。
彼が居てくれて良かったのだ…。
ディーヴァを倒す為に、小夜を支える手は多ければ多いほど良い。
自分の心がどれだけ痛もうとも、自分は自分に出来る事をするだけだ。出会った時から、自分はもうその身を全て小夜に捧げている。
この心も、体も、そして命さえも…。
「小夜、せめて…膝掛けを持って来ましょう…」
剥きだしの白く長い手足が、どこか痛々しくてハジはそう続けた。
ぼんやりとした視線がハジを捉え、二、三度横に首を振る。
「良いの。寒くはないの…大丈夫だから…。ハジ…」
抑揚を抑えた静かな声で名前を呼ばれ、ハジは短く答えた。
「…はい」
「ハジ…少しの間で良いから…。隣に座って…」
大きな瞼を伏せて、小夜が請う。
「小夜…」
ハジは一瞬の戸惑いを隠して、それに従った。
長い体を折り、腰を出窓の桟に預ける。
小夜は僅かに微笑んで、ぎこちなくその肩に寄りかかった。
軽い、驚くほど軽い華奢な体…。何度も抱き上げたその体のか弱さは身を持って知っている筈なのに、今の小夜はとらえどころのない儚さが相まって折れてしまいそうに感じられた。思わず抱き締めてしまいそうになる感情を押し殺し、そっとその柔らかな髪に頬を寄せた。
小夜はじっと目を閉じている。
このまま眠ってしまうのではないかと思うほど、静かな呼吸を繰り返して顔を上げないまま、不意に小夜が告げた。
「…ハジ。…今まで一緒に居てくれて、ありがとう…。…私、ハジが居なかったら、ここまで頑張れなかったよ…」
まるで死を目前にしている様な言葉。
今までにも、何度かそうして小夜がハジに礼を告げる事はあったものの、今夜の小夜はどこか違うような胸騒ぎすら覚えて、ハジは言葉に詰まる。「小夜…」
「…あのね。さっき思い出してたの。昔、ジョエルの館で暮らしていた頃…雷が怖くて一緒に朝までベッドで眠ってくれて事…あったでしょう?」「…小夜」
どうして、今…そんな古い話を持ち出すのですか?…と喉を貼りついたままの言葉を、ハジはそのまま飲み込んだ。
もうすぐ、ディーヴァを倒せるかもしれない。
この緊迫した状況で、何故かふと脳裏を過るのは自分もまた幼い日の思い出ばかりなのだと、唇を噛む。
何も知らず、幸せだったあの頃…。
「…あの頃から、ハジが居てくれるだけで、私すごく安心できたのよ…。…ハジだけ…」
既に死を覚悟した小夜を前に、何と答えたら良いのだろう?
ハジは、その心の動揺を声に出す事無く、ほんの少しだけ明るい声音で小夜に問うた。
「もう、雷は平気ですか?」
「……今でも怖いけど。…でも、今もハジは隣に居てくれるでしょう?…だから、大丈夫…」
「小夜…」
胸にこみ上げる感情そのままに覗き込もうとした顔を小夜が背けて隠す。「顔は見ないで…。もう少しだけこうして肩を貸して…。ハジ…。私のハジ…」
「…そうです。私の全ては、貴女のものです。この心も、体も、……命すら…」
全てとうの昔に貴女に捧げたものですよ…と、彼女の耳元に囁く。

もう、充分だ。
小夜が苦しむのも…
悲しむのも…
そして、自分の想いも充分に報われている。
後はただ、自分の為すべき事をするだけなのだ。
小夜のたった一人のシュバリエとして、その与えられた使命を果たすだけだ…。
「小夜…。あの点滴だけでは…満たされないでしょう?」
「…ハジ?」
不思議そうな表情で小夜が体を起こし、ハジを見詰める。
「直接…血を摂取する事は嫌なのかも知れませんが…。…どうか、今…私の血を飲んで下さい」
過去には何度も、嫌がる小夜に無理やり自分の血を含ませてきた。
泣きながら嫌がる小夜に、自らの鮮血を付きつけ彼女の内に眠る本能を揺り起こす。
喝えた体に一度目覚めてしまえば抑え込む事の出来ない吸血の欲求、抗えないまま小夜はハジの首筋に牙を突き立てる。
シュバリエであるハジにとっては、その行為は劣情を満たすのに似た深い恍惚を齎す。
だからこそハジの心も深く傷付き、それは二人にとってこの上なく辛い一時でもあった。
「…ハジ。私は良いの…血は…足りてる」
それが小夜の心からの言葉だとしても、こうして触れているからこそ彼女の体はまだ血を求めている事が手に取る様に解かる。
シュバリエの血を口から摂取する事で、少しは休眠期を遠ざける事が出来るだろうか…。少なくとも、彼女の体に血液パック以上のエネルギーを与えられる事は明らかだ。
祈るような気持ちで、ハジは重ねて訴えた。
「小夜…。ディーヴァを倒す為です。…このままでは、貴女は…」
どれだけ強い意志の力を持ってしても、彼女を打つ前に、挫けてしまう。「…ディーヴァを…倒す…」
オウム返しの様に、小夜の唇が小さく呟いた。
「そうです。…小夜、ディーヴァを倒すまで私は貴女を眠らせる訳にはいきません」
細い手首を掴み、ぐっと強い力で小夜を胸元に引き寄せる。
あの時、小夜が自らの指で寛げた襟元を、ハジは再び小夜の前に晒す。
「小夜…」
名前を呼んでそれを促すが、小夜は嫌々と体を捩って逃れようとする。何度かその繰り返しで、小夜の瞳が涙に濡れる頃…ハジは突き上げるような情動に逆らい切れず、その細い体を腕の中にすっぽりと抱き締めると、その濡れた瞳を間近に覗き込み、言い含めた。
「小夜…。無理に血を飲めだなど…もう二度と言いません。本当にこれが最期です…」
「……ハジ?」
「これが、最期です…」
…これを最期にしましょう…と。
その言葉の意味を感じ取ってか、小夜はすっと抵抗を緩めた。
力なく項垂れ、ハジに体の全てを預ける。

「…本当に、私…出来るかしら…。私…あの子を…」
ぽつりと零す…彼女の中に潜む不安な心を垣間見て、ハジは尚更強く小夜の体を抱き締めた。
本当の小夜は花を摘むのが好きなごく有り触れた一人の少女だ。
美しいものが好きで、可愛いものが好きで、甘いものが好きで、好奇心旺盛な一人の少女だ。
雷が怖くて、でも強がって、薄暗い部屋でシーツに包まって…無邪気に微笑んだ笑顔が忘れられない。
…小夜
胸の中で小さな嗚咽が漏れる。
「私がいます……」
優しくその背を撫でてやりながら、ハジは小さな子供に言い聞かせるように繰り返し囁く。
「最期のその瞬間まで、私がお供します…小夜」
「…ありがとう。…ハジ。…ハジ…私…ごめんね…」
小夜が腕の中で身じろいだ。
細い指を肩につかまらせて、小夜が喉を逸らす。
自分よりもずっと高い位置にある首筋に、そっと唇を寄せた。
何度も躊躇いながら、小夜は一つその白い首筋に唇を落とした。
牙を立てる事無く戯れるように甘噛みしてきつく吸うと、ハジの背筋に電流の様な衝撃が走る。
まるで情事の最中の様な仕草で指先が首筋を辿り、白い項に赤く小さな痣が残る頃、小夜はハジを労わる様に舌先で赤く色を変えた皮膚を舐めた。戸惑いがちに、ハジに謝罪する。
「……ごめんね。ハジ…少しだけ、……分けて…」
鋭い犬歯が強く押し付けられる様にして、ぷつりと皮膚を突き刺す。
その刺激はハジの脳裏に甘やかな霞を掛けた。
じわりと染み出した鮮血が、小夜に吸われる事によって次第に量を増して溢れ出す。
小夜の喉がごくりと音を立てた。
一口、もう一口とハジの血を嚥下する。
それを認めて、ハジは静かに長い息を吐いた。
もう、充分だ。
自分はもう…。
これ以上、欲しいものがあるとするのなら…それは…。
 
やがて、小夜は静かに唇を離した。
「ハジの血は…甘いの…。凄く…」
そう言って、こつんと額を押し当ててくる。
量としては然程ではない。しかし、確かにハジの血は小夜の体内に入って、彼女の一部になってゆく。小夜は傷付いた皮膚が完全に塞がるまでの間、先程と同じ様に濡れた舌先でハジを労わってくれる。
寛げた胸元に縋る様にして小さくなる小夜が愛しくて堪らない。
ハジはその小さな背中を何度も繰り返し撫でた。
まるで良く出来ましたね…と労う様に…。


「約束…忘れ…ないで…」

腕の中で独りごとの様に呟いて、やがて小夜が小さな寝息を立て始めた。安心しきったその表情を見ていると、このまま全ての重荷から解放してやりたいと心から願う。
小夜が苦しむ姿など、もう見たくはない。
小夜が悲しむ様など…もう…。
それなのに、今の自分には彼女を戦いの渦の中へと誘う事しか出来ない。
あの金色の髪をした男の言うとおり、自分の導く未来には、破滅しか待っていない様に感じられる。
それとも…もしかしてあの真っ直ぐな眼をしたカイならば…何かが変わるのだろうか…。
小夜の後ろで影の様に生きる自分とは違う、彼の眩しさ…。
もしカイこそが小夜のシュバリエであったなら、もっと物語の結末は違っていたのではないだろうか…。
ありもしない空想…。
しかしその様を考えると、胸が痛い。
狂おしい想いがハジの胸を締め付ける。
頑ななまでに他人を拒絶し、ディーヴァを解き放った重責を負う彼女は…けれど本当は一人ではない。
本当はもう気付いているのでしょう?
小夜…。
 
もし、自分のたった一つの願いが叶うのだとしたら…
それを傍らで見守るのは自分ではないかも知れない。
けれどもう自分は、それで構わない。
もう、自分には充分だ…。
充分過ぎる程のものを自分は小夜から与えられた。
小夜…。
 
眠ってしまった体を起こさぬように細心の注意を払って抱き上げる。
寝室のベッドまで運び、簡素なシーツの上に下ろすと、小さな子供する様に額に一つ口付を落とした。
小夜はその幽かな刺激に一度だけうっすらと瞼を上げ、ほんの少し口角を持ち上げて微笑んだ様に見えた。
小夜が目覚めている間は決して口に出来ない言葉を、ハジは小夜の寝顔に囁いていた。

「愛しています…。私の小夜…。暫くは、穏やかな夢を見て下さい…」
決して貴女は一人ではない事を忘れないで…。
 
寝室を後にしたハジは先程まで小夜がまどろんでいた窓辺へ寄り掛かる。窓から見える景色は相変わらずで、この街はまるで眠る事を忘れてしまった自分の様だ。
小夜はこの景色に何を思ったのだろう…。
この地で、この戦いを終わらせる。
それは小夜にとっても自分にとっても、この戦いにかかわったすべての物の悲願である。
「約束…忘れ…ないで…」
先程の小夜の呟きが耳に蘇る。
心の中で噛み締める様に何度も反芻した小夜との約束。
小夜の決意の前に、ただ頷く事しか出来なかったけれど…。
その時、自分は一体どうするのだろう…。
ハジは冷たいガラスに、その変わり果てた指先を触れると、深く瞼を閉じた。

答えは出る筈も無く、時間ばかりが刻々と過ぎてゆく。
「小夜…。愛しています…」

その小さな呟きは誰に届く事も無い。
…人知れずしんと静まり返る部屋の空気が、微かに震えていた。




20090511
はう。久しぶりに本編見て、大真面目に書きました。
(…ってそれじゃいつもはどうなのよ…)
エロ抜きです!偉い(笑)
なんかもう色々と、今更感が漂っておりますが…それなりに頑張って書きました。
録画をもう一度見直しているのですが、もう本放送を見てた当時の事を忘れてて…何と言うか…。
ニューヨークで、決選直前の頃だと思われます。
ハジはいつも何も言わないし、表情にも出さないけど、それでも彼の中には物凄い葛藤がある訳で…。録画を観てたら、その辺のところを書きたくなりました。
当時…それこそ、カイとの間でジレジレしてた訳ですが、今見れば…ハジと小夜の間には確固たる絆を感じる事が出来るんですよね。当時の私、めっちゃ余裕なかった…。その辺、ハジは当事者としてどう思ってたんだろう?とは思います。
少しはカイを意識してたのかな?
桂版コミックでは、それはもう凄くカイの事意識してるし、(あっちではもう動物園の時点で恋人同士だから?)アニメのハジだって意識してない筈はないと思うんだけど小夜の事を大切に想い過ぎて、もう小夜が誰を選ぼうかなんて考えてないんだろうと…。んで、その辺が書けたかどうかはまた別の話(悲)
読んで下さる皆様はどう思われますか?
少しでも楽しんで頂けたら、幸いなのですけれど。
また宜しかったらぜひ、感想等頂けたら嬉しいです。
なんつうか、今更感にもうビクビクもので〜笑。こんなところまで読んで下さってどうもありがとうございました!!