What is your wish? 
 
その日、朝から曇天の空を小夜は恨めしそうに見上げた。
今すぐにも雨粒が落ちて来そうな、生温かい南風が髪を揺らす。じっとりと汗ばむ様な湿気。
小夜はとうとう諦めた様に、リビングのガラスサッシをぴしゃりと閉めた。
リビングは快適にエアコンが効いている。
除湿された空気は設定温度をさほど下げなくても、肌に心地よいのだ。
壁に下げられた七月のカレンダー。
真っ青な南の海の写真には、泡立つ白い波が砂浜に寄せては返す様子が涼しげに切り取られている。
今日は七日。
全国的に、七夕だ。
けれど、ごく有り触れた水曜日だ。
その上…この分では天の川すら拝めそうにない。
別に子供でもあるまいし、彦星と織姫の伝説を信じている訳ではないけれど、こんな夜はせめて星空が綺麗に見えてくれたらと思う。アルバイト先から真っ直ぐに帰宅した小夜は、夕食の準備の為にキッチンに立ちながらも、時折そうしては窓から暮れゆく空の様子を見上げていた。
 
ハジの部屋は、南の角部屋だ。
一人暮らしにしては贅沢過ぎる広いリビングと、大きなウォークインクローゼットを備えた主寝室、その他にこぢんまりとした洋間が二つある。
本当は、この広いリビングの一角は和室の設えで4LDKだったらしいけれど、新築でこの部屋を購入する時に和室も全てリビングのフローリングに合わせて間取りを変更したのだそうだ。
東京都内の再開発地区と言う立地でこの間取りだから、相当高額な買い物だったろうと、幾ら疎い小夜にも想像がつく。流石にあの若さでそれだけの収入はない様に思えて不思議だったけれど、聞くところによるとハジの祖母と言う人はかなりの資産家で、このマンションが経っている敷地も元々は彼女の持ち物だったのだそうだ。…つまり彼は祖母が彼の為に残してくれた遺産をほぼ丸ごと、この部屋に宛がったと言う事らしい。
 
対面式のキッチンからも、窓の外の様子は良く見える。
暗い雲間に夕陽の気配すら伺えない。
あまりぼんやりと空を眺める余り、小夜はアッと思う間もなく…うっかり手を滑らせて持っていたトマトを手元のボウルに取り落とした。
 
せめて一緒に夕食が食べられたら良い。
 
サラリーマンにとっては、七夕などまるで関係が無い事かも知れないけれど…。
こんな夜だから一緒に過ごしたいなんて、きっと自分が子供染みているせいなのかもしれないけれど…。
一緒にご飯を食べて、笑えたら…それだけで幸せを感じてしまう自分は、とても単純で子供なのかもしれないけれど…。
 
 
空がすっかりと夜の様相を呈した頃、玄関のチャイムが鳴った。
彼にしてはまだ早めの帰宅に、小夜は慌てて玄関先に向かった。
ハジは、少しだけ申し訳なさそうな様子で靴を脱ぎ、小夜が並べたスリッパに礼を述べて足を入れたけれど、小夜には彼がどうしてそんな表情をするのかが解からなかった。
着替えを済ませ、向かい合って食卓に着く。
その頃には、小夜はもう今夜が七夕だと言う事も忘れていた。
テーブルには小夜なりに頑張って準備した夕食が並べられている。
夏野菜をふんだんに使ったカレーは、簡単だけれど見た目が鮮やかで…ついこの間テレビで美味しく作るコツを見たばかりなのだった。
サラダに添えた茹で卵も、今日は綺麗に剥けた。
ハジは丁寧に手を合わせて『頂きます』と小夜に断ってから、銀色のスプーンに手を伸ばした。
そして、さりげなく視線を小夜に向けると小さく『すみません…』と頭を下げた。
「…どうしたの?…ハジ」
何か謝られる事でもあっただろうかと、小夜がきょとんとハジを見詰める。
ハジは、一口だけカレーを口に運ぶと、腑に落ちない表情の小夜にもう一度頭を下げた。
「来年の七夕には、一緒に沖縄に帰りましょうと約束をしていたのに、どうしても仕事の都合がつきませんでしたから…」
「……………」
そう言えば、去年…そんな話をしただろうか?
沖縄の七夕は、お墓の掃除もして、宴会もして、勿論笹飾りも飾って…忙しくなりそうですね…と。
しかし、まさか彼がそんな他愛も無い話を覚えていたなんて、小夜の方こそすっかりと忘れていた。
それに大体小夜こそ、この季節に大学を休む事は難しくて、ハジが仕事を休めないのは尚更仕方のない話だ。
「…すみません。ずっと、謝ろうと…思っていたのですが…」
「ううん、そんな事…」
それは小夜自身でさえ忘れていた事だ…それにあの時はそう言う話の流れだったと言うだけで、別にきちんと来年の七夕に沖縄に帰りましょうと約束をした訳ではない。
スプーンを置いて、小夜はぶるぶると首を振った。
「その代り、今年の夏は長めの休みを取れそうですから…どこかゆっくり旅行でもしましょう?」
「…本当に?」
「年休と組み合わせて、何とか二週間は休める様に調整しています。世間のお盆休みとは少しずれるかもしれませんが…」
ハジがそんなに長い休みを取る事は、小夜にとって初めての事で…。
思わず口元が緩み、顔が綻んでしまう。
そんな素直な小夜の表情に、ハジもまたゆったりとした笑みを浮かべた。
考えてみれば、もう一年も付き合っていると言うのに、デートらしいデートにも中々連れて行ってあげられてはいないのだ。愛しい小夜の願いを叶えるべく…
「…どこか、行きたいところがありますか?」
ハジがそう問うと、小夜は少し考え込んではまるで子供の様に、
「ディズニーランド!」
と、答えた。
「ディズニーランドなら、平日の夕方からでも行けますよ…」
「そ、そうなの?……ええと、ちょっと待って…。ハジは…?ハジは行きたいところはないの?」
ハジもまた少しばかり考え込んで、さらりと小夜に告げた。
「…私は、貴女と一緒でしたらどこでも構いません…」
真顔でそんな風に言わないで欲しい。
顔を赤らめる小夜に…
「まだ時間はありますから…」
今ここで決めなくても…?と笑う。
小夜もまた、つられる様にして微笑んだ。
本当は、旅行になど行かなくても、こうして穏やかに過ごすひと時こそが幸せなのだといつか伝える事が出来るだろうか…。
目の前に座る男が、綺麗な所作で自分の作ったカレーを口に運ぶ姿を、小夜はぼんやりと愛しげに見詰めた。
と、不意にハジが顔を上げる。
銀色のスプーンを止めて、唐突に言う。
「折角の七夕だと言うのに、こんな天気で残念でしたね…」
直に雨が降り出しそうですよ…と。
彼の口から思いがけず、そんな台詞を耳にして…小夜は心の中を見透かされたような気分で何度も瞬きを繰り返した。
「…う、うん」
「……しかし晴れていたとしても、ここでは天の川を見る事は出来ませんよ…」
 
聞くともなしに小夜は小さく頷いた。
東京の夜空は、明る過ぎて細母子の微かな煌めきは色を失くしてしまう。
 
そう言えば…昨年の七夕も雨だった。
小夜は今も左手の薬指に嵌っている小さな花の指輪をそっと反対の指先で撫でた。
今にも雨が降り出しそうな天気とは裏腹に、ほんのりと小夜の心に温かい光が点る。
 
「…小夜。…その代りと言ってはなんですが…」
「…………?」
「…月末の花火大会、桟敷席のチケットが手に入ったので一緒に見に行きましょう」
「……あ、うん。…良いの?桟敷席なんて」
小夜には初めての経験だった。
漠然と脳裏に浮かぶ花火に彩られた鮮やかな夜空、賑やかな屋台、行きかう人々のイメージ。
咄嗟に何を着て行こう…と考えるのは、年頃の女の子の宿命だ。
浴衣を持っていたら、良かったのだけれど…。
快い返事を返しながらも、ついつい考え込む小夜に、ハジはそっと願い出た。
「…それで一つ、私の願いを叶えて頂けませんか?」
ハジがそんな事を言い出すのはとても珍しくて…。
「…何?」
思わず身を乗り出して、小夜が問い返す。
ハジがそんな事を言うなんて…何でも叶えてあげたい気持ちで胸がいっぱいになる。
「……………………」
「………何?……何でも言って…ハジ…」
ハジはコホンと、改まった。
白い皿の上にスプーンを置く。
そして両手を膝の上に下ろした。
「………何?」
ハジの願い事なんて…。
「小夜の、浴衣姿が見たいのです…。私の為に浴衣を着てくれませんか?」
ほんの少し、恥かしそうにそう自らの願いを告白するハジに、小夜は尚更赤く顔中を…耳朶まで赤く染めて、小さくコクンと頷いたのだった。
 
外は、雨。
けれど………。
 
短冊に書くまでも無く…ささやかな幸せはすぐ目の前に存在するのだ。
 
                                        《了》


20100722
ブログにアプしました、七夕のSS。
密かにこの続き(浴衣を買いに行く二人の一コマも書きたいな〜なんて、脳内にはあるのだけれど…)
あはは、もうどこまでもバカップルで…。