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小夜が目覚めると、そこは見慣れた自宅の裏庭だった。
濡れ縁に仰向けに転がり見上げる視界には、暮れかかった空が赤く染まっている。
あれは…長い夢だったのだろうか…。
自分は眠っていたのだろうか…。
御伽噺に出てくるような長閑な農村の景色の中で、小夜はやはり小夜としてそこに存在した。あの村の空気の匂いも、髪を撫でる優しい風の感触も、はっきりと思い出せる。
村娘「小夜」のリアルな感情が濁流のように小夜に流れ込んでくる。
夢とは思えない現実感を帯びた感覚。
親兄弟を一度に失う千切れる程の悲しみも、貧しい農村に暮らす身寄りのない少女の孤独も、そしてあの美しい湖を渡る風の涼しさも…。
どれもがまるで体験した事の様に小夜には感じられた。

…ハジ

夢の中で、彼は…。

小夜は一瞬にして我に返る。
あれ程激しく降っていた雨が止んでいた。それどころか、苔生した庭先には濡れた形跡さえ残ってはいない。庭木の緑も乾き切って精彩を欠いたままだ。
そして、あの男。
ハジの姿はどこにも見当たらず、着衣が乱された様子すらもない。
全ては自分の思い込みが見せた夢だったというの…?
小夜は、両腕で強く自分の体を抱き締めた。
体に残るハジの腕の感覚。抱き締められた時の腕の力強さや、これは明らかな暴力だというのに…時折覗かせる思い掛けない優しい仕草が鮮明に蘇ってくる。
全てが夢なのだとしたら、自分はなんて淫らなのだろう…。自分は、ただ一度訪れただけの父の知人に対して、無意識にそんな感情を抱いているのだろうか。
言葉では説明のつかない何かが、小夜の胸の奥で生まれる。
いや、生まれるというより…それは蘇ると言った方が正しいのかも知れない。
長い夢の中では数え切れない程、男の腕に抱かれ、『ハジ』が与える快感に小夜は身を委ねていた。それは経験のない小夜には知りえる筈のない感覚だった。
長い夢の中で小夜は我を無くし、悦びの嬌声を上げ、体を震わせて、ハジを受け入れていた。
その体だけでなく、心も、その命さえ差し出して…。
あれは本当に夢なのか…と思わず疑いたくなる程、生々しい男の存在感。
この胸に残る甘い残像は、夢ではなく体の奥に刻まれた記憶ではないのか…そう疑いたくなる程…、それは小夜の中で確かなものだった。
どこまでが夢で、どこからが現実なのか…混乱した今の小夜には判別すら出来ない。

思い返すだけで胸が締め付けられるような、甘い痛み。
私…彼に恋してしまったの…?
それとも…これは夢の中の小夜の感情なの?
あの湖に棲む美しい竜の化身…ハジと、父を訪ねた青年ハジとは、本当によく似ていたけれど、だからと言って同一人物だと思うのはあまりにも現実感のない発想だ。
それはあの長い夢の余韻なのか…、ハジに対する小夜の感情はもうただの訪問客に対する好意を超えてしまっている。
彼の事を考えるだけで、胸が痛い。
ちりちりと焼かれるような錯覚を覚え、小夜は、先程ハジが肌蹴た筈の白いワンピースの胸元をぎゅっと握り締めた。
いったい何が、自分の中で変わったというのだろう…。


「…そんなところで居眠りをしては、風邪を引くよ…」
長い廊下の端からふいに声を掛けたのは、父ジョージだった。
小夜は慌てて上半身を起こすと、いつの間にか濡れていた目元をさり気なく手の甲で拭った。帰宅したばかりらしい父は、外出時のままの和装で、その手には不釣り合いなスーパーの白い買い物袋を提げている。
「…ん、大丈夫…。ごめんなさい…寝てたのね…私…」
父は小夜の涙には気がつかない様子で、買い込んだ食料品を冷蔵庫へしまい込むべく、座敷の奥の台所に向かう。
「あ、ねえ…。お父さん…」
その後姿に、小夜はためらいがちに声を掛けた。
聞いても良いのだろうか…。
最初に彼が訪問した時の父の態度を思い出すと、そんな不安すら胸に過る。
しかし、一旦唇から発せられ掛けた言葉を飲み込む事は出来なかった。
「…どうした?」
「…お父さん。…あのね、聞いても良い?この間の…あの、ハジって言う人…誰なの?」
彼の言う事が本当ならば、父はハジを知っているはずだ。
先日彼が訪問した事を告げた時、父はただ黙って『そうか』と言っただけで、そのどこか気まずい雰囲気に小夜にはそれ以上追及する事が出来なかったのだ。
小夜の言葉に、父ジョージはゆっくりと振り返る。
そして、言った。
「…はじ?この間って……小夜、それはいったい誰の事なんだ?」
小夜は自分の耳を疑った。
「……お父…さん?…この前、話したでしょ?以前お父さんにお世話になりましたって…訪ねて来た人…。…背が高くって、綺麗な長い黒髪で…、すごく…綺麗な男の人…目が青くって…外人さんみたいな人…」
「…いつの話だ?…だいたいそんな目立つ外見の外人の知人なんて居ないよ…。こんな田舎にそんなに綺麗な外人の男が歩いていたら村の話題だって上るんじゃないのか?」
「…………」
小夜は言葉を失う。そんな小夜の表情に…ジョージは不思議そうに『そんな所で転寝するから、どうせ夢でも見たんだろう』…と肩を揺らして笑い、奥の和室に消えた。
寝起きの小夜をわざとからかっている様な素振りでもない。
父は、本当にハジを知らない様子だ。
先日は、あたかもハジを知って居る様な…、そして父にとってまるで彼が招かれざる客であるかのような態度すら取ったというのに…。

それどころか…。
小夜には、がくがくと震え出す自分の体を止める事など出来なかった。


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新学期からは心を入れ替えたのか、兄のカイも間もなく帰宅し、その晩は珍しく家族揃っての夕食となった。顔を合わせれば、気まずい空気になりがちな父と兄を取りなすのは、いつも小夜と弟のリクの役目だ。
けれど、今日の小夜に笑顔はなかった。
いつもとは打って変わって元気のない様子の小夜に、父も兄も弟も一様に心配そうな視線を向けた。
これが自分の家族。
生まれ育った…家。
しかし、今の小夜には家族との会話もどこかに違和感を覚える。
ハジの存在が全て小夜の作り出した幻だというのならば、いっそそれでも良い。
家族との会話、見慣れたリビングの景色、壁の模様、家具の配置…確かに自分が生まれ育った環境だと思うのに、それと同時に…また違う何かが小夜の中にあるのだ。
どこか現実感の伴わないまま、小夜は夕食を摂り、早々に風呂に済ませると家族には『頭が痛い』と言う理由で自室に引き籠った。

あれは…気のせいだろうか…
単に小夜の聞き間違いだろうか…。
確かめるのが、怖い。
けれど、一度抱いてしまった疑問を忘れる事は出来ない。
恐る恐る、小夜は弟のリクに声を掛けた。
リビングのドアをほんの少し開けたまま、振り返りざまにリクを呼ぶ。
リクは冷め掛けた湯呑を手にしたまま、テレビに釘付けになっていた視線をふわりと小夜に向けた。
「何…?頭が痛いの大丈夫?…小夜姉ちゃん。…やっぱり薬飲んだ方が良いよ」

ああ、やっぱりだ…。

小夜はどこか絶望的な想いを堪えて、気丈に笑って見せると…親切にも薬を取りに立とうとする弟を制した。
「大丈夫。…ありがとう。…もう、横になるね…」


長い廊下の向こうから、微かにテレビの賑やかな笑い声と兄と弟のやり取りが聞こえた。
いつもならまだ、リビングで一緒にテレビを見ながら雑談に耽っている時間だ。
他にする事がある訳でもなく、布団を敷いて横になったが眠気など訪れる筈もない。
小夜は薄い肌掛けにくるまる様にして寝返りを打った。
もう一度、きちんと整理して考えよう…。
きっと自分は、長い夢を見ていたのだ。
夕方の出来事も、いや…そもそも最初から『ハジ』という存在自体が、自分の願望が生み出した夢の中の人物なのではないか…。そう思うのに…、この不可思議な出来事に自分なりの決着を付けて、もう彼の事は忘れてしまいたいのに…小夜の心は乱されるばかりだ。
本当に…最初からこの数日の出来事全てが、小夜の夢なのだろうか…。
だとすれば、それはあまりにもリアル過ぎる夢…。
がくがくと震え出す体を、小夜は自らの腕で抱き締めた。
今も耳に蘇る『小夜』と自分を呼ぶ低く良く響く美声。労わりに満ちたその優しい響き。

しかし…

夕方、父は自分の事を何と呼んだのか?
自分の寝起きの耳が聞き間違えたのかも知れない。そう期待を込めて、先程恐る恐るリクも確かめた。声変わりを迎える前のリクの声は、澄んでいて耳に心地よい。
それは偏に彼の滑舌の良さもあるのだろうが…、だから、今度はもう聞き間違いではない。
小夜は小さく呟く。
「私の名前は小夜よ。…小さな夜と書いて…『さや』と読むの…。『さよ』じゃないわ…」

ハジ…

小夜は混乱する。

私は…誰?
どうして…お父さんも、リクも…私の事を『さよ』なんて呼ぶの?

育った筈のこの家の、そして家族の記憶…それは確かに小夜の中に存在するのに、小夜の中にはもう一人の自分がいる。
もう一人の小夜の記憶も、小夜にとってはまるで自分の事の様だ。『ハジ』の事を想うだけで、小夜の胸はきりきりと切なく痛む。正しく全身全霊を掛けて愛したのだと、理屈ではなく、心が…そして小夜の体がハジを覚えているのだ。

お父さん…
リク…
カイ…


ハジ…

あなたは誰?
私は…さやなの?…本当は…さよ…なの?
私は……本当は…この家の娘ではないの?

「ハジ…」
自分自身すら、信じられない。
何を信じて良いのか解からない…そんな状況で、無意識に小夜の唇から零れたのは男の名前だった。
そう呟いたのが、本当に自分なのか?それとも、夢の中の少女…小夜なのか?
その境界線は限りなく曖昧に、夜の闇に溶けてゆく。
誰か…教えて…
助けて…
彼は本当に、自分の作りだした幻なのだろうか?
もし、そうでないのなら…。
もし、本当に…あなたが存在するというのならば、どうかここに来て…

「ハジ…、………来て…」

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