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まるで時間が止まってしまったかのような一瞬だった。
現実の出来事とは思えない。
相変わらず、リビングからはテレビの音が聞こえていて…だから、これは夢ではないのだと自らに言い聞かせるように…小夜は恐れる様に布団の上で体を起こした。
無意識にパジャマの胸元をきつく合わせたのは夕方の記憶が小夜を警戒させたのか。
部屋の片隅、ちょうど壁と書棚の角に当たる暗がり。
次第にその闇が形を成してゆく。その闇の内側から生まれた艶やかな髪、舞う様に振り返るその整った面は青白くさえある。小夜はじっと目を凝らす。
最初は幻想の様だったその姿は、やがて確かな質感を伴った人の形となる。
薄暗い常夜灯の明かりを浴びて、男はゆっくりと膝を折った。
小夜の前に膝を付き、額に流れる前髪もそのままに項垂れた面を上げる。
感情の読めない静かな表情。
日に焼けた畳に、ぽたり…と滴が垂れた。

…雨?

一瞬そう思い、しかしここが室内である以上そんな事はあり得ない。

「…私を、呼びましたか?」
「…………」
小夜は答える事が出来ない。
私は誰?あなたは誰?それどころか、問いに対する返事…はいとも、いいえとも、まるで声を失ってしまったかの様に、小夜は布団の上で固まっている。
「…小夜。………怖がらせて…しまいましたね。…私の愛しい人…」
「…………ハ…ジ…」
自分が声に出して呼んだのだとは言え、まさか…有り得る筈がないと思っていた。
いくらなんでも、自分の呼びかけに応じて、彼が目の前に姿を現すだなんて…。
「夢では…ありませんよ」
小夜の考えを読むように、ハジが言う。
穏やかな声、静かな青い瞳の色。
あの美しい湖を渡る優しい風…。
確かめてごらんなさい…とでも言う様に、ハジがその手を小夜に差し出した。
小夜はその美しい指先をじっと見つめ、戸惑う。
しかし、心の奥底で目覚めたハジへの恋情は理屈抜きにその誘惑に惹き付けられて、小夜は震える指先をそっと差し出した。
廊下の向こう、リビングから伝わる家族の気配、テレビから聞こえる賑やかな笑い声。
「……ハジ」
「どうか、私を………怖がらないで。お願いです…小夜」
「…ハジ」
二度目の呟きと共に、小夜は強い力でハジの腕の中に抱き締められていた。

優しいあの父の娘でありたかった。

兄と、弟がいて…

そんな平凡な家族の一員で在りたかった。

 

しかし、自分が何者であるのか…何が正しくて何が偽りなのか…誰を、何を信じて良いのか解からない。

何も解からない真っ暗な不安の中で、ただ無心に労わる様に髪を撫でてくれる男の指の優しさと、決して高くはない彼の体温に何故だか小夜の鼻先がつんと熱くなる。

胸に押し殺し、ずっと堪えていた不安と心細さが、こうしていると一気に噴き出してしまいそうで、小夜はぐっと涙が零れるのを耐えた。

だからと言って、彼の事を全面的に信じていい筈もないのだから…。

「…私は、誰なの?」

小夜の呟きにハジは僅かに目を細めた。

こんな事を他の誰に聞けばいいのだろう?

何か言いたげな、けれど全てを飲み込むような沈黙が流れ、やがて静かに男が答える。

「……小夜。貴女は貴女です。時が移り、時代が変わり、名前や姿までもが変わろうとも…貴女は貴女です。私の愛する小夜は、ただ一人です」

ハジの台詞はまるで映画や物語の中に出て来るそれの様で、つい昨日までの小夜ならば信じられる筈のない様な戯言だった。しかし、今こうして男の胸に抱き締められると、彼の存在は小夜にとってもう夢ではない。白いシャツの胸に小夜は強く頬を押し付けた。

「…ハジ。…本当に?……私は…」

「必ず貴女を見付け出す…と言ったでしょう?」

それは夢の中のハジの言葉だ。やはり今の様に、広い胸に小夜を抱きしめて…。

「あなたは…迎えに…来てくれたの?……私を…?」

ハジは腕の中に閉じ込めた小夜の顔をじっと見詰め、曖昧な微笑みを浮かべた。

「小夜、もっと呼んで下さい。私の名前を…この可愛らしい唇で…」

しなやかな指先が小夜の唇に触れた。

「……ハ…ジ…。…ハジ、…ハジ、ハジ」

こんな事を信じて良い筈がない。小夜の心の中には、いまだに溶けない氷がある。けれど、そうして彼の名前を呼ぶ毎に、小夜の胸の深いところでその氷は氷解し始める。冷たく閉ざされた冬が終わりを告げ、凍土の下から新芽が顔を出す様に…ハジへの愛情が息を吹き返してゆくのが解かる。

胸が締め付けられるような甘い痛みが、緩やかなスピードで全身に広がってゆく。それは決して不快なものではなく、小夜の心を融かし柔らかく解いてゆく。

「小夜…」

ゆっくりと舞い降りてくる唇の気配に、小夜は戸惑いながらもそっと目を閉じる。

触れる…その直前で、ハジは吐息を吐く様に笑った。

肌に直接触れる湿った吐息に小夜もまた薄く目を開けると、覗き込む瞳は真っ青に澄んでいた。

「今度は…もう、逃げないのですか?」

「……………だって。………ハジ」

そのあとに続く言葉は、彼の唇に吸い取られた。

腕の力が強くなり、深くその腕に抱き込まれると小夜の体を庇う様に緩々と布団の上に崩れ落ちる。

柔らかな上に押し倒されて、再び降りてくる唇に小夜は身を竦ませた。

抵抗する間もなく深く奪われて、ざらざらとした感触の舌先がきつく絡みついてくる。

懐かしい、少し強引な男の口付け。

小夜に懐かしいと感じさせる何か…、小夜の深いところであの少女が微笑んでいる。

「…んっ。…や…待って…」

「これ以上、待てません…。私がこれまで、どれだけの長い時を待ったと思っているのです?ずっとこうして触れたかった。貴女に…小夜…」

薄い綿のパジャマの上から、ハジの大きな掌が体の線をなぞるように這ってゆく。細い腰のラインを確かめる様に往復して、上衣の裾を乱す。

その優しい掌が小夜に与える快感に流されそうになりながらも、冷たい指が素肌に触れると小夜は我に返ったようにその腕に抗った。

しかし、両手で引き留めたところで、ハジの力に適うはずもない。

「駄目。…向こうに…お父さん達が…」

お父さん…と口にして、小夜の心は改めて大きく波打った。

お父さんだと思っていた。

兄と弟だと…。

「…小夜」

「…駄目。……聞こえちゃう…ダメよ…」

ハジの腕を掴んだ両手に渾身の力を込める。しかし、彼の腕を引き剥がす事は出来ない。

「小夜。大丈夫です…彼らに、私達の声は聞こえない。ここは……結界の中です」

「嘘…。駄目…。だっ…め……やっ…んぅ」

黙らせる様に、ハジの唇が小夜のそれを塞いだ。

強引なのに、これ以上ないほど優しく丁寧に、ハジは口中を辿る。誘う様に舌を絡め取られると、小夜の脳裏にはぼんやりと霞がかかり全身の力が抜けてゆく。

抵抗が緩むとハジは漸く小夜の唇を開放し、その青い瞳でじっと小夜を間近に覗き込んだ。

「………信じられませんか?…いつから、こんなに聞き分けが悪くなったのですか?私の小夜は…」

「ハ…ジ…」

うっすらと涙に歪んだ小夜の視界の向こうで、ハジが困った様に優しく笑っている。

その間も掌は休まる事無く、小夜の体を快感の波に浚おうとする。まるで小夜の体の事を全て心得ているかのような、的確な動きに堪え切れなくて、とうとう小夜は男の腕からぱたりと指を離した。

「…酷い様にはしません、…小夜」

そう言うと、ハジは徐に小夜の胸元のボタンを外した。

一息に全てを肌蹴ると、細い首筋から肩…そして形の良い乳房に掌を這わせる。小夜はただじっと体を強張らせ、その甘い様なくすぐったい様な感触に耐えた。

「いくら過去の記憶が蘇っても、この体は…無垢なのですから…」

横たわる小夜にのしかかるハジが、ゆっくりと小夜の首筋に顔を埋めた。

耳の後ろから、耳朶、そしてその内側にまでハジの舌先が這い、びくびくと跳ねる体を逃げる事を許さず押さえ付けられる。耳朶を時折甘く噛まれると、小夜の背筋に甘い痺れが走った。たったそれだけの愛撫にも、腰の中心がうずうずと騒ぎ出す。

乳房を包み込んだ掌が緩々とそれを揉みしだいていた。

仰向けに横たわった姿勢のせいで、幾分なだらかな丘の様にも見えるその柔らかな膨らみを、ハジは愛しげに揉んでは時折唇に含み、小さな先端の突起に舌を絡めては吸い上げた。

その度に小夜の体は甘い痺れと共に大きく撓り、頑として拘束された下肢をもどかしげに蠢かす。

ハジが唇を離すと、唾液に濡れたそれが室内の空気にさえひんやりと冷たく、触れても居ないのに小夜はつんと固くなった乳首を意識する。

本当に、大丈夫なのだろうか?

ぼんやりと脳裏が霞む。それでも僅かに残された小夜の理性がそう疑問を抱く。

けれど、それを確かめる術などない。大きな声で騒いで…試せるものならば…とっくにそうしている。

助けを呼べるものならば…。

しかし、今のこの状況を誰にも見られたくはない。

そして揺れる心の深いところに…本当は自分もまた、全てを忘れてハジの愛撫に溺れたいと言う気持ちが少なからずあるせいで…それは夢の中の少女が小夜に同化しつつあるという事なのだろうか…。

「小夜?」

こんな状況なのに、様々な事が一度に脳裏に浮かんだ。

そんな小夜の様子を訝しんで、ハジが愛撫の手を休ませると間近に覗き込んでくる。

「…私の腕の中で、何を考えているのですか?」

「…な……何も」

「……嘘をつくのはこの唇ですか?」

ハジの長い指先が小夜の細い頤を掴んだ。どこか楽しむように微笑んで、ハジの唇がふわりと触れる。

優しい口付けは次第に熱を帯び、小夜を溶かしていった。

駄目…と言いつつも、小夜の体は素直だった。自分の体が男の腕の中でこんな風に変わるのだと言う事を、小夜は初めて知らされる。過去の記憶は体に刻まれたものではないのに、それでも小夜の体はまるでハジの愛撫を覚えているようだった。

啄ばみ合う唇から濡れた音が漏れる。息を継ぐ合間に溢れた唾液が糸を引き、唇を潤してゆく。

「愛しています。小夜…。他の誰の事も、今は考えないで…」

「…ハジ」

肩から流れ落ちるハジの黒髪に、小夜はそっと指を伸ばした。

濡れた様な艶の滑らかな質感、さらさらと指先から零れるそれに小夜は指を絡める。

男の声で囁かれる『愛している』と言う言葉に、はらりと一粒の涙が零れた。

頬伝うそれを男の舌がそっと舐め取る。

「……ハジ」

ぐいと意志の力を込めて、小夜はハジを抱き寄せた。

 


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