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真夜中、小夜は寝苦しくて目が覚める。
そこは慣れ親しんだ自室であるというのに、見上げた黒い板張りの天井も置かれた家具の位置もどこか知らない場所で目覚めたような奇妙な感覚に襲われる。
何か夢を見ていたのか…単に寝起きのせいか、意識がはっきりとしない。
目覚めているのか、まだ夢の中にいるのか、それさえも判断つきかねる…その曖昧な境界線の上で彼女の意識はぼんやりと昼間の出来事を回想していた。
ハジと名乗る青年。
夜を纏った様な黒く長い髪…白い肌。
群青の瞳はまるで深く澄んだ水の底を思わせた。
低く良く響く声で、『小夜』と呼ばれた瞬間の、あの甘い衝撃を思うと…小夜の体の芯が熱く熟れてゆく…しかし小夜にはその落ち着かない胸のざわめきの正体が解らない。
どこか人間離れした彼の美しさは、年頃を迎えた小夜にとって忘れようとしても忘れられるものではなかった。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
涼し気な雨音の響きに耳を傾けながら、小夜は思う。
彼は、この雨に濡れはしなかっただろうか…。
傘も持たず、あのタイミングでは宿に戻るまでに雨にあっているのではないか。
追いかけて傘を持たせれば間に合ったのだろうか。
しかしその時にはそんな事を思う余裕はなかった。ただ今になって、あの美しい黒髪が雨に濡れそぼる様を想像すると、小夜の胸は訳もなくざわめくのだ。
夕方近くになって帰宅した父に彼の来訪を告げると、「ハジ」の名に父は一瞬表情を強張らせた。
しかし、まるで誤魔化すように…気を取り直して見せては、そうか…とだけ答えた。
本当は父に、彼が一体何者であるのか確かめたかった小夜は、そんな父の態度に明らかな不審を抱きつつも、その険しい表情の前にはそれ以上に問い質す事が出来ない。
まさか借金取りではあるまい。
以前、神主という家業を継ぐ以前に教鞭を執っていた高校の教え子だろうか…。
しかし、彼は一体幾つなのだろう…。
父ジョージが教師をしていたのはもうずっと以前の事で、それならば彼の年齢も推し量れるはずだ。しかし、計算と照らし合わせても彼の外見はとてもそんな年齢には見えない。彼の事を考え出すと、次第に意識は冴え…このまま寝そびれてしまいそうだ。
小夜はころんと寝返りを打って、軽い肌がけを抱き締めると、そっと瞼を閉じた。
いずれにしろ、ハジはまた来ると言っていた。
それならば、ほとんど毎日家を出る事のない小夜も再び会う事が出来るだろう。
 
そしてその機会は思いがけず早く訪れた。
 
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「小夜……さん…」
不意に背後から声を掛けられたのは、それから三日後の夕方の事だ。
宮城家の奥まった裏庭の先は境界もはっきりしないまま、裏山に通じている。
小夜は毎日の日課のとおり暑い日差しに勢いを無くした庭木に水をやっているところだった。いまどき珍しい手漕ぎのポンプから如雨露に水を汲んで、小夜は小さく吐息を吐いた。
案外に広いこの庭の、全ての植物にこうして水をやるにはかなりの手間が掛かる。
ここには古い手漕ぎポンプしかなく、本当は表の庭の水道からホースを伸ばせば良いのだろうが、ホースを伸ばすにしてもいささか遠過ぎる。この季節、水遣りは欠かせない毎日の日課となっているので小夜には慣れたものだが、しかし重い如雨露を持っていては、緑の苔に覆われた飛び石を渡る足取りは覚束ないものになる。
美しい声に名前を呼ばれ、小夜は弾かれたように顔を上げた。
彼は鎮守の森を背景に、少し離れた大きな木の幹に寄り添うようにしてこちらを見ていた。
「…ハジ…さん?」
小さな小夜の呟きが離れた位置に立つ彼に届いたとは思えなかったけれど、視線が絡まるとハジは僅かに微笑んで見せた。先日と変わらず、黒いスーツの上下は暑くはないのだろうか…。
小夜が小さく頭を下げると、彼はゆっくりと木の傍を離れた。
 こうして傍らに並んで立つと、一際彼の長身が目立った。
小夜は少し見上げるようにして、ハジの表情を伺う。
世に美形と呼ばれる人達は皆そういう傾向にあるのかもあるのかも知れないが、彼の面は整い過ぎてどこか表情に乏しい。けれど、その形の良い唇の端がすっと上がり、笑みを象ると、その美しさは例え様もないと小夜は思う。
彼にもう一度会いたいと思っていた。
ハジは父ジョージに用があるのであり、小夜にではない。
しかしその美しい笑顔の前には、用もないのにハジに会いたいと思っていた自分の心の疚しさを、どこか見せ付けられるような気分だ。
「こんにちは。また…お会い出来ましたね」
ハジはそう言った。
『お会いしましたね』…ではなく『お会い出来ましたね』と、彼が言う言葉尻さえ捕らえて、小夜は手に持ったままの重い如雨露をぎくしゃくと落ち着かない様子で足元に下ろした。彼が敢えて『出来た』という言葉を使うのに、深い意味はあるのだろうか…。
そんな些細な言葉遣いにさえ、小夜の胸は締め付けられる。
「…あの、ごめんなさい。…父はまた出掛けていて…」
「こちらこそ、また突然伺ってしまい申し訳ありません。あまりに見事な森だったので散策していて…迷ってしまって。偶然…こちらに…」
「…良かったです。森に迷って、そのまま夜になってしまったら…」
「……そう?」
ハジの瞳が問うように覗き込んでくる。その深みに引き込まれたら、二度と戻ってこられないような危機感を感じて、小夜は無意識に目を逸らした。
じっと足元に目を向けると、濡れた飛び石の黒さと素足に赤い鼻緒のサンダル、青々と茂る苔の緑が美しく視界に映る。
けれど、今の小夜にはそれを美しいと感じる余裕すら全くなかった。
「……そうですよ。小さな裏山だけど…夜の森は怖いから」
見るともなく足元を見詰ているお陰で、ハジの表情は判らない。しかしその声から察するにとても本気で小夜の話を聞いているとは思えなかった。
大人の男の人にとっては、暗闇は『怖い』という対象ではないのだろうか…。
「怖い?……本当に?何が…怖いというのですか?」
「ええと。とにかく…怖いんですよ。夜の森は…怖いって、父が…」
「ええ…」
小夜がうろたえる様が可笑しいのか、相槌を打ちながらハジが小さく肩を揺らす。
「可愛らしい人ですね。白いワンピースも良くお似合いです。私は…また、偶然こうしてお会い出来た事を…良かったと仰って下さったのかと思いました」
小夜は、まるで自分自身すら気付いていない自分の本心を見透かされたような気がして、思わず顔を上げる。身に着けた白い木綿のワンピースの胸元をぎゅっと右手で握る。
家族以外の人間、それも若い男性に、身に着けているものをこんな風に面と向かって『似合う』と誉められたのは初めての事で、かあっと全身の熱が上がった気がする。彼の目に晒されている事自体が、恥ずかしくて堪らないといった風情だ。
家族以外との会話に慣れない自分をからかっているのだろうか…。
「っ…そんな事、そんな事言わないで下さい」
予想通り、うろたえた様子の小夜にハジは微笑を浮かべていた。
そんな綺麗な顔で、悪戯にそんな事を言ってからかわないで欲しい。ハジは小夜の抗議など気にも留めない様子で、しかし律儀に謝罪すると僅かに頭を下げる。
「……すみません。…しかし、私はもう一度貴女に会いたいと…思っていましたよ」
「…からかわないで下さい。今度こそ、父に御用でしたら上がってお待ち下さい」
「今はお一人なのでしょう?家に上がり込む訳にはいきません。それではお父上との約束を違える事になります」
「…約束って?」
小夜の問いには答えずに、ハジは続けた。
「それに…この森は、大丈夫です。空気も水も清浄に澄んでいて、悪いものは入り込めない。怖いと思うのは、怖いと思い込まされているからに、過ぎないのですよ。森も夜の闇も…決して怖いものではありません。時に優しい…安らぎさえ齎してくれるものなのですから」
「…だって、それでも、真っ暗闇は、何も見えないし…怖い」
「…見えないのは、見ようとしないからです」
これでは、まるできりのない禅問答のようだ。
「あ、あの、雨。この間の雨…濡れませんでしたか?すぐに降り出したから…」
小夜は話題を逸らすべく、さも偶然思い出したかのように切り出した。そして口に出してから、ああ…と思い至る。きっと近くに車を待たせてあったのかもしれない。他の民家から、この神社は少し離れているせいもある、道に不慣れな他所の人ならばきっとそうするはずだ。
初対面の相手にそんな心配は大きなお世話だったかも知れない。
けれど、ハジは迷惑そうな素振り一つ見せず、ゆったりと微笑んだ。
「…ご心配、ありがとうございます。私なら、大丈夫ですよ…」
「………あ、あの…」
「…私は水が無ければ生きていけないのですから…」
ハジの言葉に応えるように…ぴちゃんと、足元で水が鳴った。小夜は水撒きをしていたのだとはいえ、いつしかハジの足元には大きな水溜りが出来ている。
こんなところに、水を撒いただろうか…という疑問を感じつつ、それ以前に彼の不思議な物言いが気に掛かる。
「……?…それって…」
「…私だけではありません。生きているものは人も動物も、例え足元の草一本にしても水がなければ生きてはいかれません。そうでしょう?」
「それは、そう…ですけど」
ああ、まただ。ハジがゆったりと美しい笑みを浮かべると小夜はつい何も言い返せなくなってしまう。
理に適っている様で、それなのにどこか腑に落ちない彼の言い分に、小夜はただじっとハジの深く青い瞳を見詰め返すしかなかった。
「…あの、ハジ…さんは、父とはどういったご関係なんですか?昨晩父にそう伝えたんですけど…教えてくれなくて…」
話し始めた最初は、表情に乏しいと思った。彼の綺麗な顔立ちがきっとそう感じさせるのだろうと。…
しかしこうして暫く話してみると、彼はとても良く微笑む。
それは、うっとりと見惚れてしまいそうなほど美しくて、穏やかで、小夜の心の隙間にスルリと入り込んでくる微笑だ。
本当ならば、いくら父の知り合いだから…とは言え、素性の解らない相手とこんな風に庭先で立ち話などするべきではないのかも知れない。第一、ほとんど初対面の相手とこんな風に立ち話が出来るほど、小夜は人馴れしてはいない。小夜はどちらかと言えば人見知りで、警戒心が強い方だというのに…。
背の高い青年を見上げる小夜に、またしてもハジは嬉しそうに静かな笑みを浮かべた。
「…私の事に、興味がありますか?」
「……いえ、…あの、ごめんなさい」
「良いのですよ…。しかし、少し長い話になりそうなので、出来れば貴女が育ったこの森を案内して頂けませんか?その道すがら、お話しましょう…」
何を言っているのだろう…。
小夜は僅かに唇の渇きを覚え、きゅっと下唇を噛んだ。
「だって、…もうじき日が暮れてしまうわ」
道に慣れた小夜ならば、彼の元来たであろう道まで歩いても二十分も掛からない筈だ。
しかし幾ら夏の名残の太陽はまだまだ陽が高いとは言え、こんな山間ではすぐに辺りは薄闇に包まれる
小夜自身…先日彼と出会って以来感じている理由の解らない胸のざわめきに戸惑い、また会いたいと願った感情そのままに、彼をこのまま帰したくない、ハジの事を知りたいと言う思いと、それに反して抱かずにはいられないハジに対する警戒心が心の底から蘇って、返事を鈍らせる。
「だって…」
「…怖いですか?」
ハジの真っ直ぐな瞳が逃れる事を許さず、小夜を見詰める。
怖くないと言ったら、嘘かもしれない。
それでも、訳も解らず、小夜はハジに惹かれていた。
しかし…この綺麗な青年の、その柔らかな微笑が危険な罠である可能性も捨て切れないのだと、小夜は改めて自分に言い聞かせる。
「……」
「…怖いですか?」
ハジは重ねて小夜に問う。
「……夜の森が?…それとも私が、でしょうか?」
小夜は、答えようもなく、乾いた唇を再びきつく噛み締めた。

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