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小夜が呼んでいる。

 

千切れんばかりの彼女の悲鳴が、まるで我が事の様にハジに伝わって来る。

ハジを恋う切なくも燃える様な想いと、彼を失ったかも知れないと不安に思う気持ちが、まるで雪崩の様にハジに流れ込んでくるのだ。

これ程強く…固く、自分達は心と体の深いところで結びついていると言うのに、時に運命と言うものは酷く残酷で…、ハジは思うようにならないその体をぐらりと揺らした。

命と言うものは、留まる事を知らない。

それは自然の理だ。

流れの淀んだ水がやがて濁る様に、命は次々と生まれ…そして消えてゆく。

命とはまるで、大海の様な大きな流れの中の滴、その一滴の様なものだ。

その深層では誰もが同じ様に繋がっている。

人も、そして…竜も…、元々は同じ大海から零れた滴の一滴に過ぎない。

 

最初の望みは何だったのか?

こうして生きているからには、為すべき何かがあるのだと思いたかった。

何かと係わりを持ち、何かを為す事で、初めて自分は生きている事と実感する事が出来るのではないか。

しかし…もうずっと…気が遠くなる程ずっと長い間、ハジは独りだった。

自分の命が何の為に生れ、どうしてここに、こうして『自分』というものが存在するのか…。

その問いに対する答えはずっと見付からなかった。

遠い昔、朧げな記憶の片隅で自分を『ハジ』と呼んでくれる何者かが存在したお陰で、辛うじて自分が『ハジ』と言う存在である事を知り、その自我を保ってきた。

このまま大気に溶けて消えてしまいそうな…そんな自分と言う危うげな存在を、小夜が意味のあるものに変えてくれた。

 

小夜が笑う。

まるで白い椿の花が可憐に綻ぶ様に…。

ただそれだけの事で、自分の命は無駄ではなかったと思えた。

小夜という名前の幼い少女と出逢い、そして彼女を守る為に…自分は…存在するのだ。

愛している。

愛している。

愛している。

彼女が望むのならば、他の何を擲っても…小夜の前に…。

そう思う強い気持ちが、ハジの中で空回りする。

どの様な命も、やがては尽きる。

自分が生まれた本流に戻る時がやって来る。

最初から全て解かっていた事だ。

もう随分以前から、自分に残された時間がさほど長くはないであろうことは意識し続けていたけれど…しかしまさか…それがこんなタイミングで訪れるとは…。

時の巡り合わせとはどれほど無情で儚いものなのか…。

ゆっくりと横たえた体を揺らす、はるか頭上にはゆらゆらと煌めく水面が見える。

日に透かして見る右腕は、既に人のものではない。

異形のそれへと変貌した腕を、彼女の前に晒せるのか…。

あの遠い日に、ハジの本来の姿である竜の全身を目の当たりにしても小夜はただ綺麗と呟くばかりであったけれど、しかし今の自分は半獣の化け物ではないのか…。人の腕の形状を辛うじて留めるものの、その皮膚はびっしりと固い鱗に覆われている。

そしてまたその背中も…。

小夜も、どれほど強い暗示を掛けたところで、薄々その異変に気が付いている様子で…どこまで誤魔化し切れるかも危うい。

やっと巡り会えた。

気が遠くなる程、長い時間…彼女ただ一人を待っていたと言うのに…。

今朝方にはあった力が、今はもうほんのわずかしか漲っては来ない。

こんな風に幕切れはある日突然、訪れるものなのだ。

そう、あの日の様に…。

 

何事も無い穏やかな一日になる筈だった、あのまだ早い夏の日。

小夜は突然に倒れた。

病である様子など、少しも感じられなかったというのに…。

湖を渡る風は相変わらずに涼やかで、木漏れ日は優しく彼女の面に影を落としていたと言うのに…。

ハジの目の前で、不意に力を失う様に倒れ、そのまま見る間に衰弱していった。

大切な大切な、小さな命が…目の前で燃え尽きようとする…その気配は疑いようも無く…為す術も無く…やがて小夜の命はハジの腕から滑り落ちていった。

所詮、人と魔とは交われないのだと、その宿命を目の前に突き付けられた様な絶望感。

ハジの持つ人外の毒気は人の身である小夜には余りにも強過ぎて、彼女の体は知らず知らずの内に侵されていたのだと思い知らされた。

それ以外に、考えられる事はなかった。

痩せて…とても十七歳とは思えなかった痛々しい程に細かった体は、ハジとの穏やかな暮らしに漸く艶を取り戻し、年齢相応の瑞々しさを備え、健康そのものの様に見えていたのに…。

けれど、目に見えないところで小夜の体はあまりにも強い竜の気に侵されていた。

自分の存在ゆえに、小夜はその命を縮めたのだと…。

ハジの気は狂わんばかりに痛み、我を失くし、自分もまた小夜と共に命を断つ事まで考えた。

しかし、ハジを思い留まらせたのは、小夜との一つの約束だった。

病床で、弱々しい力でハジの手を取りながら…何度もごめんなさいと繰り返し、もう一度あなたの元へ生まれて来るからと…。

それは何度もハジが彼女に言い聞かせた話だ。

命は巡るものだと…。

命とは、元は一つの大きな流れの中から…その激しさ故に零れた一滴なのだと。

それは、次々と生まれ落ち、そして再び大きな流れの中に還って行くものなのだと…。

 

小夜の一言で、ハジは再び冷静を取り戻す事が出来た。

いや、出来たと思っていただけで、既にハジの心は壊れていたのかも知れない。

それを愛と呼ぶのか、狂気と呼ぶのかは…誰にも決められるものではなかった。

 

そして長い時の流れの中で、ハジは漸く小夜の魂を見出す事が出来たと言うのに…。

再び、あの優しい声で『ハジ』と呼んでくれると言うのに…。

しかしもう、自分に許された時間は…そして力は僅かなのだ。

 

何を迷う事がある?

今の自分に残された力で、彼女の為に為せる事…。

 

小夜が笑っていてくれる事だけが、自分にとっては全てだった筈だ。

あの涼しい湖畔で、涙する少女の手を取って以来…ずっと…。

 

ハジは、最後と思われる力を振り絞って、その不自由な体をゆっくりと起こすのだった。

 

■■■

 

 

暗くしんと静まり返った自分の部屋で、小夜は我に返った。

あの、父の言葉。

『この山の上に湖があったのはもう遠い昔の話だ。…いや今となっては、本当にあったのかどうかさえも解からない…』

その言葉が本当ならば…。

あの湖が枯れると言うのなら、それはつまり…ハジの命もまた…尽きるという事なのではないだろうか…。

 

 

どれ程呼んでも男の返事も、気配すらもなく、小夜を蝕んでいた嫌な予感はじわじわと現実味を帯びていた。

遠い昔…独りぼっちになった自分を助けてくれたハジ…。

幼い自分を護り導いてくれた人。

そして、小夜にとって命よりも大切な愛しい人。

彼がいなければ、自分は生きている価値すらないのだ。

涙に濡れた頬を手の平で拭うと、ぐったりとした体を起こした。

ハジの言う言葉が真実であるなら、ハジが救ってくれたこの命は彼の命を削って与えられたものでもあるのだ。

もしかしたら、自然の理に外れて死ぬ筈だった自分を助けたお蔭で、彼の命は必要以上に消耗したのかも知れない。

 

この命が…。

自分の存在自体が…。

彼の負担に…なっているの?

 

じわじわと小夜を蝕んでいた不安は、やがてそんな仮説に辿り着く。

 

自分の為に?

 

もし本当にそうであったなら、自分はどうやってそれを償えば良いのだろう?

 

小夜の頬から、大粒の涙がぽろぽろと零れ、それは陰った畳の上にぽたりと落ちて大きな染みを作った。

 

気がおかしくなってしまいそう。

いや、もう最初から…自分の気はふれている。

ハジが居なければ…。

ハジが居なければ…。

 

この命を彼に返す事で、どうにかしてハジを救う事は出来ないだろうか…。

彼が自分を助けてくれた様に…。

それとも、そんな単純なものでは無いのだろうか…。

けれど、このままハジにもう逢えないと言うのなら、自分にはもう生きている価値など見出せない。

愛する男の命を貪っておきながら、どうして自分の存在を認める事が出来るだろう…。

どうしてこの先、希望や幸せを見いだせると言うのだろう…。

 

まるで発作の様に、小夜は乱暴に机の引き出しを探ると、目についた工作用のカッターナイフを手に取り、息を飲む様にその刃を出した。

 

かちかちかちと言う音と共に、薄いカッターの刃が伸びる。何に使う為に買ったのだったろう…。

まさか、こんな気持ちで刃物を持つ日が来るだなんて…。

こんなちゃちな刃物では、命を絶つ事なんて…出来ないだろうか…。

どこを切ったら、一番効果的に早く死ねるのだろう…。

小夜は恐る恐る左の手首に、そっとカッターナイフの刃先を当てた。

 

「…馬鹿な…。馬鹿な真似はおやめなさい」

強い腕が伸びて、小夜の右手を掴んだ。

「……………ハ……ジ……」

涙で歪んだ視界、厳しい表情の男が自分を見詰めていた。

青冷めた様子で、戒めた小夜の手首を離すと固くカッターナイフを握りしめた少女の指を一本ずつ解き、その小さな刃物を彼女から取り上げた。

「この様なものでは、死ねませんよ。無駄に苦しむだけです…。自らを傷付けるような真似は、許しません…」

「ハジ…。……ハジ…!!」

男の腕を振り解き、小夜は逆に男の広い胸に縋り付いた。その存在を確かめる様に、強く腕を回し、その胸に顔を埋める。

「…ハジ。…ハジ、ハジ…どうしてすぐに、来てくれなかったの?…どうして…どうして…」

上手く言葉がつむげない。

激しい憤りと、男が再び自分の前に現れてくれた喜び。

男の存在が確かなものであると確かめる様に、小夜は回した両手できつく男の体を抱き締め、そうして幾度も背中を辿る様に触れた。

薄いシャツの生地を通して感じらせる男の身体を覆う鱗の感触は相変わらずだ…いや、先程に比べると随分と広い面積が鱗に覆われかけている。

生地の上からその一枚一枚を確かめる様に、小夜は指先を滑らせた。

先程の厳しい表情は収まったものの、いつもの無表情を決め込んでいる男の顔を覗き込む。

何と言葉を掛ければいいのだろう…。

どうしてこんな風に、男の身体の表面に鱗が現れているのか…問い質して、その確かな答えを聞く事が怖い。

「…小夜。……何を黙り込んでいるのです?」

真っ直ぐな青い瞳に逆に問い質されて…小夜は確信に触れる事の出来ないまま男を詰問した。

瞳は尚もかれる事のない涙に濡れている。

「…………ど、どうして…どうしてすぐに…来てくれなかったの?私が、呼んでるのに…。……私がどれ位、心細くて…心配したと思ってるの?」

「…それはすみません…。…いつから小夜はそんなに心配性になられたのですか?」

何処かはぐらかす様な態度は、いつもと変わらない。

ハジはいつもそうだ。

昔から…。

その無表情からは想像も出来ない位情が深くて、優しくて…優し過ぎて…彼女を傷付ける全てのものから小夜を護ろうとする。

その腕の中は、小夜にこれ以上ない安らぎを与えてくれる。過去の自分は、そうして男の腕の中で大人しく過ごしてきたけれど、しかし今はぐらかされるわけにはいかないのだ。男が目の前に現れてくれて、こうして抱き締めてくれる事で、先程感じていた不安がすべて消えた訳ではないのだ。

男の腕が、何かを察した様に小夜の細い体をかき抱いた。

苦しい程の抱擁の下で、小夜はギュッと瞼を閉ざし、確かめなければならない事を口にした。

「…ねえ、ハジ。どうして…迎えに来たって言ってくれないの?」

「……………………」

「……どうして、さっきは…すぐに来てくれなかったの?」

「…………小夜」

「…どうして、私が…手首を切ろうとしたのか…訳を聞こうとはしないの?」

「……小夜」

繰り返し小夜を呼ぶ男の声が、僅かに震えている事に小夜は気付いていた。

「私の態度が…貴女を不安にしているのですね…」

優しい指先が、繰り返しそっと小夜の髪を梳いた。

「…ハジ」

「………もう、薄々気付いているのでしょう?…小夜」

「…………嫌。……聞きたくない」

「…まるで子供の昔に戻ったようですね…。貴女が聞きたいと仰ったのですよ」

「……でも」

怖い。

やっと巡り逢えたと言うのに……。

ぽろりと、小夜の頬に涙が零れた。

男の舌先がちろりとそれを拭い、全てを悟り切った静かな青い瞳が小夜を諭す様に見詰めていた。

「貴女の元を訪れる前から、全ては最初から決めていた事です…」

「………ハジ」

 

全て…決めていた…。

 

決まっていた…ではなくて…?

 

「どういう…?」

どういう事?

本当に、私を迎えに来てくれたのではないの?

最初から、最初から…?

全ては、あなたが決めた事なの?

…ハジ。

 

「思ったよりも許された時間は短い。それでも…私は再び小夜に巡り合う事が出来て、幸せでした」

「…………………」

「…私が再び、貴女の前に姿を現したのは…、小夜を私の元に迎えに来たのではありません。……貴女に、私の残りの命を…与える為に…」

「……残りの命…与える…って?」

何を言っているのか…小夜には理解出来なかった。

「………………そうです」

「………何を、言っているの?」

反論を許さず、男が小夜の唇を奪う。

きつく舌を絡められて、小夜の心が悲鳴を上げる。

…待って。

待って、ハジ…。

意味が、解らないの…。

けれど、男にきつく唇を塞がれて、訴えは声にならない。

声にする事を、男は許さないのだ。

 

待って…。

私…。

 

「これが…最期です。…私が、貴女を…護ります」

男の言葉は淡々として、けれど裏腹に…その響きには測る事の出来ない男の、小夜に対する深い愛情が溢れていた。


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