□15□

昔、少女は強い竜の毒気に侵されてその寿命を縮めたのだ。今にも失われようとしている小さな命に、再び自分の気を与える事に、男は最初躊躇した。けれど、漸く見付けた小夜をどうしても失いたくはなかった。

気が遠くなる程長い時の流れの中で、男は彼女の魂が再び生まれてくる瞬間だけを待っていたのだ。

けれど、過去に小夜を失ったその時の…心が破れる様な慟哭の記憶が、男を臆病にした。

その僅かな躊躇故に、小夜は命こそ取り留めたものの…その身体は病弱で、他の子供達と同じ様に学校へ通う事すら出来なかった。

そんな小夜に、自分がこれ以上もう拘らない方が良いのか…それとも…何れは自分の元に迎えるのだと思えば、却って下手に社会との関わりを持たない方が良いのか…。

様々な思いが男の脳裏に浮かんでは消えた。

しかし、どれも…言い訳に過ぎない。

本当に、小夜の幸せを考えると言うのなら…もっと早く…嫌…最初からこうすれば良かった。

永遠に続くかと思われた男の孤独を、小夜が救ってくれた…いや…男は自分が孤独であるという事にすら気付いていなかったのだ。あの時、小夜に出逢うまでは…。

今になって、ハジは全ての迷いがするすると解けてゆく事を感じていた。

小夜と言う存在に巡り合えた事だけで、もう自分には充分だ。

 

 

まるで大切な宝物の様に、小夜の身体は男の広い胸にそっと押し抱かれたまま、ゆっくりと押し倒された。

小夜の背中は、畳ではなくふんわりとした寝具に受け止められた。布団など敷いた覚えはないと言うのに…昔から男といると、いつも驚かされる事ばかりだった。

小夜の瞼の裏に幸せだった昔の日々が蘇る。

これが悪い夢だったら良かったのに…。

今、このどこか時間の止まった様な閉ざされた空間は全て夢で…目が覚めたら、自分はまたあの懐かしい湖畔で…涼しい風に髪を遊ばせながら…男との静かな時間が続いている。

そうだったなら…どれだけ良かっただろう…。

これが最期だなんて、思いたくはなかった。

再会出来たばかりなのに、もう二人の時間が終わってしまうなんて…。

彼程の力を持った存在が、その命が…尽きる日が来るなんて小夜には一度として想像すら出来なかったのだ。

男の言う事は理解出来る。

命とは、やがて燃え尽きるからこそ生きていると呼べるのだ。それは過去世に於いても、何度となく男に聞かされた事だ。

命とはまるで、大きな大海の流れから零れ落ちた一滴の様なものだと…。

全ての命は一つの場所から生まれ、そして還ってゆく。

それは、大きな力を秘めた彼にとっても同じ事。

人も…竜も……。

只この世に留まれる時間が、それぞれに違うと言うだけの話なのだと…。

しかし、それならばそれで…。

例え残された時間が少なくとも…、いや少ないからこそ…その大切な時間を自分は男と共に過ごしたいのだ。

僅かに残された男の命の火を与えられたとしても、小夜は決して自分の事を幸せだなどとは思えないだろう。

共に在る事こそが、小夜にとっては全てなのだ。

しかし、覗き込んだ男の瞳は既にもう全てを悟り切った様に澄みきっていた。

男がそうすると言うのなら、そうなってしまうのだろう。

自分には、ハジに逆らう事など出来はしない。

どうしてこんな大切な事を、彼は一言の相談も無しに決めてしまうのだろう…。

けれど最後の望みを託すように、小夜は男の名前を呼んだ。

「…ハジ」

「…………どう、なさいました?」

「…どうして、最期だなんて言うの?…残りの命を与えるって、どういう事なの…?」

「……どんな命にも、終わりがあるという事は貴女も理解しているでしょう?………もうすぐ、この私にも…その瞬間が来ます」

薄々気が付いているのでしょう?…男の瞳はそう語り掛ける。あの湖が枯れたと聞かされた時点で、そんな予感を抱いていた。けれど、こうしてハジ本人の口からその事実を聞かされると、それは深い絶望にも似た重みを持って小夜を打ちのめした。瞳から溢れる大粒の涙を、小夜はもう堪える事が出来なかった。

小夜の涙も…男は全てを予想していたかのように、静かな表情を崩す事無く小夜を見守りながら、優しい指先でそっとその涙を拭い、拭い切れない雫を唇で吸った。

「嫌…。そんなの嫌…」

「聞いて下さい。小夜……ただ尽きるだけの命だと言うのなら、僅かに残されたこの灯を貴女に差し上げます」

「…………………」

「…私の命は、貴女に溶けて…小夜と一つになるのです」

決して貴女を独りにするのではありません…と、宥める様にその唇を押し当てる。

しかし小夜は髪を揺らして激しく首を振った。

「…小夜。聞き分けて下さい…。私が助けた小さな貴女の命は、未だ完全なものではありません…。最初から、そうすれば良かった…。小夜の幸せを一番に考えると言うのなら…」

「…私の幸せ?」

「貴女は、これから…高校へ通って多くの友人を作るのです。病弱な事を理由に今まで出来なかった事を、思い切り楽しむのです。そして私以外の誰かを愛し、人としての家庭を築き、子供を産んで…幸せな…一生を…」

「………嫌。ハジ以外の…誰か…なんて…。私は…ハジがいてくれなければ…幸せになんてなれない!」

「…小夜は、幸せになれますよ。…私が愛した貴女です。…ジョージは信頼のおける優しい男です。そして貴女の兄も、弟も…」

「ハジ!」

どうして今、父や兄弟の事が関係すると言うのだろう…。

「………思い出して下さい。…私の記憶が無ければ、私さえ貴女の前に現れなければ…貴女はずっと幸せだったでしょう?貴女はもう一度、私の記憶を手放すのです。健康な体を手に入れて、また元の家族との暮らしに戻るのです」

「……そん…な…」

「さあ…。私にはもう…こんな話をしている時間も惜しいのです…」

男の唇が、尚も言い募る小夜の唇を塞いだ。

薄く開いた柔らかな唇を長い舌先が割って、小夜を絡め取る。

小夜の全てを奪う様に…けれどこれ以上なく優しく、たった一つの口付けで小夜の全てを甘く溶かす様に…。

「……最期の瞬間まで、ハジと一緒に居たい。ハジの命が尽きると言うのなら……その時は…お願い…私もハジと一緒に…連れて行って…」

 

二度ともう、離れたくはないの…

 

小夜は自分を押し倒す男の背中に腕を回し必死にしがみついた。

置いていかないで…。

小夜の強い気持ちが男に伝わっていない筈は無いのに…。

ハジは静かに目を細め、言い聞かせる様に小夜に告げた。

「駄目です」

断固として、男の意志が揺らぐ事は無かった。

しゃくり上げるように男の胸で泣いて、泣いて、零れた涙が髪を、枕を濡らした。

「泣かないで。…もう二度と、私達が離れる事はありませんよ。尽き掛けた命ではありますが…竜と人とではその尺も違います、小夜が人としての一生を健やかに過ごすには十分足りるでしょう…。全てを捧げて、私が貴女を護ります。例えもう二度と、言葉を交わす事は出来なくとも…」

優しい指先が、小夜の身体の線をなぞってゆく。

衣服を緩め、柔らかな肌を露わにする。

慈しむ様な口付けが、小夜の全身に降り注いだ。

男の命を受け入れて、健康な体と健やかな生活を手に入れたとしても、小夜は少しも嬉しいとは思わなかった。

けれど、男の腕に抱かれれば…昔と少しも変わらず小夜はハジに逆らう事は出来なかった。

男の手にすっぽりと収まってしまう形の良い乳房は敏感で、その手で弄られるだけで小夜の身体は蕩けてしまいそうだ。

「あ、…あぁ…ハジ…」

自分は最初から、ハジの掌の上の存在なのだ。

彼に救われた命なのだ…昔も今も…。

自分の意志など、あってない様なものだ。

男の掌の上で、彼の良い様に…。

そうだったはずだ。

最初から、自分の全ては男のもの。

 

それでも、これだけは…。

男の愛撫の前に翻弄されながら、小夜はたった一つだけ…男に逆らう事を決意する。

自分は男を受け止める。

彼の全てを受け入れて、そして…。

そして、例え彼の意のままに事が為されたとしても、決して自分は男の事を忘れはしない。

男の記憶を、この体に刻むのだ。

男の全てを…。

 

 

 

 

暗い窓の外で、雨が降り出した。
せわしない吐息以外には、しんと静まり返った寝室の窓ガラスにぽつぽつと雨の当たる音が聞こえ始める。それは次第に増えて、リズミカルに勢いを増してゆく。

 

ああ、これは涙だ。

雨は、男の涙なのだ。

ハジもまた、静かな表情で小夜を抱き締めていながら、それでも心の底では泣いている。

 

自分達は、ただ共に在りたいと願うだけなのに…。

たったそれだけの細やかな願いは、とうとう報われる事は無いのだ。

長い時を経て生まれ変わっても、ついに果たされる事は出来なかったのだ。

 

まだを叩く雨の気配。

これは、本物の涙雨。

ハジが…泣いているのだ。

 

肌触りの良い褥の上に横たわり、男の前であられもなく両足を開きながら、彼の与える快感にぼんやりと霞みつつある脳裏のほんの片隅で、小夜はそんな気配を察していた。

目尻から、一筋の涙が零れる。

 


ああ…駄目。

小夜は雑念を払うように小さく頭を打ち振るとぎゅっときつく目を閉じる。

 

男を自分の体に刻むのだ。

深く…。

深く…。

何があっても決して男を忘れない様に…。

 

深夜の雨はいつしか本降りの様相を呈していた。

 

 

照明を落とした薄闇の中に浮かび上がる白い足が揺れている。細く美しい女の脚線、その両足の秘めた狭間に顔を落とした男の舌先が、執拗に…そしてこれ以上ない程丁寧に柔らかな彼女の襞を舐め…時折唇を強く押し付けるようにして吸い上げる。

舌だけでは飽き足らず長い指先が触れて、溢れた甘い蜜を絡め取る。ゆっくりと小夜の花唇に指先を埋め、緩々と抜き差しを繰り返し、小夜の反応を確かめる様に舌を這わせる。

敏感な突起を焦らすように指先で摩られると、鋭い刺激にたまらず小夜の腰は浮き上がり、その度に彼女の体内から溢れる大量の愛液を男はさも美味そうに濡れた音を立てて啜る。
悪戯な舌先と指が齎す間断ない愛撫。
「っやぁ!!…はぁ…ん。もっ…駄目…」

小夜は脳裏が白く霞んでしまいそうな刺激にたまらず悲鳴を漏らす。

上り詰めたいと願う小夜の正直な体を、男は思うままに操っていて…満たされようとするその寸前ですっと愛撫の手を休めてしまう。

このままでは、おかしくなってしまいそうだ。
「ん…ハ…ジ…。駄目…そんな風に…しないで…」
決して嫌ではないのに、そんな風に焦らされれば、思わず制止せずにはいられない。
もどかしくも遣る瀬無い快感の波。

体の奥で燻る炎が内側からじりじりと小夜を焦がし、男を欲して荒れ狂っている。

一つになるという事は、そう言う事だ。

理屈も何もない。

これ以上ない程自然で尊い行為だ。

二人を隔てる皮膚を互いの熱で溶かして、体の奥にある互いの気を交わらせる。そうして自分達は一つの命になるのだ。

例え、男との間に命を授かる事は出来なくても、一つの命になると言う事は変わらないと、小夜は本能で感じる。

「………ハジ…。ハジ…」
まるで惜しむ様に時間を掛けて愛そうとする男の思惑とは裏腹に、これでは彼を受け入れる前に、小夜は気を失ってしまいそうだ。
けれど…、最後まで…彼の果てるその瞬間まで…、小夜は彼を抱き締めていたいのだ。

男の全てをこの体に刻んで、この体の奥のずっと深いところで自分達は…。
「…小夜?」
「……ハジ。…もう、…お願い…」
顔を上げた男に両腕を差し伸べて、引き寄せる。
漆黒の闇の中でさえ、仄かに光沢を浮かべ…緩やかに波打つ黒髪を掻き分けるようにして首筋に細い腕を絡め、その耳元に強請る。
「貴方を…私に頂戴…」
「小夜…」
男は深い息を吐くと、今までその狭間に顔を埋めていた滑らかな太股を撫でるように掌を滑らせ、軽々と両腕に抱え上げた。長身の男にそうされる事で、無防備な小夜の細い体は腰までが持ち上がってしまう。額に一つ口付けを落として、男は慎重に小夜の濡れた秘腔に自身を押し当てた。
「本当に…良いのですか?」
今更だと言うのに、そんな風に了解を得ようとする。
ぬるりとした感触に思わず腰を蠢かしながら、小夜は鳴いた。
「や…もう。早く…ハジ」
私を解放して…
「小夜…愛しています。…必ず、私が貴女を守ります…」
男…ハジは真摯にそう誓うと小夜に急かされるようにして…けれど慎重に、細心の注意を払いながらゆっくりと腰を押し進めた。
滑るようにして、先端が小夜に侵入を始める。

逞しいそれで柔らかく濡れた襞をかき分け、きついその場所に己を押し入れる。

先端が含まれると、その先…大きな体積を飲み込もうとする鋭い痛みに、小夜が思わず眉間をきつく寄せる。
苦しい…。
体を裂かれる様な痛み。圧し掛かってくる男の重み。

男の全てを、彼の命を受け止めるという事…。
想像以上に、それは困難を極める行為だった。
しかし漸く与えられた充足感に小夜は満たされた吐息を零した。
小夜にとって、ハジと一つになるという行為は必ず痛みを伴うものであるのに、それでも嫌にならないのは、彼の与える快感が大きくその痛みを上回っているからなのだろうか…。
それにも増してこれ以上ない程ハジを愛しているという自分の甘い感情を、そしてまた彼に愛されているのだという事実を全身で実感出来るからなのだろうか…。
どちらにしても、嫌どころか…時にハジを欲して眠れない夜さえあるのだから、元々自分は淫らな性分なのかも知れないと小夜は思う。

昔はそれをどこか疾しく感じてもいたけれど、小夜はもう自分に対して否定的な感情を抱く事は無かった。

自分にとっては最初から、ハジだけが全てなのだ。

ハジが、初めて抱いてくれたあの瞬間から…自分の生は意味のあるものになった。

ハジに巡り合う為に自分は生まれて来たのだ。

この孤独で美しい人を、癒す為だけに…。

自分は彼の為に存在するのだ。

ゆっくりと時間を掛けて、ハジは己の全てを小夜の中に収めた。そして小夜の内部をしっかりと味わうように、ハジは暫くの間じっとそうして小夜の体を抱き締める。
そうして抱き合っていると、小夜の内部はやがてその大きな異物の存在に慣れ、彼を包み込む鞘として柔軟に応え始める。そしてハジの腕の中で、こうして今彼と一つになっているのだと思うと、切なくて小夜の目尻からはぽろぽろと涙が零れるのだ。毎度と言っても良い程…情事の最中に涙を流す彼女に、ハジはその都度優しく問いかける。
「痛みますか?…それとも…悲しいのですか?」
薔薇色の頬に零れる涙を唇でそっと吸い優しく彼女の前髪を指先で整える。

悲しくない筈は無い。

これが最期だと言われて…悲しくない筈は無い。

けれど、悲しいと言葉にしてはいけない。

自分達は、本当に一つになるのだ。

二度と離れる事がない様に、しっかりと…結ばれるのだ。

表情の乏しい彼のそんな仕草に、小夜はふるふると首を振って答え、そのどちらでもないのだと健気にも微笑んでみせる。
「離さないで…。大好きよ、ハジ。…未来永劫、もう私は貴方だけのものなのだから」
強い力で抱き締めてくれるハジの腕、小夜は甘えるように…その背中にしがみ付く。
「あっ…ん。…あっ…あっ…ハジッ…」
それを合図のように、ハジは注意深く小夜の内部を擦り上げ始めた。苦労して収めたものを僅かに引き抜き、小夜の反応を確かめるようにして再び深く貫く。
「や…ん。ああ…」
絡みつく熱い襞の感触。
自らの欲求を満たす為というよりずっと優しくゆったりとしたリズムで、ハジは繰り返し小夜の濡れた内部を擦り上げる。
「ああ…あっ…んんっ…やっ…ん」
ハジの動きに合わせて、小夜の唇からは堪えても堪え切れず意味を成さない
喘ぎ声が零れてしまう。
まるで自分の声ではないような甘い女の嬌声に、小夜は耳を塞ぎたくなる。
もう、何も考えたくはない。

深い悲しみに、小夜の心は押し潰されてしまいそうだ。

 

 

 

 

「可哀そうな事をしました。…小夜」

静かな声でハジが告げた。

何度そうして交わったのか、体の感覚が無くなってしまう程、二人は繰り返し一つになった。

やがて男は、ぐったりとした小夜の体を優しくその胸に抱き締めた。

そして小夜は、強く男の胸にしがみ付いてその瞬間が近い事を悟った。

もう、涙は流れなかった。

これ以上涙を見せれば、男が辛くなるばかりだと、小夜もまた静かな気持ちで耐えていた。

「……可哀そう?」

「………結果的には、小夜にばかり辛い思いをさせてしまいました。何も教えないままに、そうする事も私には出来たと言うのに…」

どうしても、もう一度…貴方に名前を呼んでほしかったのだと…静かに目を細める。

「…そんな。……それが貴方の優しさだったとしても、私はそんな事望まない…。…ハジの全てを受け止めたいの…、…ハジを愛しているから…」

「……小夜」

男は静かに小夜の名前を呼んだ。

「……小夜の涙は私にとって辛いものでしかありません。…けれど今夜は、その涙が貴女の気持ちを私に教えてくれました…。確かに、自分は愛されているのだと…」

長い指が小夜の髪を梳き、応えるように小夜もまた男の裸の胸に頬擦りをした。

今更、彼は何を言っているのだろう…。

人智を超えた大きな力を秘めた人、しかし彼は小さな子供の様にただ愛される事だけを求めていた。

今更そんな事が、ほんの少しおかしい。

小さな私を助けてくれたハジ。

そして今世でも…その命を投げ出して、小夜の幸せを一番に考えてくれる。自分と言う存在は、そんな彼を少しでも癒す事が出来たのだろうか…。

「…ハジが、そんな事を言うなんて…。どれだけ私が…貴方の事を愛しているのか…今まで…知らなかったの?」

まるで昔に戻った様に、小夜はうふふと笑って、指先で甘えるように男の肌を辿った。

滑らかで張りのある皮膚の感触と、硬質で滑る様な鱗の感触が混じり合っていた。

それは彼の力が徐々に弱まり、いよいよその命が尽き掛けている事を意味していた。

竜である自分の本来の姿を、ずっと小夜に晒す事を躊躇っていたハジの事だ…きっと今の姿を見られる事もまた辛いに違いない。

男を思いやる様に、小夜はぎゅっと瞼を閉じた。

そうして目を閉じたまま、指先でその感触の違いを胸に深く刻みながら、小夜はうっとりと男に囁いた。

「愛してる。…愛してる…ハジ」

 

私の愛した男性は、とても大きな力を秘めた美しい竜。

強くて…けれどとても寂しくて。

無口で、不器用な…。

悲しくなる程優しい人。

私…ハジの事…忘れない。

絶対に…。

 

堪えていた涙が、一筋少女の頬を伝う。

 

…愛してる。

 

ハジは小夜の想いを汲む様に、優しくそっと口付けた。

 

それは正しく二人にとって、最期の口付けとなった。

 

 

□□□

 

 

翌朝、小夜が目覚めると、外はしとしとと降り注ぐ雨だった。黒い雲に覆われた空は暗く、雲は幾重にも渦を巻いていた。まるで何かを悲しんでいる様な涙雨。

 

ゆっくりと布団から起き上がるとずきんと頭の奥が痛んだ。体が鉛の様に重い。

寝冷えして夏風邪でも引いたのだろうか…。

自分の身体が、自分のものではない様な感覚、重いと感じるのにふわふわとした浮遊感が付きまとう。

 

締め切った窓辺によると、雨足が強くなった。

 

ああ…。

これは…、涙。

 

空が…泣いてる。

彼を……失って…。

 

何かがフラッシュバックする様に、一瞬脳裏に何かが閃いて消えた。

 

それは不思議な感覚だった。

訳も解らないまま、ぽろりと小夜の頬を涙が伝った。

悲しいとも、寂しいとも…説明のつかない涙が次々と溢れて止まらなかった。

何かが足りない…胸の奥でもう一人の自分が訴える。

自分は何かを得て…そして掛け替えのないものを失った。

けれど、それが何であるのか…もう小夜には取り戻す事が出来ないのだった。

 

その時、先程まで横になっていた布団のシーツの上で何かがきらりと光を放った。

訝しむ様に膝を付いて確かめる。

そこには、透明で虹色の光沢を纏った大きな鱗のようなものが一枚落ちていた。

薄暗い室内でも、光を放つようなその色合いはどこか神々しい程で、小夜はそれが何であるのかも解らないまま、愛おしげに掌にのせて唇に押し当てた。

その瞬間、まるで幻の様に鱗は小夜の掌で消滅した。

「…………何…?」

 

その時…

「小夜姉ちゃん、起きた?」

廊下から自分を呼ぶ声がする。

屈託のない澄んだ声音は弟のものだ。

その声を合図に、小夜はまるで魔法が解けるように顔を上げ、弾かれた様に背筋を伸ばすと瞬きを繰り返した。

トン…と優しく肩を叩かれた様な気がした。

たった今、自分は何をしていたのだろう…。

何か、大切なものを…拾った…?

けれど、小夜はたった今自分が手にしていたものが何なのかも思い出せない。そして数瞬の間に、何かを拾ったという記憶さえ闇に吸い込まれた。

 

「ねえ…リク?…なんだか私、変。…寝冷えしちゃったみたい…風邪かな…?」

 

襖を開けて廊下へ顔を出すと、小夜の頬の涙を見てリクが驚いたように目を丸くする。

「何?どうかした?…何で泣いてるの?…小夜姉ちゃん」

「…え?……な、泣いてる?」

指摘されて小夜は初めて涙に気付いたように手の甲で涙を拭った。

 

 

…小夜は、幸せになれますよ。…私が愛した貴女です。

 

…私の記憶さえ…無ければ……

 

 

不意に優しい声が蘇る。

けれど、その言葉の意味はしかと聞き取れない。

ただ、懐かしく…優しく染み入る様な響きだけが胸に木霊する。

 

「…リク、ねえ…今…何か言った?」

弟に問い掛けるものの、少年はきょとんと小夜を見上げる。

「…何も。……何か聞こえた?」

「ううん…。何でもない…。何でもないよ…」

「……変な小夜姉ちゃん…」

「………………………ぅん…」

虚ろに…何だか…お腹空いちゃった…と小さく零して、小夜は後ろ手にぱたんと襖を閉じた。

そうして…。

まるで男に背中を押される様にして、小夜は過去を手放した。

 

 

□□□

 

 

ついてない。

新学期早々居残りだなんて…。

小夜は暗く垂れ込めた空を見上げた。

しかもよりによって、雨まで降り出しそうな気配だ。

校門を出るまでは、体が溶けてしまいそうな程の陽射しだったと言うのに…。

 

今から、学校まで傘を取りに帰ろうか…。

家までの道程を濡れて帰るよりは、十分に間に合うかも知れない。

 

そう思った途端、ポツンと冷たい雫が小夜の額を濡らした。まるで余計な事をしなくても良いとでも言う様に、ばらばらと激しさを増してゆく。

「やだ…」

勢いそう口にしてみたものの、小夜は然程雨に濡れるのを苦にしてはいない。雨が降り出した途端に昼間の熱気が嘘の様に冷めて、むしろ心地良い位だった。

物心つく前から、小夜は不思議と雨の好きな子供だった。

 

近頃は、温暖化に伴って異常気象が続いている。

所謂ゲリラ豪雨と呼ばれる夕立で、こんな突然の雨も決して珍しくはない。けれど次第に激しくなる雨足にそうそう濡れている訳にもいかず、小夜は小走りに駆けだした。

その足元で、歓喜する様に水溜りが鳴った。

新学期とは言え、まだまだ真夏の日差しが厳しく茹だる様な暑さだった空気が優しく温度を下げてゆく。乾いていた緑が息を吹き返す様にその輝きを増した。

「生き返るみたい…」

小夜は空を見上げて、小さく呟いた。

 

 

小夜の父親は、転勤族だった。

小さい頃から長く一つの土地に住んだ事は無く転校を繰り返してきた。

仲の良い友人が出来た途端にまた転校と言う事も珍しくはない、時にはそれを寂しいと感じた事もあるけれど、小夜にとってはそれが常の事だった。

日本全国、北から南まで点々として全国に友達が出来たと思えば嫌な事ばかりではない。

友達を作る事も、学校へ行く事も、当たり前の生活が何より嬉しいのだ。

そんな風に考える自分は楽天的過ぎるのだろうか…。

 

そんな転勤族だった父がこの春、小夜の高校進学と自らの転職を機に、漸くマイホームを建てたのだった。

これからはもう転校する必要も無く、この街で暮らしてゆくのだと思うと却って気恥ずかしく感じる位だった。

 

小夜は通学路の先に小さな郵便局を見付けると、雨を避ける様に慌てて小さな軒先に駆け込んだ。

まだ職員は残っている様子だったけれど、営業時間は過ぎていて入り口のドアは閉まっていた。

けれど、雨宿りさせて貰うには十分だ。

小夜が屋根の下に入ると、それを待っていたかのように雨は音を立てて一層激しく降り始めた。

手にした学生鞄の中から手探りでタオルを取り出すと、髪から滴る水滴を拭き取る。

白い制服のブラウスが、濡れて薄らと肌が透ける。

小夜は右手でそっと左の肩を押さえた。

 

その時、遠くからバシャバシャと水を跳ねて近付いてくる足音があった。

見知らぬ男性が、やはり雨を避ける様に軒下に駆け込んできた。

 

「…………すみません」

男性は小夜に小さく謝罪して、なるべく離れる様に気を配りながら隣に並んだ。

 

背が高い。

それに、凄く綺麗な髪…。

ぽたぽたと滴を垂らす長い髪を、男は煩そうに耳に掛けた。

雨に濡れて肌に張り付いた白いシャツが薄らと透けている。

まるでドラマの一場面の様だ…それ位に男性は整っていた。年頃の少女の好奇心だ。

ついつい、興味を惹かれて…失礼にならない様、小夜は注意深くそっと隣の男性の様子を伺った。手には重そうな紙袋を下げていて、しきりに中身が濡れていないか気に掛けている。チラリと覗くと、どうやらそれは濡れては困る本や書類の様だ。

 

長い指が綺麗。

気を付けていたと言うのに、うっかり不躾に見詰めていた。その視線に気付いたのか、男性が顔を上げる。

ふいに目が合って、小夜は顔中を真っ赤にして俯いた。

 

「雨は、直に止みますよ」

唐突に男性は言った。

「……解るんですか?」

反射的に、小夜は答える。

「ええ。…なんとなく…ですが…。ちょっと、濡らしたくない資料なので。…すみません、雨が止むまで…」

彼はどうやら、自分が濡れる事よりもその『資料』が濡れる事を恐れて軒下に入った様子だった。狭い軒下に後から割り込んだ事を詫びている様子でもあった。

「…資料?」

「……民俗学の…。大学の研究室で…助手をしているんです」

「…そ、そうなんですか?」

小夜は民俗学がどういう学問かという事すら解っていない。年齢は幾つなのだろう?

 

二十代…だよね?

 

高校生になったばかりの小夜にとっては、大学の研究室など何をしているところなのかも漠然としか想像がつかない。

助手と言うのは、つまり教授のお手伝いをする人の事なのだろうか…。ぎこちなく応答すると、そう言えばこの近くに大学がある事を思い出した。

しかしそれ以上、二人の会話が弾む事は無い。

雨音が二人の間を満たす。

 

「あ…あの…」

「…すみません」

 

声を発したのは、同時だった。

つい、互いに苦笑が零れる。

 

小夜は彼から目が離せなかった。

すらりとした長身、均整の取れた長い手足。白い肌…。

涼やかに整った面、そして印象的な、青い瞳とうねる様な長い黒髪。

……綺麗な人。

つくづく男性にしておくのが勿体無いと感じる程。

 

会話は無い。

けれど、静かで満たされた時間だった。

 

不思議と、初めて会ったと言う気はしなかった。

それどころかそうしていると、小夜の心はゆったりと満たされてゆくのを感じるのだ。

今までに感じた事のない幸福感が小夜を満たし全身を包んでゆく。

初めて会った人なのに…。

 

「…不思議」

 

思わず零れた小夜の小さな呟きに、男性も不思議そうに…けれどまるで同じ気持ちを抱いているかのように…静かに微笑んだ。

その優しい笑みが、小夜の心に染み込んでゆく。

まるで雨が乾いた大地に染み込んでゆく様に、少女の心を潤してゆく。

 

ああ、これは命の雨だ…。

水も、命も、大きな流れの中で廻るものなのだ。

 

 

私…ハジの事…忘れない。

絶対に…。

 

 

空の上で、少女が笑っている。

 

二人が恋に墜ちるのに…時間も…言葉すら必要はない。
ただ静かな雨音だけが静かに辺りを包んでいた。

 

 

            《雨宿り・完》

 


20120802

ここまで読んで下さいました皆様、本当にどうもありがとうございました!!
一応その、予定していた終わりまで辿り着きました。
途中、かなり放置などしていたので、ここに辿り着くまで物凄く(何年も)かかってしまいました。
待っていて下さった皆様には本当に申し訳ありませんでした。心からお詫び申し上げます。

 

しかし自分の中では放置していた期間も、頭の片隅で常に雨宿りを意識していたと言うか、熟成させていた…と言うと聞こえは良くなってしまいますが、最初に考えたオチに落とす為には自分なりの時間が必要だったのだと思います。それだけ自分が未熟という事に他なりません。

 

話の中には、沢山の矛盾もあると思います。

でも自分的には「これはおとぎ話」だと思って書いていたので、勿論矛盾がある事は承知しながら、桃太郎だってあり得んだろう?と言う開き直りの元、書き進めていました。おとぎ話だから、矛盾はあってもめでたしめでたしが基本だと思っています。

そして矛盾がある分、このお話の中に出て来るハジと小夜の感情に重点をおいたつもりです。感情に重点をおき過ぎたので、途中書きながら自分が辛い…という事も多々あったりして(笑)中々書けなくて。それでも最後はまあ一応ハッピーエンドじゃないの?と思っていて、自分でもそのオチは解っているのに、辛い…というか…(苦笑)

やっと、人間同士として生まれてきた二人は、ぶっちゃけ年の差があるのでそれなりに紆余曲折もあると思いますが、幸せに結ばれてくれると思います。

大学の研究室の助手のハジと、高校一年生の小夜たん。

(多分年齢の差は十歳以上…でもあり得るよね…)

その後の二人を妄想するのも私は楽しいのですが、それを書くつもりは今の所ないので…それはまた読んで下さった皆様がそれぞれのお好みで自由に妄想して頂けたら幸いです

何でもアリだと思います(笑)

また、このお話を同人誌にしたいと言う思いもありまして、まだまだオンデマンド勉強中なので(それに表紙とか描きたいし)今すぐと言う訳にはいきませんが、宜しかったらまたその時はよろしくお願いいたします!

ではでは、本当にここまで読んで下さいましてありがとうございました!!

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