□13□

日の暮れかけた西の空を小夜はぼんやりと見詰めていた。
裏庭から続く森は鬱蒼として、もう夜の気配を漂わせ始めている。
しかし小夜はもう…以前の様に夜の森を怖がる事はない。この暗い森は、あの湖に続いている筈なのだ。
静かで美しい景色は、今も瞼の裏に焼きついていた。
ハジと暮らした穏やかで幸せな数年間。
今や、その記憶は確かに小夜の中に蘇っていた。

ただ一つ、自分がどの様にして彼を残しこの世を去ったのかという部分を残して…。

ハジがたった一人で、その先の気の遠くなる程長い時間を過ごしてきたのだと思うと、小夜は身を切られる様な…居た堪れない気持ちになる。
確かに今、こうして暮らしている家族は、例え血が繋がっていないのだとしても小夜にとっては大切な家族だ。彼らとの離別は心が千切れるほどに辛い。
それでも、今こうしてここに存在する小夜の命はハジのものだ。
彼の力で自分は今ここに生きて居られるのだと思えば、それは迷うような事ではない。

小夜は、思い余った様に和室の縁側からサンダルを引っ掛けると、木々の茂る庭先を抜け森の入口に立った。

 

行こう…。

 

ハジの元へ…。

 

遠い過去の記憶が蘇った以上、自分はもう彼なしには生きていかれないのだから…。
躊躇する事無く小夜は、森への一歩を踏み出した。
どこかで、ハジが見ていてくれるだろうか…。
彼はこんな自分を見たら、何と言うのだろう…。

全てを捨てるように…後ろを振り返る事すらなく、着のみ着のままで…男の元へ走ろうとする自分を…。

その時、背後でかさりと人の気配がした。

ハジかと思われた。

 

「…小夜」

 

しかし、小夜に掛けられた声は他の誰でもない父ジョージのものだった。
「どこへ行くんだ?こんな時間に…」
偶然にも庭先に佇む…そして今にもここを出て行こうとする愛娘の後ろ姿を見付け、ジョージは当然の様に小夜を咎めた。
年頃の娘を持つ父親としては当たり前の事だ。
しかし、小夜はまるでハジとの全てを咎められた様な気がして足が竦んだ。
森の奥はもう、男の黒髪の様な艶やかな漆黒が視界を遮っている。

「…お父さん…」

叱られる…咄嗟にそう思った。
こんな時間に森へ向かおうなんて、ハジとの過去を思い出す以前の自分なら考えもしなかった。
「…小夜。どこへ行くんだ?」

父親の呼びかけに…仕方なく、小夜は踏み止まった。
これでは別れがつらくなるばかりだ。
けれど振り切る様な真似も出来ずに小夜は振り返り、縁側に立つ父の元へ戻った。
しかしサンダルを脱ぐ事無く、庭先に佇んだまま、じっと父の顔を見上げた。
まだ四十代だと言うのに、近頃の父は頓に白髪が増えた様に思う。
自分がこの家から居なくなれば、父は心配して更に白髪を増やすのだろうか…。
それとも、娘がいた事など忘れてしまうだろうか…。
小夜の複雑な思いを余所に、ジョージは優しい表情を浮かべた。

父は小夜の事を、未だ実の娘だと思っている。
何と言おう。
何も言わない方が良いのだろうか…。
しかし、ジョージは小夜の中の迷いを見透かすように、穏やかな声で小夜に語り掛けた。

「まあ、座りなさい…」

言われるままに小夜が縁側に腰をかけると、父もまたその隣に並んだ。
夜は徐々にその境界を迫り、庭先まで忍び寄っていた。
父の背後から射す和室の光がやけに眩しく感じられる。

僅かに照らされているものの、庭のすぐその先は人ならざるものが支配する世界だった。
自分は今、その境目に立っている。そうして自分を育ててくれたこの世界から去ろうとしているのだ。

「ねえ、お父さん…。この森の向こう…山の上に、湖があるでしょう?」

そう尋ねたのは、ほんの気紛れだ。

もし父が湖の存在を知っていれば、自分がハジの元へ行ってもどこか家族と繋がって居られるような気がしていた。じっと父の返事を待つが、ジョージは不思議な表情で首をかしげるばかりだ。

小夜は、おかしな事でも聞いたのだろうかと急激に不安に襲われた。
父はどこか腑に落ちない様子のまま、小夜にそれを問い返した。

「小夜…どうしてお前がそんな事を知っているんだ?…何かで読んだのか?」
「…読んだ?」
「確かにこの社は水神様を祀るものだが…、この山の上に湖があったのはもう遠い昔の話だ。…いや今となっては、本当にあったのかどうかさえも解からない…。お前にその話をした事があっただろうか…。古い神社の縁起に書かれている位で…」
「……あったの。…あったのよ…本当に…」
まるでハジの存在を否定された様で、小夜は思わずそう口走っていた。
「……………。まるで実際に知っているみたいに言うのだね…。お前は…」

その時、秋の気配を増した冷たい風が二人の間を吹き抜けていった。

「………………おかしい…かな?…私…」
小夜の背筋をさぁっと冷たい何かが走る。
自分はこの家の娘ではない、それどころか一度は死に掛けた命の火を竜の化身であるハジが再び灯した存在なのだ。前世においても自分は人の領域を踏み越え、竜の花嫁となった。
常人ならば持ち得る筈のない記憶が蘇り、もう自分は父の知る以前の小夜ではない。

小夜の問いに、ジョージは深い溜息を吐いた。

「小夜、…お前は昔から…どこか風変わりな娘だったよ。…まだ物心がつくかつかないか…そんな小さな頃から、いつか大切な人が自分を迎えに来るからと…しきりに話していたっけなぁ。…私は小さな子供が、大人の言葉を聞いて…ませた他愛もない空想を話しているのだとばかり思っていた。…しかし…」

「…しかし…?」

「もしかしたら…案外にそれは真実なのかもしれないな…。先日、お前はハジが来た…と言っただろう?ハジというのが…お前の大切な相手なのかい?…お前は滅多とこの家を出る事がない。…どこで知り合ったのかは知らないが…そう言う事なのか?」

「…お父さん…」
「この間から、様子がおかしいと思っていたんだよ…」

ジョージは小夜の顔を見ないままに小夜にそう尋ね、まるで聞くのを恐れるかのように顔をそむけた。

父はどこまで解かっていて話しているのだろう…。真っ当な人間ならハジを普通の人間だと思うだろう。

ジョージは年頃に育った娘に、恋人が出来たと思い込んでいるのだろうか…。

それで人目を忍ぶ様に、こんな時間になって外へ行こうとしているのだと思っているのかも知れない。

小夜は安堵とも落胆とも呼べない思いで父の横顔を見詰めた。

じっと黙りこむ娘に、ジョージはやがて小夜の答えを待たずして、娘の幼い日々を懐かしむ様に昔話を始めた。

小夜は生まれながらにして、虚弱な体質だった。

それは十月十日を待たずして生まれた未熟児だったからかも知れない。何カ月も保育器の中を出られず、面会するには全身を消毒し白衣に身を包まなければならなかったのだと…。
保育器に開けられた小さな丸い穴からそっと手を差し伸べて、漸く触れる事の出来た娘の温もりに父も母も涙が止まらなかったのだと…。

しかし実際には、本当の彼らの娘はそこで命を落とし、代わりにハジの手によって小夜が授けられたのだ。

小夜はそんな遠い日の出来事を話す父に何も答える事が出来ないまま、腰かけた縁台の縁でぎゅっと両手を握り締めた。

…お父さん

喉まで出掛かった声は、発せられる事がないまま吐息が空しく空気を震わせただけだ。

「いつかお前もこの家を出て、嫁に行く日が来るだろう…。だが…嫁に出ようがなんだろうが、お前は一生俺の娘なんだ…。…未成年である今はまだ尚更…」

「ね…お父さん…」

小夜は勇気を振り絞る様にして、父の言葉を遮った。
内心の不安を押し殺す様に敢えて何事もない様な素振りで…。

「…お父さんが心配してるような事じゃないよ…。そう言う事じゃないの…。ハジは違うのよ…。…私達は…」

しかし、何と説明すればいいのだろう…。

口ごもる小夜にジョージはふと肩の力を抜いた。

「そんなにムキにならなくても、お前ももう十七歳だ。好きな男の一人や二人…出来てもおかしくはないさ…。もうこの話は止めよう…。俺は俺の娘を信じているよ、いつかきちんと紹介してくれるんだろう?…ただ、年頃の娘がこんな時間に外を出歩くのは感心しない。もううちへ入りなさい…」

柔らかな口調はいつもの優しい父と変わらない。しかし、小夜の説明をぴしゃりとはねつける強さを持って…ジョージは話を打ち切った。

促されるまま、小夜は仕方なくサンダルを脱いで庭を後にした。
けれど、小夜の頭の中はますますハジへの思いで溢れてゆくのだ。

ハジに会いたい。

今すぐに会って、彼を抱き締めたいのに…。

小夜は父に聞こえない様に、廊下の隅で小さく彼の名前を呼んだ。

「…ハジ」

会いたい…。
小夜が呼べば…彼に聞こえていない筈はないと言うのに…こんな時に限ってハジは現れず……。
小夜の震える声は頼りなく闇に吸い込まれて消えた。
暗闇に閉ざされた長い廊下の果てにじっと目を凝らすけれど、そのどこまでも深い暗闇が人の形を取る事はとうとうなかった。
「……ハジ?…来て…。聞こえないの?」

この間からずっと…小夜の心の奥底に淀んでいた不安が一気に噴出する。

彼の背中が硬質な鱗に覆われていた事も…

決して小夜を『迎えに来た』…とは言ってくれない事も…。

そしてその時になって、小夜は先程の父の言葉を思い出したのだ。

『この山の上に湖があったのはもう遠い昔の話だ。…いや今となっては、本当にあったのかどうかも解からない…』

それはどういう事…?

あの美しい湖がない?

あの湖畔の美しい景色は、確かに人の世のものではなかったのかもしれない。

しかし、確かに森の向こう、山の上に湖はあったと言うのに…。
村人は水神である竜を恐れ、恭しく崇め祀っていた。

湖は、確かに存在したと言うのに…。

それだけの長い時が流れた…と言う事なのだろうか…。

一つの湖が枯れて、失われるほど…?

…………そんな事があるの?

いや、時間の問題ではないのかもしれない。

けれど…。

あの湖は…ハジそのものだ。
あの湖の景色は、ハジの心を映し取ったものなのだ。

それなのに…その湖自体が今はもう存在しないと言うの…?

……ハジは…。

小夜はがくがくと震えだす体を、両腕できつく抱き締めた。

考えるのが怖い…。

 

 

 

ハジ…?

あなたは…?

ねえ、どうして返事してくれないの…?

「…ハジ…」

愛おしいその名前…。
祈る様な気持で、小夜はもう一度その名前を呼んだ。

「ハジ…。ハジ…!!」

小夜の微かな声は、やはり暗い闇に溶けた。

愛する男の返事は返らない。

今は、考えるのをやめよう…。

ジョージとのやりとりで疲れ果てた小夜は、一旦そう思い直したものの…心の中に引っかかる僅かな亀裂に全身の力を奪われる様にしてがくりとその場に膝をついた。

自分を抱く男の腕の感触。

力強い抱擁。

冷たい廊下の隅で、自分の体を両腕で抱える様にして…小夜はハジを思い出していた。

彼に抱かれたのは、ほんの数時間前。
今朝の事だと言うのに…。
小夜の体には確かに男の名残が残ると言うのに…。

強引な手管でいつも小夜を翻弄する、しかしそれ以上に彼の情は深く優しくて…いつも小夜を見守っていてくれたのに…。

遠い昔も…。

そして小夜がハジの記憶を取り戻せないままに過ごしたこの十七年の間も…。

ハジは変わらず、小夜の傍で小夜の事を守っていてくれた筈なのだ。

それなのに、こんなに会いたいと…一目彼に会ってこの気持ちを伝えたいと、この心の底に淀む不安を一掃したいと願う今に限って、どうしてハジはまるで聞こえないかのように小夜の前に現れてくれないのだろう…。

もしかしたら、自分がおかしいのだろうか…。
世間から離れ…家に閉じこもるあまり、おかしな妄想に取りつかれて…。

本当は、ハジと言う存在など最初から居ないのだろうか…。

小夜の心が作り出した実像の無い幻だと言うのか…。

「…ハジ。…お願い」

絞り出す様に、小夜が声を震わせる。

見る見る間に…その血の気の失せた白い頬に、幾筋もの涙が零れていた。


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