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「小夜…。じゃあ、俺行ってくるけど、今日は無理しないで寝てろよ…」
いつも父には反抗ばかりしているカイは、それでも小夜にはとても優しい兄だった。
高校の鞄を玄関先に置いて、スニーカーを履きながら…振り向きざまに見送る小夜を気遣った。
小夜は小夜で、どこか居心地の悪いまま、手持無沙汰に兄の支度を見守っている。
「うん、心配しないで。もう…大丈夫だから…」
「そうか?…なんか朝からお前フラフラしてないか?」
「…カイの気のせいだよ」
「…なら良いけど」
心配する割にはあっさりと、じゃな…と言い残し背を向ける。
遠ざかって行く背中に、小夜は一抹の寂しさを隠せない。
兄…だと思っていた。
家には寄り付かず、乱暴な事ばかりするカイだが、それでも本当は優しい事を小夜は…勿論父も弟も解かっている。小さい頃からいつも庇って貰っていた。案外に不器用な小夜を、カイはいつも気にかけてくれて…不満を漏らしながらも、外に出られない小夜の遊び相手をしてくれた。
庭先で転べば、真っ先に駆けつけて擦り剥いた傷を綺麗な水で洗い流し、絆創膏を貼ってくれた。
こんな時に思い出すのは、本当にささやかな思い出ばかりだけれど…。
それにしても、カイの言うとおり、本当に自分はふら付いて等いただろうか。
だとしたら、それは昨夜のハジのせいだ。
小夜は熱くなる頬を抑え、慌てて和室に戻ると、開け放した広縁にぺたんと座り込んだ。
朝の光…見慣れた庭先の風景に、硬くなり掛けた心が僅かに和む。

ここは私の生れた土地。
宮城ジョージの娘として暮らしてきた…と言うだけではなく…。
遠い昔にも、自分はこの土地で生まれ、暮らしてきたのだと…。
ただこうしているだけで、今の小夜にはそれが良く解かる。
時が移り、時代は変わり、人の暮らしも心もがらりとその趣を変えてしまっても、ここに吹く風の香りも空の色も変わらない。

小夜は一人、広縁の端に腰掛けざわざわと風が鳴らす梢を見上げた。

昨日と比べて目に見えて何が変わった訳でもないのに、ほんの少し、遠ざかった夏の気配。
季節とはこんなにも早くその色を変えるものだったろうか…。
いや、多分そうではない。
季節の変わりゆく速度が急激に増した訳ではなく、小夜自身が昨日とは違ってしまったからだ。
肌に感じる自然の気配に、今までとは比べようもないほど敏感になっているのかも知れない。
それでも秋にはまだまだ早い。
豊かな緑から射す太陽の眩しさにほんの少し目を細めて、小夜は庭先の木々から続く裏山の森を見詰めた。
確かに、この森だ。
村は既に名前も変え、その景色も住む人々も随分様変わりしたけれど、この森だけは何一つ変わっていないように感じられる。

ああ、そうだ。

夜の森は怖いと口を酸っぱくして小夜に教えたのも、前世の父であり、現在の父、宮城ジョージではない。
『森には神聖なものも、恐ろしいものも、この世の全てが混在していて、それは人がおいそれと近寄ってはならないものだ』と教えられた。
父にとっての『森』は恐ろしい場所だったのだ。
しかし小夜にとって、この森は恐ろしい場所ではない。
恐ろしいどころか、ハジとの静かな暮らしを守ってくれる優しい恵みの森だった。
村の外れから続く一本道、その森の奥にあの湖はひっそりと存在した筈だ。
しかしハジの棲むあの美しい湖は人を寄せ付けない。
まるでこの森自体が明らかな意志を持つ様に、誰彼構わずに村人を湖に通したりはしなかった。
湖への道は間違えようのない一本道である筈なのに、まるで人を選り分ける様にして、多くの者は湖の景色を見る前に、いつしか道に迷い、村へ戻ってきてしまう。山道を登っていた筈なのに、いつの間にか気が付くと村の外れに再び戻ってきてしまうのだ。
湖に辿りつけた者は、僅かだ。
そしてその湖の主である竜の姿を見た者は皆無と言っても良い。
それでも、村人は皆…この森の奥に美しい湖があり、そこには一頭の竜が棲む…と信じていた。
その竜は水を司り、静かに村を見守っている。
小夜は、ただ一人…竜に愛された娘だった。
村人は、竜に出会い、そしてその加護を受けた娘として、小夜を特別視した。
だからと言って、小夜は何も特別な娘ではなかった。
家族を一度に失い、生きる望みすら失っていた幼い少女の心にハジの言葉少なな優しさは深く沁み渡り、もう一度彼に会いたいと願うだけで、生きる前向きな気持ちを取り戻す事が出来た。
しかし、言い換えれば、そんな孤独な心だったからこそ、湖に招かれ、そしてハジに出会ったのかも知れない。
ハジがいたから、辛い孤独な日々を耐える事が出来た。
小夜にとっては、彼が何者であっても構わない。
人であろうが、竜であろうが、例え彼が魔の使いなのだとしても、小夜はハジを愛したのだろう。
何も欲しくはない。
ハジさえ居てくれればもう、他には何も要らない。
既に家族も無く、人身御供だろうが何だろうが、ハジの元へ行く事に躊躇いはなかった。
けれど、今は違う。
父も、兄も、弟もいる。
もし、自分がハジと共に行ってしまったら、家族は悲しみに暮れるだろうか。
それとも…小夜の存在自体を忘れてしまうのだろうか…。
彼らの事を思えば、いっそその方が良いのかも知れない。
この先ずっと二度と戻らない小夜の事を思い悲しみ続けるのだとしたら…、その帰りを待ちわび続けるのだとしたら…、いっそ全てを忘れてしまった方が良い。しかし、大切な家族に自分の存在を忘れられてしまう未来を想像すると、小夜の心は説明のつかない寂しさで満たされるのだ。
宮城家の子供は、カイとリクだけになる。
小さい頃からの思い出も、彼らは忘れてしまうのだ。
この家から出る事の少ない小夜の事を、覚えていてくれる相手も居ないだろう。
無意識に、小夜はぎゅっと膝を抱えると深い溜め息をついていた。


「…どうしたら、貴女を悲しませないで済むのか…。ずっと考えていました」
溜息をついた背後で静かな声が響いた。
彼が突然現れたとしても、小夜はもう驚かない。彼はそう言う事の出来る存在なのだし、きっと小夜には解からない様にずっとそばで見守っていてくれるのだ。
ハジは初めてこの家を訪れた時の様に長い黒髪を緩く一つにまとめていた。
額に落ち掛かる前髪の束がその白い面に影を落とす。
長い体を折る様に屈めて、いつの間にか小夜のすぐ斜め背後に膝を付いていた。
昔の着物姿とは違う、前屈みになった白いシャツの胸元が妙に眩しかった。
そうして覗き込まれると、ちょうど小夜と目線が合う。
小夜は昨夜の情事を思い出し、一瞬にして耳までを赤く染めていた。
「…ハジ」
「私の事を思い出せば、結果的に…家族を一度に失うと言う辛い経験をした貴女から、私は再び家族と言うものを奪ってしまう…」
淡々としたその声音は彼の秘めた苦悩を物語っているようで、小夜は振り向く様に体を捻り、大きく首を振った。
「ハジは、何も悪くない…」
そうでしょう?
と、跪いた男の前に身を乗り出す様にして間近に覗き込む。
優しく微笑んだ小夜の顔を、悲しげな青い瞳がまっすぐに映し出している。
目頭が熱くなる。鼻の奥がつんと沁みて、無意識に込み上げてくる涙を精一杯堪えると、自分にとっては目の前の貴方こそが全てなのだと伝えたくて、小夜はそっと唇を寄せた。
「…私、必ずハジの元に戻ってくるって約束したでしょう?」
「…小夜」
「少し時間がかかり過ぎちゃったね…私…」
あれから、一体どれだけの時間が過ぎたのだろう?
小夜は、過去の自分がハジの傍らでどれだけの時間を共に過ごせたのか覚えてはいない。
自分がどのような最期を迎えたのかも…。
しかし、一緒に居られる時間など最初からハジにとっては瞬きをする間の様に短い筈だ。
それに比して、流れた時間のどれ程長かった事か…。
その間、ずっと独りだったハジの事を思うと、どこか申し訳ないような気持にさえなる。
「ずっと寂しい思いをさせて…ごめんね。…ハジ」
「…それこそ、貴女が謝る必要など一つもありません…。小夜…」
長い腕がしなやかに伸びて小夜の体を抱き寄せた。
互いに縋る様に唇を求め合うと、ハジの口付けはそれだけで小夜の心を満たしてくれる。
家族の事を、思わない訳ではない。
それでも、こうしていれば…やはり自分の居場所はこの腕の中にしかないのだと思う。
それに…自分はこの家の本当の娘ではないのだ。
ちらりとテーブルの上に飾られた写真に視線を投げる。
しかしそれには触れないままに、小夜は求める口付の深さを増した。
ハジも、思い掛けないそんな小夜の求愛に僅かに戸惑っているようだったが、それでも構わなかった。
この腕の中で、この腕に甘えて、全ての憂いを流してしまいたい。
欲しい…と言う代わりに、小夜は甘く吐息を吐いて鳴いた。
鼻を鳴らして、その胸に縋る。
「…小夜?」
「……駄目?」
「いえ、…そう言う訳ではありません。しかし、昨夜の今朝で?」
体が壊れてしまいますよ…と、ハジが耳元で笑う。
本当にそうかも知れない…小夜は頭の片隅でぼんやりと思う。けれど、それならばいっそ壊れてしまえば良い。
「…ハジ。…壊して…」
それとも、こんな淫らな自分をハジは呆れ、嫌うだろうか…。
「小夜…」
「…私を、壊して…」
小夜を抱き締める腕の力が一層強くなる。
「…小夜」
形の良い眉を苦しげに歪めて、ハジが答える。
「ハジ…お願い…」
ゆっくりと唇を塞がれる。
その腕に抱き込まれ、くるりと態勢を入れ替えさせられると、薄いブラウスの布地を通して広縁の板の間の感触が背中に伝わる。
「小夜、貴女の心を占める悲しみが、抱き締める事で少しでも癒されると言うのなら…。…貴女が…本当にそう望むと言うのならば…どうして私にそれを拒めるでしょう?」
「ハジ…」
ハジの大きな掌が、やんわりと髪を撫でた。昨夜は、あんなにも熱く…強引に小夜を求めた彼が、今は酷く穏やかで…その涼やかな青い瞳の前で、小夜はどうする事も出来ずに視線をそらした。
しかし、ハジは視線をそらしたままの小夜の頬に掌を滑らせゆっくりとこちらを向かせると、黙ったまま小夜の答えを促している。
彼の瞳は問い掛ける。
本当に貴女が欲しているのは、そんなものではないのでしょう?と。
「ハジ…」
「…私がこうして姿を現した事で、貴女は苦しんでいる。過去の記憶と、今の家族との間で…気持ちが揺れている。しかし、そうなる事は予想していました…私との記憶が蘇った事で、貴女は再び大切な家族を失ったのですから」
「…違うのっ!…ハジ」
「そんな泣きそうな瞳をして…男を誘ってはいけません」
小夜は咄嗟に目元を手の甲で拭った。涙など零れてはいない。
けれど…。
「犯した罪の重さに、私も…耐えられなくなる…。貴女の涙は私を脆くするのです…」
…罪?
ハジの言葉に僅かな違和感を覚えながらも、小夜は懸命に暑くなる目頭を耐えた。
「私…泣いてなんかいないから…」
それとも、ハジの瞳の前には、全てが曝け出されてしまうのか…。
「…それに、私には最初から…あなたしか…」
咄嗟に唇から零れた言葉に嘘はない。
それはハジにだって解かる筈だ。
「…例えそうでも、今は昔とは違うのです。…さあ、小夜…」
無理をしないで…そう囁いて、ハジはもう一度そっと小夜の唇を奪った。
そうして名残惜しそうに小夜の髪を指で梳くと、腕の中から小夜の体を開放する。
穏やかで静かな瞳が、小夜を映している。
この瞳で見詰められると、小夜にはもうどうする事も出来なかった。仕方なく彼の隣でゆっくりと体を起こして、小夜は尋ねた。
そうだ…。
訊き洩らしてなどいない。
彼は今、罪の重さと言ったのだ。
それは…どういう事?
訊いてはいけない事?
「罪って…何なの?…ハジは何も悪い事なんかしていないでしょう?」
「…………小夜」
全部話して…と、小夜は無言のままハジに訴える。
膝をついた彼の胸に詰め寄る様に縋って、覗き込む。
「…何から話せば、貴女を傷付けずに済むのか…。私もまた深い迷いの中にあるのです…いっそこうして再び貴女の前に現れる事などなく、ただ遠くから貴女の笑顔を見守る事が出来れば良いとさえ、思っていました…」
「…ハジ?何を言っているの?」
迎えに来てくれたのではないの?
「…それでも、もう一度だけ。こうして貴女に触れたかった。この円らな瞳に見詰められ、この唇に私の名前を呼んで欲しかったのです…」
「…ハジ?…ハジ?……もう、一度だけって?」
それはどういう事?一度だけ?
小夜は急激な不安に駆られて、彼の白いシャツの腕をきつく握り締めた。
反らす事を許さない性急さでハジを問い詰める。
「…愛していますよ。…私の小夜…」
ハジはそう囁くと優しく微笑んで、そっと目を伏せた。
その白い瞼の透明さに、小夜の不安は一層かき立てられるのだ。
「ハジ?」
嫌な予感とはこういうものを言うのか…。
小夜はもう、彼の名前を呼ぶ声の震えを隠す事さえ出来なかった。



               
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