週末の夜…深夜。
ハジは、幾分疲れた様子で玄関のドアノブに手を掛けた。
小夜は、まだ起きているだろうか…。
 
The only flower of my life    三木邦彦
 
小夜と生活する様になって、ハジの生活はそれ以前とはまるで一変していた。
単に寝る為だけの場所と割り切っていた自宅がハジにとって掛け替えのない癒しの場所となり、何より待っていてくれる人がいるお蔭で帰宅も早まり、自宅で過ごす時間は比べようもなく長くなった。
男は待っていてくれる彼女に心配を掛けないよう…そして早く小夜に会いたいが為、いつも可能な限り早く帰宅出来るよう仕事の効率化に努めてはいるのだが、しかしやはりそれにも限界はあり、こうして自宅玄関前に辿り着く頃には日付が変わる…と言う事も決して珍しくはない。 
早い時間ならば、小夜は必ずと言っていい程…パタパタと軽いスリッパの足音を立てて玄関先まで迎えに出てくれる。が、勿論今夜は静まり返っている。仕事で遅くなる時は、自分を待っている様な事はせず先に休む様にと十分に言い聞かせてあるのだ。
ハジは玄関先にきちんと揃えられた小夜のブーツに視線を止めると、ほんのりと表情を緩めた。そうしてなるべく音を立てないように気遣いながら、彼が帰宅した時の為に玄関マットの上に履きやすい様に向きを整えて置かれたスリッパに足を通す。
もう少し季節が先に進んで肌寒くなったら、この夏用のスリッパも冬用のものに取り換えなければ…。小夜が早々とそんな心配をしていた事を思い出した。
この先もずっと彼女と一緒に暮らしていけるのだ…改めてそんな事を実感する。
些細な事だけれど、そんな日常に男は堪らなく幸せを感じた。
小夜に出会うまでは、自分が寂しいのだ…なんて気付いてすらいなかったけれど…。
 
小夜はもうベッドで休んでいる筈だった。
しかし、鉤の手に曲がったフローリングの廊下の先で、リビングに明かりがともっていた。
ハジはシルバーのアタッシュケースを手に、やや意表を突かれた表情でリビングに向かった。
テレビは点いていない。
ただ煌々と照らす照明の下、ソファーの上で小夜が丸くなって眠っていた。
湯上りの髪もまだ湿っている。
パジャマ一枚では少し肌寒いのか、まるで猫のように丸まってクッションを抱き締めている。
その愛らしい様に思わず目を細め、傍らに畳んだままのハーフケットをそっと着せ掛けた。
肘掛けに腰を預け、その寝顔を覗き込む。
漸く二十歳になった恋人は、それでも眠っているとまだまだほんの子供の様なあどけない表情をしていた。
起こしてしまうのは勿体ない様な…。
しかしこのままでは風邪を引いてしまう。
ハジは、遠慮がちに優しく細い肩を揺らして声を掛けた。
「……小夜。…風邪を引きますよ」
「……………ん。………」
僅かに反応するものの、すっかり本気で寝入っていた様子ですぐには起きそうもない。
むにゃむにゃと唇を尖らせて、また安らかな寝息を立て始めた。
仕方なくこのまま抱き上げてベッドへ連れて行こうかと思案していると、テーブルの下に何やら雑誌が落ちている。
転寝した小夜の膝から滑り落ちたのか、ページがぐにゃりと曲がって折れていた。
いつもの小夜のファッション誌かと気にも留めずに手を伸ばすと、それは未だかつてこの家に存在した事のない未知なる雑誌だった。
 
……結婚情報誌
 
表紙には全面、真っ青な空の下で寄り添うカップルの写真。
真っ白なウェディングドレスとタキシード。
大きく踊る『ウェディングで人気のホテルBest20』の文字。
 
何の心の準備もなく目に飛び込んできた表紙に、思わず呼吸も忘れそうな衝撃を覚えた。
ぎこちなく体を硬直させて、すやすやと眠る小夜の寝顔に視線を移す。
本当はもっと大切に始めなければならなかった二人の生活は、もう既に二年の月日を積み重ねていて…、彼女がまだ学生であるという事を差し引いても、男としてはきちんとケジメを付けるべく……本当は誰にも小夜を渡したくないという独占欲も絡んでいるのだけれど…贈ったプロポーズの言葉に、先日やっと小夜が承諾の返事をくれたばかりなのだ。
学生と言う立場や、就職と言う大切な問題の前に彼女が返事に惑う事は容易に想像出来たとは言え…何か月も待たされて、その間…平静を装ってはいたものの、もし断られた時の事を考えると生きた心地もしなかった。
けれど今、ハジは心の底から幸せを実感する。
ページを捲れば、知っている様で知らなかった結婚の裏事情。
まずは表紙にもあった通り、ウェディングで人気のホテル特集。
様々ある結婚式場の中でも、豪華さを売りにするホテルと言うだけあってゴージャスで華やかなバンケットホールの写真や自慢のロケーションの写真が並んでいた。それぞれのウェディングフェアの情報や、プランの紹介などなど。
それから、失敗のないドレス選びだの、ドレスのデザインにあったブーケだの、花嫁の基礎知識だの、様々な結婚情報が満載だった。
流石に男性であるハジがそんな細かい事まで知る由もない。
当然、これから一つずつ調べて小夜と共に勉強してゆくつもりではあったけれど…。
「………………」
しかし、男と女とではその捉え方は天と地ほどにも違う。
ソファーの上で丸くなる少女の寝顔をまじまじと見詰めて、女性にとってはそれが一世一代の晴れの舞台である事を再認識するのだ。
小夜もまた、多分きっと真っ白なウェディングドレスや綺麗なブーケに憧れているのだろう。
いつの間にこんな雑誌を買って来ていたのか…ハジは気付いてもいなかったけれど、ウェディングドレスやブーケを扱ったページは…何度も読み返した様子でしっかりと折り目が付いていた。
それならそれで、一緒に見ようと言ってくれれば良いのに…。
こんな風にハジが遅く帰る一人の時を狙ってこっそり一人で読まなくても…。
そんな水臭さが、また小夜の恥ずかしがりで照れ屋な性格を物語っている。下手をすれば、披露宴なんて必要ないと言い出しはしないかと危惧する程に、彼女は慎ましい。
確かにシンプルに考えれば…結婚とは…ただ婚姻届にサインをして印鑑を押して、区役所に提出すればあっけなく完了する。
それだけで二人は本当の家族になれるのだ。
結婚式も披露宴も書類の上では何の必要もない。
しかし…。
結婚とはそれだけのものではない。
少なくとも、自分達にとっては…。
先に二人の生活を始めてしまった分、彼女にとっても彼女の家族にとっても、結婚式と披露宴は大切なケジメだろう。
きちんと順を追って、小夜の希望を叶えてやりたい。
どんな式場で、どんなドレスを着て…小夜ならきっと和装も似合う筈だ…どんな式を挙げて、どんな披露宴を開くのか…。
小夜が何を希望するのか解らなかったけれど、そういう形の親孝行と言うものもある筈だ。
自分には既に親と言うものすら存在しなかったけれど…。それでも二人の関係を温かく見守ってくれている彼女の家族には、納得のゆく形で結婚を修復して欲しい。
自分にも…家族と言うものが出来るのだ。
 
男は自分の胸の奥に小夜が灯してくれた、ほんのりと温かなものを大切にしたかった。
無味乾燥としていた自分の人生の中で唯一花開いた柔らかな蕾の様に…小夜は自分にとって何よりも大切で、何よりも護りたい存在なのだった。
 
ハジは起こしてしまわないよう注意を払いながら、小夜の体をハーフケットごとその腕にそっと抱き上げた。
無意識なのだろうが…ぎゅっと胸にしがみ付いてくる温もりについつい表情も緩む。
小夜の自分に寄せてくれる見返りを求めない深い愛情と信頼が、男に自分もまた必要とされる存在であるのだと教えてくれる。
唯一小夜だけが、教えてくれたのだ。
 
男はそっと少女の体をベッドに下ろし暖かな羽根の布団を掛けて整えると、小夜は僅かに身じろいだけれど目覚める様子もなく再び安らかな寝息を立て始めた。
一旦リビングに戻り、件の雑誌を小夜の枕元のサイドテーブルに置く。
ネクタイを緩め、小夜の前髪を整えるとその丸い額にそっと唇を落とし、男は寝室を後にした。
明日には、一緒に見ようと誘ってくれるだろうか…。
きっとハジに見付からないよう懸命に隠していたのだろう…枕元に置かれた雑誌を目にした彼女が、一体何と言って話を切り出してくれるのか…それが少し楽しみな男なのだった。
                           《了》

The only flower of my life 2

 一つの布団に包まっていると、パジャマの生地越しに添わせた肌からお互いの体温で溶けあってどこからどこまでが自分で、どこからどこまでが彼なのか、寝惚けた頭では解らなくなってしまいそうだ。

居心地が良くて、ずっとこうして居たくて、小夜はカーテンの隙間から漏れる朝の気配を見なかった事にしてもう一度男の腕にしがみ付いた。

休日の朝。

ハジもよく眠っていた。

ハジの仕事は時間通りに終われる事は珍しく、残業はほぼ日常化していて…幾らハジがタフで小夜の前では疲れた顔を覗かせないからと言って、やはりこういう寝顔を目の当たりにすると彼が本当はとても疲れているのだと小夜は実感する。

ハジの深い寝息を肌で感じながら、小夜はぼんやりと思った。

もし彼と結婚したら…。

いや、『もし…』ではない。

具体的な事は何一つ決まってはいないとは言え、自分ははっきりと彼に『お嫁さんにして!』とプロポーズの返事をしたのだから、それは『もし』と言う仮定でも、『いつか』と言う漠然としたものでもない。

生活自体は既にこうして一緒に暮らしているのだから、何が変わると言う訳ではないのかも知れないけれど、『結婚』と言う重い言葉の前に、小夜は改めて背筋が伸びる思いがした。

自分は、彼と結婚して、彼の奥さんになって、本当に対等に彼を支えていく事が出来るのだろうか…。毎日仕事から疲れて帰って来る彼を、癒してあげる事が出来るのだろうか…。

以前より多少はマシになったかもしれないけれど、それでも小夜はとても家事が得意とは言えない。その上、大学を卒業して就職すれば自分だって毎日仕事に行かなくてはいけないのだ。世間ではよく仕事と家庭の両立…なんて言葉を耳にするけれど…新入社員となる自分にそれが務まるだろうか…。

…務まるかどうか…と言う以前に、この就職氷河期に自分は就職出来るのだろうか…。

そもそも、自分がどんな職種に就きたいか…という事さえ…あまりにも漠然としている。

小夜の友人達は口を揃えて、『永久就職先が決まっているのだから、いざとなれば専業主婦になれば良い』と言うけれど。

ハジと対等に働くのは無理だとしても、自分だってきちんと就職して社会と言うものを経験しなければ…小夜は焦るような気持ちでそう思っている。

しかし実際には具体的な事など何一つ考えてはいなかった。

いかに今までの自分がのんびりしているのかという事を、ここ数か月の間にしっかり思い知らされたような気がした。

 

こつん。

 

ぎゅっと目を閉じて考え込む小夜の額を、不意につん…と指先が突いた。

「朝から、何かお悩みですか?小夜……」

随分難しい顔をしていますね…と、眠っているとばかり思っていた恋人が間近で小夜を覗き込んでいる。

「ぇ……?…な、悩み…?」

「何か問題でも?」

起き抜けのハジの青い瞳は、優しく潤んでいた。

伸ばされた手が、労わる様に前髪を整えてくれる。

いつも全身で、全力で、自分を護り労わってくれるハジを前に、とても就職と結婚の両立に自信が無いのだ…両立どころか就職さえ怪しい…なんて口に出来る筈もなく…小夜はゴクンと言葉を飲み込んだ。

大体ハジは、もし小夜の就職が上手くいかなくても…それ程問題ではないと思っているのではないか…。仮に、きっと小夜が専業主婦になりたいと言えば、自由にそうさせてくれる。

彼は自分を甘やかす事を何とも思っていない。

今でも、ハジはどれ程疲れていても小夜がキッチンに立てば、必ず隣で手伝ってくれるし、気遣ってくれる。勿論仕事を疎かにする事は出来ないけれど、それでも一番に小夜との時間を大切にしようとしてくれているのが解る。

そう言う気持ちや、心遣いが嬉しいのだ。

小夜は唇を尖らせた。

こんな事で、本当にハジの奥さんが務まるのだろうか…。

「問題なんて…。……朝ごはん、パンにしようかご飯にしようか…迷ってるくらい…」

思いつきでそう答えて、小夜は誤魔化す様に笑って見せた。

「…お腹が空きましたか?」

「……ぅん。少し……」

そう言えば、本当にお腹が空いている。食事の話をした途端に、自分が空腹である事に気付くなんてどれだけ単純なのだろう…呆れずにはいられなかったけれど、時計を見ると確かに平日ならばとっくに朝食を済ませている時間だった。

「……少し待って貰えるなら、すぐに支度しますよ。…どちらが良いですか?」

ハジはすぐにでもベッドを抜け出して行ってしまいそうな素振りで、そんな所にも彼のマメな性格が表れている。

「……ねえ、それは私の役目でしょ?」

食事の支度は、奥さんの役目だ。先程の想いもあって小夜は慌てて言い募った。

「決まっていませんよ、そんな役目は。………それとも間を取って、厚焼きのホットケーキにしましょうか?」

「………それ全然間を取ってないよ?」

ご飯とパンの中間がホットケーキだなんて…。

「…そう?」

ハジは聞く耳を持たないと言った様子で、楽しそうに朝食のメニューを組み立てている。

そんな楽しそうなハジの姿をきっと会社の誰も見た事は無いだろう。

世界中のどこを探したって、こんなに素敵で、優しい男の人なんていない。

優しいだけではなくて、本当にマメで気を遣ってくれるのだ。

小夜は甘えるように、ギュッと男の胸にしがみ付いた。

「…ハジは本当にお料理が好きね…」

昔に比べたら、今はキッチンに立つ男の人も増えてきているのだろうけど…。

勿論、料理に限らず家事全般において、小夜よりも勝っている。

「ええ。…いっそ小夜が就職したら、専業主婦にして貰いましょうか?」

「……………………っ」

軽い冗談のつもりでそう口にした様子のハジに、小夜は思わずぎゅっと唇を噛んだ。

しがみ付いた指先に力が籠る。

「………小夜?」

「………………」

「……どうかしましたか?…小夜?」

「…………………。…あ…私…。就職出来ないかも知れないよ…。それに専業主婦なんて…ハジみたいに家事得意じゃないし…」

悩んでいないふりをして、軽く笑って見せる。

「……そんな貴女が好きなのです…」

即答だった。

「………ハジ!」

どうしてこう…彼は私を甘やかすのだろう…。

これでは彼の胸からまともに顔を上げられない…。

「……私は…別に今の会社にどうしても入りたかった訳ではないのです。チェロを…音楽の道を止めたら…たまたま縁があって…、気が付いたら今がある…と言う程度の事で…」

「……縁?」

「………アルバイトにスカウトされたので…。そのまま…」

「……ス…スカウト?」

アルバイトにスカウトされるなんて話…小夜は初めて聞く話だ。

思わず身を乗り出す。

「アルバイトにスカウトなんてあるの?」

「それは良く知りませんが…。それまでずっとチェロに費やしていた時間が暇になったので、別のアルバイトをしていたら…そこで今の会社の社長に出逢って…」

「うん…」

「……こんな店で働くより、うちの会社で働かないか…と」

「………………」

以前、彼は学生の頃から今の会社でアルバイトをしていた…と言う話を聞いた事はあったけれど、その詳しい経緯等考えてみた事も無かった。

「……小夜?」

「別のアルバイトって…?」

「……想像に任せます。…小夜………そう言う事ではなくて…、私が言いたいのは…就職に限りませんが…何事も慌てて無理にどうにかしようと思わなくても、小夜にふさわしい職場は必ず見付かりますよ…」

想像に任せるだなんて…。

普段、小夜の質問にそんな曖昧な言葉で応える事の少ないハジが、珍しくて興味を引いたけれど、今はそれよりも…彼が自分の気持ちに気付いている事に驚かずにはいられなかった。

「………ハジ」

「………貴女が就職したいというのなら、反対するつもりはありませんし、出来る限りのフォローをしたいと思います。社会に出れば誰でもそれなりに色々あると思いますが、私は貴女にとって安らげる居場所を作りたいと思っていますし、結婚したからと言って家事の全てを貴女に押し付けるつもりはありません。小夜はもう、一人ではないのですよ」

隣に私がいる事を忘れないで下さいね…そう付け足して、ハジは少しだけ恥ずかしそうに瞳を細めた。

「………ありがとう…。ハジ」

本当はもっと言いたい言葉がたくさんある筈なのに、小夜が声に出来たのはたったそれだけだった。

「……それで、……朝食はご飯にしますか?…それともパン?」

小夜を残してベッドを出て行こうとするハジの後を追う様に、勢いよく上半身を起こす。

「………私、一緒に手伝うよ…」

「……ありがとうございます」

考えてみれば、二人で食べる朝食を作るというのに、手伝うからと言って『ありがとうございます』は可笑しい様な気がしたけれど、彼のそういう律儀なところもまた小夜は愛しくて堪らなかった。

いつの間にかすっきりと目覚めていた小夜は先程が嘘の様に軽い身のこなしでベッドから足をおろし、スリッパを履きながら、ふと枕元も雑誌の存在に気付いた。

プロポーズにきちんと答えてから、本当はすぐに買ってしまった結婚情報誌。

気恥ずかしくて、気が早いと言われないだろうか…と気が気ではなくて。

とてもハジには見せられないまま隠していたというのに………。

そう言えば昨夜、リビングで雑誌を見ながら…その後の記憶がない。

………ベッドにいつ移動したのかも…。

「……ハジ、これ…?」

恐る恐る…既に着替え始めているハジの背中に声を掛ける。

小夜の手元の雑誌を認めると、男はああ…と納得した顔で微笑んだ。

「…………食事がすんだら、一緒に見ても宜しいでしょうか?」

「…………あ、うん。……も、勿論」

一緒に見てくれるの?

…気が早いって、呆れたりしない?

恐る恐る覗き込む様にハジの反応を伺う少女に、ハジは『勿論ですよ…』とこれ以上ない程幸せそうな笑みを零すのだった。

 

                 《落ちないケド…了》

20120515

大分前のブログから(アバウト…)移動しました。忘れていたんです…すみません!!

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