足下から長い影を敷いて、真っ赤な南国の夕陽が水平線の彼方に落ちかかっていた。
どこか異次元に迷い込んでしまったかの様に、世界は何もかもが赤く染まって…やがて闇に深く沈むだろう。
少女は浪打際ぎりぎりの砂の上で、膝を抱える様にしてしゃがみ込んでいる。
出逢ってから、今まで…どの時代にあっても…男はその小さな背中を、いつも見守る事しか出来なかった。
海からの風が短い髪を揺らす度、ちらりと見え隠れする白くすっきりとした頤の線。
細く…今にも折れてしまいそうで、それでいて…しなやかな強さを秘めた彼女の背中。
けれど、その心は壊れものだ。
 
 
押し殺しても…
どれほど厳しく自分を戒めようとも…
男の中で…少女に対する深い愛情は枯れる事が無く…体と心の奥深くに埋め込まれた茨の棘の様に絶えず痛み…彼を苦しめた。最早その痛みは体の一部の様だ。
 
 
ただじっと…その背中を見守る事だけが唯一男に許された愛の証であり…その存在意義なのだ。
 
 
 
泡沫    三木邦彦
 
 
 
寄せては返す波が耳に心地よい響きを齎す。
付いて来ないで…以前の彼女ならばきっとこう言っただろう。
敵を切った後の彼女はいつも自分自身を罪の意識で雁字搦めにして、酷くナーバスなのだった。
けれど、戸惑いながらも男の存在を拒む事のない柔らかな瞳の表情はまるで以前の彼女からは想像も出来ない程弱々しいもので…『音無小夜』と言う少女の存在がまるで過去の『サヤ』とは別人であるかのような錯覚を生んだ。記憶が無いと言う事は、これ程までにその存在を危うくさせるものなのか…。
あの夜の教室で…確かに彼女の体内に目覚めの血を注ぎ込んだ。
サヤは記憶を取り戻し、本当の意味で目覚める筈だった。
しかし…それがベトナムでの暴走に起因しているのかは定かではなくとも、彼女は常とは違った。
目覚めの血を得て尚、小夜の記憶は曖昧で…その体は確かに『サヤ』のものであると言うのに…彼女に宿った魂はまるで無垢な赤ん坊の様で…。
戦いを強いる度、男の胸はひび割れてしまいそうな程、痛んだ。
男はその華奢な後ろ姿をじっと見詰めながら、思う。
 
 
自分は、弱くなってしまったのだろうか…。
あの…ベトナム以来…。
 
 
どくん…と異形の右腕が震えた。
 
 
 
辺りが闇に沈む。
その日最後の夕陽の名残が僅かに漂っていた。
しかし、辺りに建物一つないこの海辺はすぐに漆黒に包まれる。
少女を呼び戻そうか…一瞬惑うその間に…まるで男の気配を読んだかのように、少女が立ちあがった。
紺色の襞スカートの裾を揺らしてくるりと振り返る。
 
「…ハジ」
少女の声には、まだ微かに男を名前でそう呼ぶことへの戸惑いが感じられた。
「……………はい」
少し遅れて返事をするのは、男もまた惑っている証拠だ。
自らの半身とも言うべき…主…サヤは…、音無小夜として……まるで、別の人格の様に…男の前で恥じらいを浮かべる。
今のサヤは、過去の…サヤではない…。
けれど、これ程までに…強くハジを惹きつけるのは…以前と変わらず、いや…以前にも増して…。
 
少女は、少しばつが悪そうに…はにかんだ。
「…ずっと、傍に居てくれて…ありがとう。……私…」
 
 
ああ、もう…これ以上…何も…言わないで…。
 
 
愛しい人…。
 
 
男は氷の様な表情をピクリとも動かす事無く、少女の足元に跪いた。
「戻りましょう…小夜。…皆が…心配しています…」
 
「……ぅ…ん」
 
あの美しい黒い髪は見る影も無く、風に揺れる短髪が彼女の細い項を露わにする。
 
 
……………愛しています。初めて出会った少年の頃から…サヤ…。
 
 
決して口には出せない…その密かな熱い想い…。
 
 
小夜は素直にハジに従うと、闇に沈んだ暗い海を背に元来た砂の上を歩きだした。
不安定な砂の上を歩くには、革靴はどこか不釣り合いだ。
 
そう危惧した途端…
 
柔らかな砂に足を取られ、細い体が崩れそうになる。
すかさず、ハジは後ろから手を差し伸べて、その体を支えた。
戸惑いを含んで見上げた瞳が、優しく潤んでいた。
 
言葉はない。
けれど、そこには…確かに何かが存在する。
 
再び、背を向けた小夜からそっと手を離し、ハジは細く長い吐息を吐いた。
 
 
願わくは…。
願わくは……。
 
嘘の様に穏やかなこの時間が、永遠に続けば良い。
その円らな瞳が、苦しみや悲しみで歪まない様に…。
 
例えそれが偽りの、泡沫の夢だとしても…。
男はもう…彼女がこれ以上苦しむ姿を見たくはないのだ。
 
                       ≪了≫

20120216  2010年6月8日のブログより。

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