ベッドから見上げた暗い空にひらひらと舞っていた青白い雪は朝にはすっかり止んで、世界は一面真っ白に染まっていた。
昨夜はあんなに優しく、あんなに激しく愛し合ったのに、ハジはもうそっけない程普段通りで、私が目覚める前にベッドを抜け出すとヒーターのスイッチをオンにしてリビングを暖め、キッチンでお湯を沸かし、朝食の支度を始めていた。
まだ半分眠りの縁を彷徨う私の鼻孔を、美味しそうな野菜スープの香りが擽ると、現金なもので私の意識は急にはっきりとして、今まで気にもしていなかったのに途端にお腹が空腹を訴え始める。柔らかな毛布に包まれた体をゆっくりと起こすと、剥き出しの方が朝の光に無性に恥ずかしい。いつにも増して情熱的に愛された昨夜の記憶が蘇り、とても正面からハジの顔を見られそうもない。思い出すだけで耳までが熱い。
体の奥がじんわりと潤う様な、くすぐったい様な。
私は素早く枕元に揃えられた部屋着を羽織ると、ベッドから足を下した。
 
 
窓の外は真っ白な雪の世界。
部屋の中は暖かで、ドアの向こうではしゅんしゅんとお湯の沸く気配がする。
愛しい人。
そして、愛してやまないこの世界。
 
私の体は、もうすぐ長い眠りに就こうとしていた。
 
 
君は永遠に咲く花      三木邦彦
 
 
■■■
 
 
「おはようございます。小夜…顔を洗ったら朝食にしましょう」
キッチンに顔を覗かせると、ハジが優しく微笑んだ。
穏やかな笑みはまるで普段と変わらない。
彼にとって愛し合うと言う行為は、息を吸って吐くのと同じくらい自然名の事なのだろうか。
こうしてハジの笑顔に接すると、意識し過ぎる自分の方が恥ずかしくなってくるから不思議なもので、私はほんの少し赤らんだ頬を隠す様にして慌ててパウダールームに引っ込んだ。綺麗に磨かれた鏡に映る自分の顔は、三十年前に亡くした妹とそっくり同じで、あの日から…実際には長い休眠期を挟んではいるけれど…一日として欠かす事無く、鏡を覗く度に私は彼女の事を思い出した。
「ごめんね、私一人で幸せになって…」
もし彼女が生きていてくれたとしたら、普通の姉妹として話したい事が一杯あったのだと、三十年後の平穏な日々は私に教えてくれた。
 
ディーヴァは私を許してくれる?
あれからもう、三十年以上の年月が流れたなんて、私には実感がない。
ずっと休眠していた私にとっては、あれはつい昨日の事の様に鮮明な記憶だった。
どんなに悔やんでも悔やんでも、彼女は還らない。
自分を責め続けた私に、誰もが許しの言葉をくれた。
貴女は少しも悪くないのだと…。
でも私が一番欲しいのはディーヴァの赦しだ。
けれど…どんなに願っても、それをどんなに望んでも、私達はもう、たった一言の言葉を交わす事さえ出来ない。『死』とはそういうものである事を、私は知っていた筈なのに…。
 
「小夜…」
いつの間にか、ハジが後ろに立っていた。
遠慮がちに、パウダールームのドアを半分だけ開けて、心配そうにこちらを伺っている。
それに気付きもしない程、私はぼんやりしていたの?
「スープが冷めてしまいますよ」
ハジは鏡越しに笑っているけれど、本当は私の事を、私の体調をとても心配しているのだ。
休眠期が近くなると、私の体は徐々に眠りに就く準備を始める。
まず手足が冷え易くなり、体温が下がってゆく。体力が落ち、本来ならば傷を負ってもすぐに再生する筈の傷口も、塞がるまでに時間が掛かるようになる。
朝が起きられなくなり、眠っている時間ばかり増えて、常に眠気に襲われ続ける。
今朝寝坊してしまったのは明らかに昨夜の睦言が原因だったけれど、それでもハジは心配し、また警戒しているのだ。
「小夜、トーストにチーズをのせますか?…それともジャム?」
「…ありがとう。…チーズにする」
「チーズですね…」
「ねえ、それからココアにマシュマロ浮かべてくれる?」
「ええ、サラダのドレッシングはイタリアンで宜しいですか?」
「うん…」
オーダーを確認すると、ハジは大人しくキッチンへ戻った。
優しい彼にこれ以上心配を掛けてはいけない。
私は慌てて洗顔を済ませると、柔らかなタオルで水気を拭き取る。
改めて、鏡の中の自分を見詰める僅かな時間、妹と瓜二つの自分の顔。
「ディーヴァ…、あなたは私の事赦してくれる?」
鏡の中の彼女は、ほんの少し悲しい顔をして、永遠に答える事は無い。私は強引に口角を上げて笑顔を作ると、慌しくパウダールームを後にした。
 
 
柔らかな朝の光が差し込む明るいダイニング。
私が手を出す隙もなく、キッチンとダイニングはハジの城だった。
元々そう言った性分なのだろうけれど、彼は動物園の昔から家事をこなす事をどこか楽しんでいる様で、清潔で隅々まできちんと整理整頓の行き届いた空間はハジの性格をそのまま現しているかの様だ。
白いクロスとコーディネートした淡いブルーのランチョンマットには一点の染みもなく、ガラスの一輪挿しに活けたノースポールはベランダで彼自身が育てたものだ。
小さく可憐な白い花弁。
大きな掌で庇うようにして様々な鉢植えの世話をし、いつも漸く開いた一輪を私の為に摘んでくれる。この部屋はどこもかしこもハジの心遣いが満ちていた。
恋人なのに、私はハジに気を遣わせてばかりなのだという事を、改めて実感する。
私が席に着くのにちょうど良いタイミングで、ハジが温かいスープを私の前に並べた。
彼自身が食事をする事は無いけれど、ハジは毎朝私の為にバランスの取れた食事を用意して、自分もまた私の向かいの席でブラックコーヒーを嗜む。
シュバリエであるハジが食事と言う形で栄養を取る事必要はないけれど、嗜好品と言うものはその範疇にはないらしく、毎朝のブラック―コーヒーや私の就寝前に一緒にワインを楽しんだりする。
勿論、飲んだからと言って彼が本当に眠ってしまう事は無く、酔ったところも見た事は無いのだけれど…。
野菜のスープにチーズトースト、ゆで卵のサラダに新鮮な果物。
ハジは次々と私の前に朝食の品を並べ、自分もまたコーヒーのカップを手に向かいの席に座った。そして少し居心地が悪そうにポケットを探り、何やら小さな小箱を私の前に置いた。
高級そうな包装紙、品の良いリボン。
「何?これ…」
勿論それが、ハジからのプレゼントである事は解かるけれど…。
「本当は昨夜の内に渡すつもりだったのですが…」
ああ、そうか…。
昨夜はうやむやになってしまったけれど、今日はクリスマスだ。
「…ありがとう。開けても良い?」
「ええ、気に入って頂けると良いのですが…」
私は温かいスープが冷めるのも気に留めず、その小さな包みに手を伸ばした。解くのが勿体無いほど綺麗な赤いサテンのリボンをゆっくりと解く。カサカサと音を立てて用心深く包装紙を開くと、白い小箱が現れ、更にその中に黒いベルベットの箱が入っていた。
ちょこんと掌に載せてハジを伺う。
ハジは少し恥ずかしそうに、どうぞ…と頷いた。
私は少し緊張して、その手触りの良い小箱に触れた。
優しい力で箱を開ける。
「…ハジ?…これ…」
「お気に召しませんか?…やはり小夜ご自身で選んで頂いた方が良かったでしょうか?」
本気で心配してか、ハジが私の表情を覗き込んでいる。
「………ううん、素敵」
私は彼に気を遣っているのではなく、本当に心の底からそう呟いた。
きらりと複雑に光を反射する眩い透明の輝き。
シンプルな曲線を描くプラチナの台に、大きな一粒のダイヤモンド。
女の子ならば気に入らない訳がない。
ううん、そう言う事じゃなくて…
私の頭は混乱していた。
「ハジ…これどうしたの?高かったでしょう?こんな大きなダイヤ」
詰め寄る私に、ハジは真面目な顔をして答えた。
「私はお金と言うものをそれほど必要としなくても生きてゆけるのですよ。小夜…」
つまりそれは、私の知らないところで彼にはこの高価な宝石を買うだけの蓄えはあるのだ…という事?
「…世の中の全てが値段で決まるとは思っていませんが、これだけは安物では困ります」
「……………」
「ですから…つまりそれは、気持ちの問題です」
そう言うハジの頬はほんの少し赤らんでいる様で…つられて私も顔が熱くなってくる。
「小夜…」
「…これってもしかして…」
「小夜…今更だなんて、思わないで下さい」
ハジはベルベットの小箱から、その美しい意志のはまったリングを取り出すと、反対の手で私の左手を取った。
「受け取って頂けますか?小夜…」
「ハジ…」
どうして私にそれが拒めるだろう…。
どうしてハジはこんなに優しいんだろう…。
この世の中には…目に見える形あるものと目には見えない触れる事の適わないものとがある。目に見える、形のあるものが全てだと思った事なんか一度もなかったけれど、こうして目に見える、形のある、触れる事の出来る確かなものの存在がこれほど嬉しいだなんて。
ハジはそっと私の左手の薬指にその指輪をはめた。
「…良いの?ハジ…」
「…やはり、今更ですか?」
「ううん、そんな事ない。凄く嬉しいの…」
いつの間に確かめたのか、その美しい指輪は私の薬指にぴったりのサイズで、彼が私の知らないところで…きっとずっと以前から準備してくれていたのだと思うと、どこか恥ずかしく、そして例えようもない位嬉しかった。
眩しい朝の光に指を翳すと、複雑なカットがきらきらと光を反射して輝き、私は飽きる事無く角度を変えてはその美しい石の輝きを確かめて、うっとりと目を細めた。
ハジはテーブルの反対側でそんな私の様子を暫く嬉しそうに見守っていたけれど、ふいに現実に引き戻すようにスープのお皿を私に勧めた。
「…温め直しましょうか?すっかり冷めてしまいました」
「……ごめんね。でも大丈夫…。ハジのスープは冷めても美味しいよ…」
私は慌てて意識を左手の薬指から戻し、スプーンに手を伸ばした。
 
 
ねぇ、ディーヴァ。あなたは私を赦してくれる?
私一人だけ、こんなに幸せになってしまっても良いの?
 
 
■■■
 
 
曽於は一面の雪景色だった。
昨夜ベッドの中で約束した通り、私達は遅めの朝食を終えると、これと言った目的もなく散歩に出かけた。
 
いつもはどこかほんの少しだけグレーの霞がかかった様な冬の景色は薄らと雪化粧が施され、まるで見知らぬ街を訪れた様にも思える。
朝の眩しい光を浴びて真っ白な雪は穢れなくきらきらと美しく輝き、ピンと張り詰めたように冷えた空気は、眩しい陽光に少しずつ柔らかみを増した。
 
太陽の温もりは頬に心地良いけれど、この分ではきっと昼過ぎには全ての雪が消えてしまう。
私はハジの手を引いて、真っ白な雪の中へ一歩を踏み出した。
そんなに厚着をしなくても大丈夫と言うのに、心配性なハジにあれよあれよと言う間に、私は完全防備させられていた。
暖かなタートルネックのセーターにジーンズ、軽くて動きやすいダウンのコート、マフラーに手袋、そしてボアのついた防水のブーツ。
 
きゅっきゅっきゅっきゅっ……
一歩、歩く度に足の下でなる雪を踏む音。
私達はなるべく誰も踏んでいない真っ白な場所を選んで歩いた。
けれど人通りの激しい表通りの雪はもう見る影もなくて、多くの足跡と土に汚れ、既に消えかかっている。私達の足は自然に人通りの少ない裏通りへと向いた。
それでも流石に道路と歩道には誰も踏んでいない雪なんて見付からない。
見上げれば、高く真っ青に澄んだ青空。
ハジとの散歩はそれだけで幸せ。
後どれくらいの時間を、こうして共に歩けるだろう。
そしてこの先に待ち構える避けようのない眠りの時はどれ位続くのだろう。何かの間違いで良いから、まるで真夜中に目の覚めてしまった幼い子供の様に、途中で目覚める事は出来ないのだろうか…。
そうしたら、私は少しバツが悪そうなふりをして笑って、子供の様に彼に甘えられる。
『目が覚めてしまったの…』
そう言ったら、ハジはどんな顔をするだろう…。
私は繰り返し、そんな考えても仕方のない事ばかりを考えている。
 
 
私がハジの手を引いて先に立って歩いていたのに、いつしか私達の肩は並んでいた。
そしてハジが心配そうに、私を伺いながら手を引いてくれる。
やがて、いつの間にか…車の通りも途絶え、高台の公園に辿り着いていて、それが昨夜のあの場所だった事に気付くと、私の体温が一気に跳ね上がった様な気がした。
ハジはきっと、私よりずっと先に休眠期が近い事を察していたのだろう。
だからあんな風に、まるで今を惜しむ様に…食べる必要のない彼が一緒に食事までして…。
まるで普通の恋人同士の様にウィンドーショッピングをして…思い出を作ってくれたのだと思う。長い眠りに就く私が、夢の中でも幸せな夢が見られる様に…。
「ハジ…」
「小夜…」
私達が互いの名前を呼んだのはほぼ同時だった。
ハジが私の手を強く引く。
「な、何?ハジ…」
ハジは私を木立の根元へ導いた。
一本の木の根元に…まだ誰も踏む事のない真っ白な雪をふんわりと被って、小さな箱が置かれている。
………雪の塊。
一瞬、真っ白な雪の塊に見えたそれは、真っ白な子猫だった。
片手に乗る程の小さな命。
ハジは躊躇う事なくそっと手を伸ばした。
「無事だと良いのですが…」
ハジの指が触れても、子猫は動かない。
大きな掌で包み込むように抱き上げる。頼りない小さな毛糸玉の様な子猫。それでも傍で見ると、雪に濡れて随分と痩せていた。ハジの手が慎重に雪を払い、ぐったりとした子猫の胸に耳を当てる。
「死んでるの?」
「…急いで病院に連れて行きましょう。まだ心臓が動いています」
「…本当?」
「助かるかどうかは解りませんが…。…小夜…私より貴方の方が温かいのですから…」
ハジはそう断ってから、自分の首にかけていたマフラーを外し、子猫をそっと包み私に差し出した。
「…え
「コートの中に抱いていて下さい」
遠い昔から、私は動物に触れた事が無い。可愛いとは思うけれど、彼らの方が私を嫌うのだから仕方がない。ハジに出逢う以前は、そういうものだと納得もしていた。
けれど、少年だったハジに対して、屋敷内の動物たちは皆すぐに懐いて、だから私は自分が特殊なのだという事を知った。
「…でも」
ハジには私の心の動揺が手に取る様に解るのか、思慮深い青い瞳が穏やかな色で語り掛ける。
そして短く
「大丈夫ですよ…」
とだけ言った。
私は恐る恐る子猫を受け取ると、潰してしまわない様に気を付けながらコートの内側にその小さな体を抱き寄せた。休眠期の近い私の体温で、この子猫を暖める事が出来るだろうか…。
ぐったりとした小さな体が私の不安を煽る。
長い戦いの旅の中で、私は数えきれない程の『死』に接してきた。
太古の昔から、人間と共存してきた筈の私たち『翼手』は、悪戯に人間の欲に弄ばれ、『翼手』だから…と言う理由だけで狩られなければならなかった。
本来の姿を歪め、悲しい化け物へと変わった仲間達。
そして私は同族殺しの罪を負った。
哀れな仲間たち恵お自らの刃に掛け、その返り血を浴びて生きてきた。
あまつさえ、自分のたった一人の妹をもその手に掛けて…。
だから…全てが終わったら私も死ぬつもりだった。
『死』は私のすぐ傍らにあって、恐れるべきものでは無かった筈なのに…。
今、私は胸の中のこの小さな命に脅えている。
微かに感じる子猫の頼りない鼓動。
放っておけば、もう直にその活動を止めるだろう、濡れて小さなか弱い体。
死なないで…。
もう、誰も死ぬのは嫌。
そんな私の不安ごと、ハジは両腕で私の体を抱き上げて、励ます様に一つ私の額に唇を落とし、高く地を蹴った。
 
 
小さな毛糸玉の子猫は、息を吹き返した。
三日三晩生死の境を彷徨って、私達の元へ戻って来た。
生まれて間もない小さな子猫が、雪の中に捨てられて助かるなんて奇跡だと、捨て猫である彼を…子猫はオスだという事を私に教えてくれたのはハジだった…自分達で飼う事にするのか、それとも他の飼い主を探して貰うのか、悩んだ末に私達はその子猫を引き取る事にした。そして膝を突き合わせて考えた末に、私達は彼にブランカと言う名前を付けた。
 
 
■■■
 
 
子猫用のミルクと言うものの存在を、私達は初めて知った。
ピンク色の小さな缶に入った粉末を指示された割合のお湯で溶き、人肌に冷まして適温になったら注射器の様に先の細い哺乳瓶で飲ませる。
人間の赤ちゃんと同じ様に、当初授乳はほぼ三時間おき、食事も排泄も、保温も、当たり前だけれど赤ちゃん猫のブランカは自分では何も出来なくて、その世話をハジは苦ともせずにてきぱきとこなした。
そしてほぼ生後一か月を過ぎたブランカは拾ったあの日が嘘の様に回復していた。
臍の緒が取れ、瞳が開き、耳と尾がぴんと立ち、何事にも興味津々で、片時もじっとしていない。
 
 
初めてブランカの瞳を見た時、私は一瞬息を飲んだ。
 
まるで朝の光を浴びて輝くあの朝の真っ白な雪の様に…
…その名前の通り、艶やかな純白の毛皮。
そして、私の隣で微笑む人とそっくり同じ、晴れ渡った空の様に真っ青な瞳。
 
「ねぇ…、触らせてくれる?」
私は思わずそう呟いていた。
幾分体重を増したとはいえ、まだまだ頼りないブランカの体に、私は用心深く指を伸ばした。
それまで、ブランカを拾ったあの晩以来、私は彼に触れる事は無かった。
それは偏に、下手に手を出して、昔…動物園に住んでいた頃がそうであった様に、怖がられて牙を剥かれるのが怖かったからだ。
けれど、ブランカの瞳を見付けた途端、どうしようもない愛しさが込み上げて来て、私は何も考えずに指を伸ばしていた。
 
昼下がりのリビング。
ブランカは一日三回にまで減った昼食のミルクをぺろりと飲み干した直後で、ぽんぽんに丸く張ったお腹で機嫌良くフローリングの床の上を転げまわっていた。ハジの与えた小さなボールやぬいぐるみにじゃれ付いている。
なるべくブランカの傍に寄らないように心掛けていた私は、どう近寄って良いのかが解らなくて、同じように床にぺたんと座って正面からブランカの瞳を覗き込んだ。
目と目があった瞬間、彼の青い瞳が好奇心に輝いた。
ブランカはにゃお…ともみゃお…とも聞き取れる甘い鳴き声を上げて、私の目前に転がってくる。自分から近寄っておいて、私の心臓はどきんと鳴った。
 
昔、まだ何も知らない頃。
動物園と呼ばれた広大な楽園で、翼手の存在も、自分が何者かも知らず、只毎日が楽しく過ぎる事だけを考えて暮らしていたあの頃。動物達は皆、私の前に立つと恐れ戦き、硬い警戒の表情でゆっくりと後ずさりするか、気が狂ったように牙を剥いた。
仲良くしたい。
そう思っても…いつも結果は同じで、私はずっと一人だった。
友達はいない。相手をしてくれるのはジョエルだけで、あとは音楽を奏で、花を愛でて暮らした。いつしかそれが当たり前になっていた。
けれど…。
 
一声大きくにゃあと鳴くと、ブランカはフローリングに着いた私の腕にに甘えるように柔らかな体を摺り寄せてきた。
相手は小さな子猫とは言え…昔を思い出して宇井式に体を固くしていた私に、ブランカは警戒するどころか、甘えるように繰り返し身を寄せて、青い瞳で真っ直ぐに見上げてくる。
まるで『どうしたの?』と、問い掛ける様に、時折ざらついた舌先で私の腕を舐める。
真っ白な子猫は、余りに幼過ぎて…純粋に怖がると言う事が無いのだろうか…。
だって私は、人間じゃない。
私は翼手の、その最も血の濃い、罪深き女王なのだから。
動物は皆。本能でその危険な香りを察して私を避ける筈なのに…。
きっとブランカだって…、脅えて逃げるか、その小さな前脚の爪で私を引っ掻くに決まっていると思っていた。tだ、その青い瞳が愛しくて、ほんの少しで良いから、もう一度その柔らかな毛並みに触ってみたくて、指を伸ばしただけなのだから。
私の腕にじゃれるブランカを、私は恐る恐る抱き上げた。
あの朝は、ハジのマフラー越しだった。けれど、今は違う。触れた指先に直に感じる柔らかな毛並み。
雪の中で見付けた時が嘘の様に、その小さな体は元気で生命力に溢れていた。
両脇を支える様にして目の前に抱き上げると、柔らかな白い毛糸玉、ブランカの青い瞳が生き生きと嬉しそうに輝いた。それを目にした時、何故だか私の瞼からは大粒の涙が零れ落ちた。ぱたぱたと零れた大粒の涙が明るい色合いのフローリングの床に染みを付ける。
堪え切れなくて、私はブランカをきつく胸に抱きしめた。
にゃあ…と鳴いて、ほんの少し苦しそうに、けれどブランカは遊んで貰えると思ったのか…ますます元気に手足をばたつかせた。
初めて、この胸に抱き締める柔らかな命。
温かくて、力に溢れ、しなやかで、尊い。
 
どうして、あなたは私達の前に突然現れたの?
どうして…。
 
 
「小夜…?」
子猫を抱き締めたまま立ち尽くす私を見付けて、ハジが慌てて駆け寄ってくる。
心配そうに覗き込んで私の頬に零れる涙を見付けると、息を飲む様にして…そっと私の肩に掌を載せた。
その手は抱き寄せると言うよりも、もっとずっと遠慮がちで優しい労りに満ちていた。
「どうしました?7…小夜」
ぎゅっと瞑った瞼を開ける事が出来ない。
ハジの視線を真っ直ぐに感じる。腕の中では、流石に窮屈だとブランカが講義の鳴き声を上げる。
「小夜…?ブランカが、苦しいと鳴いていますよ。もう少し腕の力を緩めて…」
「…ごめん。ごめんね、ブランカ…」
私はハジに促され、ブランカを抱き締めた腕を緩めてそっと彼を床に下した。
途端にまりが跳ねる様に、ブランカは体を弾ませて今度はハジの足に飛び掛かった。
「こらこら…」
注意を与えながらもハジの声はこの上もなく優しく、私とは比べようもなく慣れた手つきでブランカを抱き上げ、片腕に子猫を抱いたまま、ハジは私の肩をそっと抱き寄せた。そうして私を壁際に据えられたソファーへと導く。
ハジに肩を抱かれたまま、私はゆっくりとソファーに腰を下ろした。
いつの間にか涙は止まっていたけれど、頬に残る涙のあとを誤魔化せそうになかった。
「小夜…ブランカがどうかしたのですか?」
「…だって、だって。初めてなの…動物が私の事怖がらずに抱っこさせてくれるなんて…」
ハジの優しい指が私の前髪を梳く。
ハジ…また心配させてごめんね。
ハジは暫くの間そうして私の前髪を優しく整えていた。
「……ブランカは貴女が好きなのですよ」
「…どうして?」
「…私も貴女の事を愛していますから。ライバルの気持ちは…解るのですよ」
「茶化さないで…。だって今までに一度も、動物が私を怖がらなかった事は無いわ…。昔からそうだったでしょう?ハジだって知ってるじゃない」
さっきまであんなにじゃれていたブランカは、いつの間にかハジの腕の中ですうすうと心地良さそうな寝息を立てている。ハジはつい声が大きくなりそうなわたしの唇に人差し指を当てると、注意深く小さな子猫を彼の寝床へと運んだ。
「満腹ですからね…」
ハジは戻るなり、そう笑って再び私の隣に腰を下ろした。
「…ほんの少し、触らせて欲しかっただけなの…だって」
あの真っ青な瞳を見たら…
「小夜、誰もあなたを叱ったりはしませんよ。…ブランカだって抱っこされて喜んでいたでしょう?」
「…ほんの少し、あの真っ白な毛並みを撫でさせてくれたら…って思ったの」
「ええ…」
「柔らかだったわ。…温かだったわ。…こんな私にも、ブランカは甘えてくれたの…」
ハジは黙って私の肩を抱き寄せた。
シュバリエであるハジの体温は低い。それでも私はこの腕の中をどこよりも安心出来る温かな場所だと思っている。
ハジの唇がふわりと頬に触れた。
「……あのね、ブランカのあの青い瞳、…ハジにそっくりって思ったの…それで、私…」
「…小夜。私の瞳はあんなに丸くはありませんよ」
「………」
「誰か、大切な人をお忘れではありませんか?」
「………」
私が答えられずにいると、ハジは何も言わず肩に回した腕に力をぎゅっと強めた。
ハジの息遣い。
キスの気配に、私はそっと目を閉じると、ハジの柔らかな唇がそっと恐れる様に私の唇を塞いだ。いつも…どんな時でもハジのキスは、私の心をそっと解いてくれる。
「あの朝、あの真っ白な雪の中でブランカを見付ける事が出来たのは私が貴女のシュバリエでこの瞳が普通の人間の視力よりはるかに勝っていたからかも知れません。あと少し見付けるのが遅ければブランカの心臓は止まっていたでしょう…」
「…そうだね。きっと私一人では真っ白な雪の中で真っ白な子猫を見付けるなんて出来ないよ」
「貴女は動物を寄せ付けない事が一瞬脳裏を過りました。しかし、あのまま見殺しにするような惨い事は出来ませんでした。単なる偶然かも知れません。…それでも今、私はこの出会いが必然の様に思えてならないのです」
「………」
「ブランカの瞳は、貴方の大切な妹君にそっくりだと思いませんか?小夜とそっくりな、円らな青い瞳…」
「ハジ…」
ハジの腕が力強く私の体を支えながら、ゆっくりとソファーの背に押し倒してゆく。
「小夜…。ご自分が幸せになる事を躊躇わないで下さい…」
「ハジ…。そんな事…」
無いと言おうとした唇にハジの指先が触れる。否定を許さないかのように、続けざま深く唇で塞がれる。
「…どれ程私が貴女を愛しても、貴女が一番欲しているのはディーヴァの赦しでしょう?自分一人が幸せになる事を、許せずにいるのではありませんか?」
「ハジ…私…。そんな…」
ハジは、その鋭い観察眼で、私の全てを理解していた。全てを知りながら、いつもただ黙って、私を見守ってくれている。
それでも、どうしても言わずにはいられなかった。
「だって、私はディーヴァを殺したんだよ!あの子だけじゃない、…私だって翼手なのに、数えきれない位の仲間を手に掛けてきたのよ…。こんな自分を、心の底から赦すなんて出来ないよ」
「小夜…」
「…それに、こんなに大切にしてくれるハジを残して、私はまた眠ってしまうのよ。三十年も…ハジを一人にしちゃうんだよ」
ハジの腕が強く私の体を拘束する。
こんな事を言って、ハジを困らせたい訳じゃないのに…。
「小夜…。そんな風にご自分を責めないで下さい。私は…」
解ってる。ハジの気持ちだって、仕方がないって事だって…。
私の頭の中は、もうぐちゃぐちゃに混乱していて、結局はそこに辿り着いてしまう。
「…眠りたくないのよ。私は我儘だから、あの時死ぬ筈だったのに、こうしてあなたと幸せな未来を生きているのに、それだけじゃ足りなくて…。ダイヤなんか…貰ったら…余計駄目なの。眠りたくないの…。ハジと離れたくないの…、ハジは違うの?三十年も我慢できるの?一人で?………私は、嫌…」
そんな無理を言っても仕方がないと解っているのに、一度せきを切った感情は抑え切れなかった。
「嫌よ…嫌なの…。ハジと離れたくない。…ブランカとだって…」
それに再び眠りに就いたら、次に目覚める時、きっともう会えなくなってしまう人達だって大勢いる。
今までは、全てを仕方がない。自分も必ずディーヴァを倒して死ぬのだから…と思っていたけれど、穏やかな幸せを手にして以来、私は弱くなってしまったのだろうか。
ハジの腕がきつく私の背を抱き締めた。
いつもは穏やかな彼が強い力で、激しく唇を奪い、私を黙らせる。
ハジ、もっと乱暴にして良いの…
荒々しいキスに応えながら、私は心の隅でそう願った。
彼に大切に扱われる程、私には価値はないの。
「小夜、私だって…離れたくありません。このままずっとこうして、貴女を抱いていたい。眠りの訪れない私には、貴女に夢で逢うと言う事すら許されてはいないのです」
ハジの指が乱暴に私のシャツのボタンを外し、胸を覆うブラジャーをもどかしくずり上げて、ハジの唇が私の胸を吸った。
私はここがリビングのソファーの上である事も忘れ、ハジの黒髪に指を絡めた。
離れる事を許さない様に、彼の頭を抱き寄せる。
性急にきつく乳首を吸われ、痛みにも似た刺激に背筋を甘い陶酔が走る。
「…小夜。これは一つの可能性なのです。答えは誰にも解らない。昔アンシェルが立てた仮設では、それは不可能な事なのかも知れない…しかし」
「…ハジ?」
「一つだけ、私の願いを受け入れて下さい」
「………」
「…私の子供を産んで下さい」
ハジの…子供…?
そんな事が許されるの?
「……ディーヴァは妊娠出産する事で、女王としての能力を失ったのです」
「…ハジ。だってそんな」
「無理かもしれない。無駄な事かも知れない。しかし可能性はゼロではない筈です」
「赤ちゃんが出来たら、休眠を避ける事が出来るかも知れない?」
「こんな理湯で子供を望む事は間違っているのかも知れない。…しかし…」
…ハジ。
………ハジ。
「貴女を愛しているのです、例え貴女が何者であったとしても…。他には何も望みません。
私は貴女のシュバリエになった瞬間から、もう人ではありません。しかし、心の底で、遠い昔に願っていた想いを忘れる事が出来ません。貴女と本当の家族になりたいと…」
「…ハジ」
「ずっとそう思っていたのに、とても言えませんでした。貴方のシュバリエになった自分に許される事ではないのだと…しかし…例え僅かでも可能性がゼロでないのなら…私は…」
「…産みたい。ハジの赤ちゃん」
こんなに罪深い私が、そんな事を望んで良い筈がないのに…。
いつもは物静かなハジに強く求められて、私の心は乱れていた。
それはもう、休眠を避けると為とか、そんな理由ではなくて…ハジを愛しているから…これは女の本能かも知れない。
愚かな発想なのかも知れない。けれど細胞の奥深いところで、ハジと私が一つになれるのだとしたら…もう二度と私達は別たれる事は無いのだ。
でも、許されるの?
そんな事が…本当に?
「本当は、ダイヤを渡した時点できちんと申し込むべきでした」
「…ハジ」
「本当の…私の伴侶になって下さい。もう一人で自分を責めないで…貴女に罪があると言うのなら、私もそれを背負います」
答える代わりに、私はハジの体をきつく抱き締めた。
 
 
ねぇ…ディーヴァ
私を赦してくれる?
あの時、あのオペラハウスの舞台の上で、私も貴女の後を追って死ぬつもりだったの…。
それなのに今、私はこうして有り得なかったはずの幸せな未来を歩いているの…・
生きて償うという事は、自分を責め続ける事ではないの?
お願い…答えて…ディーヴァ…
 
 
目覚めると、いつの間にか私は寝室のベッドの上に横たわっていた。
最後までの記憶が途切れていて…きっと私は途中で気を失ったんだと分かる。
ハジがここまで運んでくれたのだろう。綺麗に体を拭かれ、シャツもきちんと整えられていた。情事の名残は残っていない。
私は相変わらずハジに心配ばかりかけているんだ。
赤ちゃんが欲しい…なんて。
赤ちゃんが出来たかなんて、すぐに解る筈は無いし、あんなに取り乱した事が今は少し恥ずかしい。
けれど、本当の伴侶になって欲しいと言ったハジの言葉を思い出すと、胸が甘く苦しくなる。
その言葉だけで…
ハジの気持ちだけで…
今こうして生きている事だけで…
穏当は満足しなければいけないという思いも胸を締め付ける。
「…ディーヴァ、お願い。私を赦して…」
ぽつりと零れた呟きに、急にシーツがぴくんとはねた。びっくりして、シーツを跳ね上げると脇にブランカが丸くなっていた。
良く潰さないで寝ていられたと我ながら感心する。
ふわふわの柔らかな毛皮、真っ青な瞳が私を見上げてにゃおと鳴いた。
ハジが、ディーヴァにこそ似ていると言った真っ青な瞳。
「ねえ、ブランカ。あなたは私が怖くないの?」
ブランカは私のそんな問いかけにもお構いなしで、ベッドの上を探検し始める。
どうしてこの子は、翼手の女王である私を怖がらないのだろう…。
そんな疑問を抱きながら、ゆっくりとベッドから足を下す。
もう、部屋の中はすっかり夕方の気配に満ちていた。
 
ハジは…どこだろう?
また先回りして、キッチンで夕食の支度に取り掛かっているのだろうか…。
キッチンを伺うと、予想通り扉の隙間から美味しそうな料理の香りが漂ってくる。
 
「ブランカ…。おいで…」
名前を呼ぶと、やっぱりその姿はコロコロと転がる毛糸玉の様…。
嬉しそうに、私にすり寄ってくる。
ディーヴァ…
私は懐かしい妹を思う様に、大切に柔らかな子猫の体を抱き締めた。
ハジと、ブランカと過ごせる…残された時間を、大切にしよう…。
今自分に出来る事はただそれだけなのだ。
落ち込みそうになる気持ちを、前向きに保ち、何とか笑顔を作る。
 
その時。
 
既に私の体内では、ひっそりとクリスマスの夜の奇跡が息衝いている事に、この時の私達はまだ気が付いてさえいなかったのだ。
 
 
                          《了》
 

20111115 
本の奥付の日付は2007107日。第一回目のB+プチオンリーに委託参加させて頂いた時の本です。拙い上に、何と言うか…尻切れトンボ的。(でもこっそりラストだけ書き足しちゃった…)物凄くお恥ずかしいですが、昔書いたものなので色々矛盾とかお許しくださいませ。

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