野薔薇の秘密 1

駅は帰宅ラッシュの混雑時だった。

改札を挟み、二人は行き過ぎる人の波に逆らう様にして立ち止っていた。
「ねえ…。小夜、大丈夫…?」
香里が心配そうな表情で、小夜の顔色を伺っている。
その視線がやけに痛く感じて、小夜は平気なふりを装って『うんうん』と頷いた。
けれど、本当は立っているのもやっと…と言う有様で、そうしていると視界が柔らかくぐにゃりと歪んだ。
「熱でもあるんじゃない?…顔赤いよ…」
労わる様に延ばされた親友の指先を、小夜はさりげなく避けていた。
勿論、無意識だ。
「本当に、大丈夫。ありがとう…香里…。ここからはもうすぐだから…」
渋々と言った様子で、香里は頷いた。
許されるなら、小夜の部屋まで送り届けたい位の心配様だったが、流石に恋人と暮らすマンションまで押し掛けるのはマナー違反と思っているらしい。
「…うん、ねえ…小夜。ハジさんに迎えに来てって電話してみたら?」
「…そんな事、出来ないよ…。今、家に居るのかどうかも解からないし…お仕事中かも」
「だって…。体調が悪いのに…」
ハジとは、昨夜野薔薇屋で…部屋の前まで送り届けて貰ってそこで別れ…今朝は会えないままだった。
携帯に『他の社員と共にバスで帰る事になった』という旨のメールが入っていたけれど、何時に帰宅するかまでは聞いていない。
勿論電話をしても彼は怒ったりしないだろうけれど…小夜にはとてもそんな事は出来なかった。
昨夜の事もあり、悪戯に心配をかけたくないと言う気持ちが大きい。
「タクシーで帰るから。…でも…徒歩十五分の距離って…乗車拒否、されないかな?」
たった十五分のマンションまでの距離が、今日はやけに遠く感じられる事も事実で、小夜は香里に譲歩するようにそう提案した。
「大丈夫だから。絶対タクシー拾ってよ…。もし明日学校休むなら早めに連絡してね。代返何とかするからね」
「ありがとう…。折角の旅行だったのに、心配掛けてごめんね…。香里…」
小夜は、後ろ髪を引かれる様にホームに戻ってゆく香里の背中が人混みに紛れ見えなくなるまでその場で見送った。
 
体がだるい。
本当に少し熱っぽいのかもしれない。
風邪を、引いてしまったのだろうか…?
ハジにどんな顔をして会えばいいのだろう…。
小夜の脳裏にはとりとめもなくそんな思いが浮かんでは消えた。
 
このロータリーまでハジに送って貰ったのはつい昨日の朝の事だと言うのに、今の小夜にとってはもう遠い昔の事の様に感じられる。
香里と別れ一人になると、小夜の脳裏には余計に昨夜の出来事が甘く生々しく蘇ってくるのだ。
まさか野薔薇屋で再会するとは思ってもいなかっただけに、野薔薇屋の庭で偶然出会った時の驚きと嬉しさは例え様もなかった。
 
でも、だからと言って…。
 
あんな事になるなんて…。
 
 
………小夜っ
 
 
切羽詰まった様な男の熱い吐息が、掠れる様に自分の名前を象る時の衝撃が忘れられなかった。
男の人に身も心も愛されると言うのは、こんなに激しくて…こんなに……。
 
小夜はぐるりとロータリーを回り込むとタクシー乗り場の屋根の下に向かった。幸いにも客待ちの車が三台ほど停車していて、待つ事無く小夜は帰途に就く事が出来た。
たった数分の事だと言うのに、車内は居心地が悪い。
早く自分の部屋に戻りたい…そう思う。
しかし、ハジはもう帰宅しているだろうか…。
料金メーターの隅に浮かぶ小さなデジタルの文字は、午後六時を示していて…彼が部屋に戻っているかどうかはとても微妙な時間帯だ。
 
ああ、やっぱり…少し熱があるのかも知れない。
 
小夜はワンメーター分の料金を支払うと、マンションの前で停車したタクシーから降りた。
いつもの何倍も重く感じる体でマンションのエレベーターに乗り込むと、途端にぐったりと体の力が抜けた。奥の壁に全身を預ける様にして凭れかかる。
 
 
……小夜…、
 
…………小夜っ…
 
 
ハジの、耳に心地よいあの美声が…あんな風に余裕を無くし熱く湿り気を帯びる様を、小夜は今まで想像した事もなかったのだ。
 
玄関ドアを開ける。
半ば予想通り、ハジはまだ帰宅していなかった。しんと静まり返った部屋の中へ靴を脱いで上がり、とにかく楽になりたくて自室に荷物を置くと、その場で崩れる様にソファーベッドに倒れ込んだ。
 
昨夜はほとんど眠れなかった事もあり、吸い込まれるように意識が遠のいてゆく。
…ハ、ジ…
声にならない声で、吐息で…小夜は男の名を呼んでいた。
 
 
 
□□□
 
 
 
優しかった抱擁が次第にきつくなる。
小夜の細い腰と背中を抱いた腕がゆっくりと辿り、撫でる。ただ撫でると言うよりずっと熱っぽい掌の動きに
小夜は急に心細くなって、その腕の中から逃れようと身を捩っていた。
「小夜…」
「…ね、…ハジ?」
腕の拘束は解ける気配を見せず、見上げても抱き締められているせいで、ハジの顔は見えなかった…耳元に囁かれる名前と共に湿った吐息が小夜の柔肌を擽るばかりだ。
「…小夜」
宥める様な調子で再び名前を呼ばれる。
不意に覗き込んだ青い瞳はいつになく深い色を湛えていて、小夜は返事をする事すらままならない。
小夜が何も答えられないままハジを見詰め返すと、そっと唇を塞がれる。
その瞬間、小夜は条件反射の様に瞼を閉じていた…そうして深く執拗な口付けに翻弄される。
ざらついた舌先が小夜の唇を割り、絡みつき、きつく吸われると、小夜の全身からはくったりと力が抜けてしまう。否応なく、男の腕に身を任せると、背中を抱いた腕がゆっくりと腰へ移動してゆく。
小夜が異変に気付く間もなく、背中でしゅるっと帯の解ける気配がした。途端に頼りなく小夜の浴衣の帯が緩んだ。
「ハ…ハジ…?…何?」
思わず目を開けると、蝶の片翅が脱衣所の床に届いている。
「小夜……貴女が欲しい…」
「……欲し…い?」
言葉の意味を確かめる様に小夜が問い返すのにも構わず、再び男の唇が小夜に舞い降りた。
唇に触れ、愛おしげにこめかみに触れ、腰を抱いていた腕はいつしか小夜の頬を両側から挟むようにして覗き込んでくる。
「……小夜」
男の真っ直ぐな視線から逃れる様に身じろぐと、解けた帯がゆっくりと床に落ちてしまう。
尚も男の指が小夜の細い腰から腰紐を解き、小夜が抵抗する間もなくハジはその胸元の合わせを僅かに広げた。
「…ハジっ!欲しいって…」
「駄目ですか?」
「…駄目だよ…だってここ…」
こんな場所で抱きあうなんて…小夜の今まで常識の中では、それはあり得ない事だ。
ハジが嫌なのではない、ここが寝室のベッドの上であったなら、小夜もまたもう少しの余裕を持って対応できたのかもしれない。
「……誰も来ません」
「…だって、無理…」
「………無理でも…。小夜…」
ハジの掌が小夜の返事を待つ事無く、その肩から浴衣を落とした。片方ずつ脱がせて浴衣を完全に脱がせて床に落とすと、身を捩る様にして肌を隠し、背を向ける小夜を背中から抱き竦める。
ふるふると全身が震えて、立っているのもままならない程の羞恥が小夜を苛んだ。
「…あ、だ、駄目。……っ恥ずかしい。…ハジ」
「…大体…恥ずかしがっているようでは…一緒に温泉になどは入れませんよ…小夜」
後ろから抱いた腕が、小夜の頤を掴みぐいと引き寄せる様にして振り向かせ男が覗き込む。
「だって…。だってハジ…」
ふわりと片頬に唇が触れた。そうして、唐突に腕の拘束を解かれる。あんなに腕を離して欲しいと思っていたのに…不思議なもので自由になると途端に身の置き場に困る。むき出しの肌を隠す様に体の前で腕を交差して床にはらりと落ちた浴衣を拾い、それで体を隠した。
壁際に逃げると、ハジは自嘲的に苦笑した。
「…怖がらせて…すみません。小夜…」
「……ハジ」
ハジは苦悩する様な表情でゆっくりと深い呼吸を繰り返した。
「……すみません。…こんな状況で…もう自分を抑える自信がないのです。…ですから、私は外で…」
待っています…と踵を返し、出ていこうとする。
その広い背中に、声が詰まる。
「…まっ…待って…」
 
 
あの時、ベッドの中で…彼は何て言った?
 
 
『今までも、その気になれば…一方的に…貴女を抱く事も出来ただろうと思います…。しかし…私は…そうではなくて…』
 
 
背中を向けたハジが立ち止る。硬い表情で僅かに小夜を振り返った。
「…表で待っていますから、安心して下さい…。また…帰り道に迷うといけません」
「ち、違うの…。そうじゃなくて…」
「…………………」
ハジの瞳が問う様に小夜を見詰めていた。
 
今だって、ハジはその気になれば、力ずくで自分を抱くことだって出来るのに…。
 
小夜は震える足を一歩前に踏み出した。
「…ハジ…。……あのね、……それでも…私は…ハジに傍に居て欲しいの…。行かないで…」
左腕で浴衣を押さえたまま、小夜はそっと右手を差し伸べた。
「…小夜」
ハジは完全にこちらを向き直り、しかし動けないままじっと小夜を見詰めていた。
「…………ちょっと、驚いただけ…。…恥かしいけど、すぐに…慣れる…から」
「…慣れるって…」
本当に自分の言っている意味が解かっているのかと…、ハジはやや大袈裟に溜息をついて見せた。
けれど、もう…小夜にはそれが限界で…。
「…お願い」
今にも泣き出しそうな小夜に、ハジはとうとう耐えきれず掛け寄る様にしてその体を抱きしめていた。
「小夜…、小夜…」
「……ハジ、………ごめんね」
小夜が小さく謝ると、声もなく…ハジはただ何度も首を振るのだった。
 
 
 
背中合わせで微かな衣擦れの音が響く。
背後で、小夜と同じようにこちらに背を向けて…ハジが自らの浴衣を脱いでいるのだ。
小夜は勇気を振り絞る様にして、白いブラジャーのホックを外すと可愛らしいレースのそれを脱衣籠にしまった。そうして同じようにパンティーを下ろすと片足ずつそれを脱ぐ。
生まれたままの姿に戻ると、慌てて宿の名前代わりに赤い糸でバラの刺しゅうの施されたタオルを手に取り肌を隠す。ゆっくりと振り返り体勢を整えると、ハジを呼んだ。
それまで振り向かない様に言い渡されていたハジは、同じように一糸纏わぬ姿で小夜の前に振り返った。
白いタオルが辛うじて胸と腹部、そして淡い茂みを隠してはいるが、そのラインは明らかに女性の丸みを主張していた。その美しさに思わず凝視するハジとは対照的に、目のやり場に困った小夜が顔を赤くして俯いてしまう。
「や…やだ。じっと見ないで…」
「小夜…」
溜息の様に優しく…名前を呼ばれた。
恐る恐る顔を上げると、ハジのいつもと変わらない穏やかな眼差しが労わる様に小夜を見詰めている。
しかし小夜は、その静かな瞳の底に…先程の…あの熱に浮かされたような男の存在も確かに共存している事を感じていた。
「…ハジ」
羞恥が完全に消えた訳ではなかった。それどころか、今から自分達の間に起るだろう事を思うと尚更恥かしいと言う気持ちは勢いを増してゆく。
それでも、ハジを愛しいと思う気持ちは抑えきれない程小夜の中に溢れていた。
「………小夜」
さっきからハジの口からは、小夜の名前しか紡がれては来ない。けれど、その響きの中には万感の思いが込められている。
確かめるまでもなく、貴女が愛しい…とその青い瞳が語っている。
そっと、小夜に向かって差し出された大きな男の手を、小夜はじっと見詰めた。
 
…私の愛しい人…
 
女性のものとは明らかに違う、大きくて骨ばったその手の優しさを、小夜はもう充分に知っている。
 
…大好き…ハジ…
 
込み上げてくる思いを胸に秘めて、遠慮がちに伸ばされた男の手を、小夜は戸惑いながらそっと握り返した。
 
                                ≪続≫

20091105
ハジ…きっとムスコが大変な事になってますね…なんて事は秘密です(爆)
ええと、野薔薇の秘密を書き終えた時点で、露天風呂のシーンを希望して下さるお声が結構ありまして、
色々内容的に悩みつつも書き始めました。

表は表で、あそこで露天シーンは入れなくて良かったと思っているのですが、
そうする事で裏のハードルを凄く上げているんじゃないかな〜と思います。

これはこれで、表の野薔薇の抜けてるシーンを抜き出して書くだけでなく、
これはこれで一つの作品として書けたら良いなあ〜と思っています。…が、どうだろう…?

そうしたらただでさえ長くなりそうなシーンがどんどん長くなりそうで…。

待っていて下さる方には、期待外れになっちゃうんじゃないかと…心配しつつも、
こんな所で切るなよ〜的な部分で一旦上げさせて下さいませ…。