噎せ返る様なバラの庭で、青いバラに囲まれたその最奥で、少女が笑っている。
白い肌も、黒い髪も、瞳も…………
ハジの愛する女性と映し鏡のようにそっくり同じ姿で。
彼女の歌声は、ハジを揺さぶる。
獣と化した右腕は、主の意思に反して酷く動揺し震え、猛る。
その甘い誘惑は、何にも代え難く身体の芯を溶かしてしまいそうだ。いっそ流されてしまえば、楽になるのだろうか・・・と、心にも無い事を思い描いてみる。
けれど・・・。
シュバリエとしての本能を超えて、人であった頃の深い想いがハジを押し止める。
サヤ・・・
愛する女性の名前を、呪文のように繰り返す。
サヤ…………サヤ………



〜いばら〜   
 
「ハジ…?」
ハジの膝に縋るようにして丸くなっていた少女が、まだ寝起きの瞳を擦りながら、ハジを見詰めていた。
夜明けにはまだ間があり、辺りは漆黒の闇に包まれている。
夜露を凌ぐように彼女を包んでいたブランケットが頼りなくはだけていた。しどけなく崩れた滑らかな足のライン。弾かれた様にハジはそっと目を伏せた。
静かな声で問う。
「どうしました?」
闇の中でも良好な視界を保つハジの視力でも、月明かりの元では小夜の表情もどこか心許無くて、実際よりもずっと幼い子供を相手にしているような不思議な気分になる。
「ハジ…、今…私の事、呼んだ?」

「いえ…。まだ日が昇るまで時間があります。もう少し眠って下さい」
優しく髪を撫でて、ブランケットを直してやると小夜はもう一度おとなしく体を横たえた。
それでもまだ納得がいかないように、大きな瞳でハジを見上げている。

「何か?」
「………」
「屋外で眠るのは不安ですか?今はもうシフが襲ってくるような気配もありません。安心してお休下さい。明日には目的地です」
「ハジは眠らなくていいの?」
「私は眠りません…」
「傷はもういいの?」
「大丈夫です。傷は塞がりました・・・、こうしてじっとしていれば、眠らなくても回復します」
シフとの戦いで、ハジは小夜を守る為に大きな怪我を負った。
勿論、人ならば即死する程の・・・。
それが昨夜の事、それなのにもう傷は塞がったと言う。
理解しているつもりでも、まだ小夜にはハジの体質がぴんと来ないのか、何か問いたげな瞳は眠る様子を見せない。
「さっき、ハジの声で何度も呼ばれたような気がして、目が覚めたの…」
「………」
記憶を無くしていても、小夜は始祖だ。
始祖である小夜の心の揺れはすぐにそのシュバリエであるハジに伝わる。不思議なものでそれは一方通行のものではないらしい。
声には出さず、ハジは己の心の弱さを悔いた。

「私の為に、あんな怪我をさせてごめんね。ハジは、いつも守ってくれるのね…」
「小夜が謝る必要はありません。あなたを守るのは、私自身の望みです」
「ハジが私のシュバリエだから?」
「……そうです」
「でも、私はハジが傷付くところは見たくないよ。……シュバリエって、何なの?」
大きな瞳が真摯に見詰めてくるので、ハジは少し言葉に詰まる。自分がもっと強くあればいいのだろうが、ハジも自ら望んで怪我を負っている訳でもない。
「以後…気をつけます・・・」
当たり障りのない答えを返すと、小夜はそれ以上の追及は諦めたようで、唇を小さく噛んでブランケットを胸元に引き寄せた。
愛しい少女の髪を、ハジはなだめるように何度も何度も梳いてやる。
やがて彼女の呼吸が落ち着き、そのまま眠るものかと思われたのに、小夜はブランケットで顔を隠すとそっとハジの指先を捕らえた。
熱のない指先に、ぽつんと小さな灯がともったようだ。
……温かい。
「ねえ、ハジ…」
「何です?小夜…」
「明日動物園に行ったら、私は全部思い出すのかな?…………昔の事を…」
顔を見て確かめるまでも無く、声が不安に震えていた。
「怖いですか?過去を思い出すことは…」
「…少し。…昔の事を全部思い出したら、…今の私は消えてしまうの?」
ハジの指先を握る小夜の手に力が篭る。
「…さあ。それは、どうでしょう…」
「昔の私は、どうだったの?どうしてこんなに、ドキドキするの…。こんなに大事な時なのに…」
「…小夜?」
彼女は何を言っているのだろう?
名前を呼ぶ声には微かに怪訝な響きが交る。
「昔の私も、あなたに触れて…こんな風に………、ドキドキしたのかな?」
「小夜…」
小夜は暫し言い淀んだが、意を決したようにブランケットから顔を覗かせると、ハジに打ち明けた。
「………ハジの指が私に触れる度、胸が苦しくなるの。全部思い出したら、今のこの気持ちも消えてしまうの?………私…」
「小夜・・・」


ハジの瞼の裏で、少女が笑っている。
青いバラが咲き乱れる古い石畳の庭で。
ハジの愛する小夜と同じ姿で、二人を嘲笑っている。
そんなものが何の役に立つのだと…。
甘い声でハジを呼ぶ…。
けれど………。
けれど、この気持ちこそが…。
 
………小夜を愛している。
 
初めて出逢ったあの幼い日から、何年の時が流れようと、今はもうそれだけがハジの存在理由であるかの如く。
 
「小夜、忘れないで。この先何があっても、私はあなたの事を愛しています」
ハジの、どこかいつもとは違う気配を察して小夜が体を起こすと、何の予告も無いままにハジの腕に抱きすくめられた。
始めて告げられる『愛』と言う言葉に小夜は目眩を覚え、ハジの腕の中でぎゅっと体を固く強張らせていた。

「ハジ…。苦しいよ…」
「苦しいのは、私も同じです。…小夜」
彼の言葉に顔を上げると、小夜を見下ろすハジの瞳と視線が交わった。
暗い闇の中でも、感情の読めない青い瞳は真っ直ぐに小夜を見詰めている。無表情を装って、その実心の内は小夜と同じように苦しい想いを抱いているのだろうか…。
「明日、何があっても、私を信じて下さいますか?私は、全てを知った上で小夜の傍にいるのです。あなたが何者であろうと…、愛しています」
「ハジ…」
そっと降りてくる唇を、小夜は拒む事無く目を閉じて受けた。
より強く抱きしめられて、彼女の胸は早鐘を打っていたけれど、苦しいその口付けは不思議と不快ではない。最初優しく小夜に触れただけのハジの唇は、先を求めるように何度も小夜を啄み、やがて熱い舌先が唇を割って侵入してくる。
熱くてざらついた舌先が直に小夜の舌に絡みついてくると、彼女の体は反射的に逃れようとした。しかし、ハジの掌がそれを許さず、小夜の項を支えるようにして更にきつく舌を絡めてくる。
「ん…んん…、ハ…ジ…」
息を継ぐ合間に助けを求めると、やっと唇を開放された。
「ハジッ…」
息が上がる。
力が入らずに体はハジの腕に預けたままで、小夜は呼吸を整える。
ハジはそんな小夜の様子を、静かに見守っていた。
肩で息をして不自然に濡れた唇を噛むと、今度はハジの唇は小夜の耳元に落とされた。柔らかい皮膚を甘咬みして囁く。
「嫌ですか?」
「…ど、して…。ハジ…こんな…」


          
             Thank you very much!
              イラスト くーまんさま 

小夜の許しを求める間にも、ハジの湿った吐息が小夜の首筋を彷徨っていた。
くすぐったいような、やるせない感覚が次第に小夜の全身を支配していく。
「嫌とか…、そんな…」
言葉の上では殊勝にそんな事を聞いてくるのに、ハジには一向に行為を止めようとする意思が無い事を感じて、小夜は最後の抗議を試みる。
ぎゅっと瞳を閉じて、強く握った拳でハジの広い背中を一つ叩く。
「小夜?」
「狡いよ…。ハジ…」
彼の指も、唇も、小夜に嫌と言わせるつもりは無い。
そっと髪に触れられただけで、小夜の胸は苦しくてどくんどくんと激しく脈打つ。
しかしそれは、決して不愉快ではない甘い痛みだ。
それを知っているのだ、ハジは。
もし…明日、動物園で…自分が過去の全てを思い出す事になったら…。
自分はどうなってしまうのだろう…と、小夜は思う。
沖縄でジョージと、カイとリクと暮らした一年は、消えてしまうのだろうか?
今の自分はいなくなってしまうのだろうか?
こうしてハジに抱きしめられて、心地好いと感じる自分は消えてしまうのだろうか?
この淡い恋心は・・・、消えてしまうのだろうか?

先の事は何も解らなくて…。
何も考える余裕すらもなくなってしまう。
「狡い…」
小夜はもう一度小さく呟いて、ハジの背中を叩いた拳を開くと、彼の背中にぎゅっとしがみ付いた。
小夜が何者であっても傍にいて愛していると、言ってくれるハジ。
今の自分に、もうそれ以上の何を望めと言うのだろう…。
小夜は、自分の胸にあるハジへのこの気持ちこそが恋なのだとはっきりと自覚して、きつく目を閉じる。
ハジは小夜の眉間に寄った皺を指先でそっと撫でた。
「…少し、怖い。ハジ…」
「小夜・・・」
大丈夫です…と耳元に吐息を零して、ハジは小夜の体を膝の上に抱き上げた。
不安を隠せない瞳で、小夜はハジを見詰めていた。
小夜の心が今、酷く脆くなっているのだと言う事は解かっている。何も覚えていない彼女を、こんな風に抱きしめていいものだろうかと言う迷いがハジの中にない訳ではなかった。
明日の命も知れないから?
自分の内に存在する脆弱さを誤魔化したいが故に、いつしか『音無小夜』の内に芽生えていた自分への恋情を、利用しているのか?
そのどちらも、否定しきれない。
しかしどうしても、今確かにここにある温もりを手放したくはなかった。
小夜一人を愛しているという気持ちに偽りはない。
それは、過去を覚えていない小夜には初めても当然の行為だった。
危険に晒される度に、ハジは強引に小夜の体を抱き上げる。
ぎゅっと抱きしめられる事も初めてではないのに、今のハジはそのいつとも違う。
最初、丁寧に施される口付けは、小夜を驚かさないように細心の注意を払っていた。
それが、次第に熱を帯びてゆく。

彼の冷えた指先が小夜のジャケットを脱がし、ニットの裾から潜り込んで素肌に触れてくると、突然その行為がリアルなものと変わった。
指と唇が滑らかな皮膚の上を辿って、小夜の敏感な部分を一つ一つ確かめてゆく。
小夜の体は、以前と少しも変わらずハジの愛撫に応えた。

甘く霞む意識の中で、小夜は自分の体がすんなりとハジの体に馴染んでゆく事に驚き、そして漠然と自分達が初めてではない事を理解していた。心配そうに覗き込むハジの瞳に、辛うじて微笑み、精一杯伸ばした両腕で、ハジの背中を抱き締める。
例え、シュバリエの体温が小夜のそれと比べようも無く低いのだとしても、この腕の中は温かい。
直に触れる肌の湿った感触と、明らかに自分とは違う男の骨格。
夜の外気から守るように、小夜を包み込んでくれる。
「ハジ…」
鼻に抜ける甘い声で、小夜は愛する青年を呼んだ。小夜の体は、ハジの記憶と寸分変わらず、どこもかしこも柔らかくて、甘い香りがする。
弾力のある丸い胸、くびれた腰、太陽の光の下では健康的な肌の色も、月明かりに照らされると、どこか艶かしい。
普段のあどけない表情とはアンバランスな成熟した女性の体。
「小夜…、小夜…」
苦しげに名前を呼んで許しを請う。
本来、守るべき主である小夜を組み敷く事に…。
ずっと、ずっと昔から、ハジがまだ少年だった頃から、たった一人小夜だけを愛してきた。血の柵も、何もかもを越えて…。
ただ、今だけは一人の男と女として、存在する事が許されるなら…。
ハジは腕の中で震える小夜を、覗き込んだ。
忙しない息の下で、潤んだ瞳で、小夜はハジを見詰めると柔らかく笑みを浮かべた。
ハジの想いの全てを受け入れるかのように、細い腕がハジの背中を強く抱き締めた。
「ハジ…」

甘く名前を呼ばれて、ハジは詰めていた息を小さく吐き出した。
驚かさないようにそっと、下肢に触れる。
その潤んだ茂みに、指を忍ばせた。
 
 
ハジの脳裏で、少女が嘲笑う。
そんなものが一体何の役に立つのだと・・・。
噎せ返る青いバラの庭で、その最奥で、少女が独り笑っている。
ハジの愛する女性と映し鏡のようにそっくり同じ姿で。
愛など。
愛など、要らないと、青いバラに囲まれて・・・。


「ハジ・・・?」
腕の中で小夜がハジを呼んだ。
ハジを見上げる小夜の瞳はうっとりと潤んでいる。
「どうしました?小夜・・・」
「傍に・・・居てね」
静かに頷いて、ハジはそっと小夜の額に唇を押し当てた。
一人の男として小夜を愛している。
ただそれだけが、自分の存在理由であるかのように…。
 
とろんと甘い余韻を残して小夜はハジに体を預けて眠っていた。
ぐったりと脱力した体はすっぽりとハジの腕の中に納まってしまう。
汗が引いた体が冷えないようにしっかりとブランケットで包み直して、ハジは白く淡い月の影を見上げていた。
東の空がうっすらと赤く染まり始めている。
間もなく、太陽が昇る。
朝になったら、もう行かなければならない。
あの、懐かしい始まりの場所へ。

小夜は、全てを思い出すのだろうか・・・。
過去の記憶は、ハジと暮らした平和な日々の思い出のみならず、小夜を苦しめる事になるだろう。
それでも先へ進む為に、小夜自身が望んだ事ならば・・・。
自分はただ彼女の傍らで、彼女を守り、支えるしかないだろう。
小夜自身が、答えを導き出すまでは。
シュバリエとして。
そして一人の男として。
例え、この血の定めがどこへ向うものであったのだとしても・・・。
 
少女の待つ、あの青いバラの庭へ


日付は2006年5月1日になってました。
お引っ越しを機にずっとリンクをつなげるのを忘れてました…すみません!
で、当時の記憶を辿れば、これは動物園前夜。あの一緒に動物園の門を開く辺り…何か二人の間に
あったんじゃないの?と言う妄想の元に書いた様子です。
姑息に一部描き足して、20090130再掲載。