ここにしか咲かない花 〜雨宿り・番外編〜








真夏の眩しい陽光が水面の漣にきらきらと輝く。
青々と茂る緑の森と、その森が作り出す濃い影。
涼やかに渡る風が、枝を揺らし草花をそよがせる。
鳥達が歌い舞い踊る、高く澄んだ青空。
やがて日が沈む頃には、燃える様な朱色の帯が幾筋も棚引き、徐々に暗色に移ろいゆく様の美しいこと。
ここは平和で穏やかな、夢の園。
まるで夢の様に儚く美しい世界。
 
□□□
 
「ハジ…絶対に覗かないでね…」
小夜はそう念を押すと、そっと後ろを向き朱色の帯に指を掛けた。
人の気配が無いとは言えここはれっきとした屋外で…そのせいか、沐浴の時…小夜はいつも少し緊張する。
はらりと白い絹を脱いで、枝にかける。
木立の少し向こうでは、ハジが約束通り大人しく向こうを向いて木の根元に腰を下ろしているのが見えた。
湖を振り返ると夏の眩しい光がきらきらと湖面に反射する。
さわさわと草木を揺らす優しい風。
ここは…少し前まで小夜が暮らしていた集落とはまるで違う…豊かで穏やかな世界だった。まるでハジの瞳のように真っ青に澄んだ湖の畔。そこが、『人』の世界なのか、それとも『人』ならざる者の世界なのか…小夜には判然としない。
青々と茂る豊かな森に囲まれた別世界。
ハジとは違いごく普通の人間の少女である小夜が過ごし易い様にと、ハジは湖の傍らに小さな屋敷を用意した。元々はこの湖の主である一体の竜を祀る古い社だったのだと言うけれど、それはつまりハジを祀ると言う事なのだろうかと、小夜は疑問に思う。
ハジが竜…?
一緒に居る限り、小夜の目にハジはごく普通の人間の様に見えた。
全てを小夜に合わせているのだろうか…。
少女の生活に合わせ、夜は共に休み、朝には床を出る。
食事は必要のない様子だったが、小夜の為に何処からともなく膳の用意をし、小夜が勧めれば共に食し、そして酒も嗜んだ。
口数は少ないけれど、いつも的確に欲しい言葉を選んでは小夜に与えてくれる。しかし、とても優しくて穏やかな物腰とは裏腹に…ハジがその掌を翳せば天には暗雲が立ち込め、見る間に大粒の雨が降る。それは時に激しい雷雨であったり、柔らかい絹の様な霧雨だったりと、様々ではあったが、彼は想像もつかない大きな力を秘めている。
あまりに穏やかで平和な日々ばかりが過ぎてゆくせいか、ハジが『人』ではないという事…、彼がこの湖の主であり、自分は雨乞いの為に差し出された『人身御供』なのだと言う事すら、時々小夜は失念してしまう。第一、小夜はもう一度ハジに会えるのならば、もう死んでも良いとさえ思っていた。
それなのに自分はまだこうして生きていて…その上、村に居た時よりもずっと豊かな暮らしを与えられている。
ハジに初めて抱かれた夜、自分は…もうこうして初恋の成就と共に死ぬのだろう…と思っていた。『人身御供』とは必ず死に至るものなのだと教えられていたから…。だから、あんな風にあられもなく声を上げて乱れる事が出来たのだ。
ただ一夜の逢瀬なのだから…と。
『私の腕の中で女になりなさい…』と言ったハジの言葉の意味が、あの時は理解出来なくても、今は解かる。ハジの腕の中は、我を無くす程心地良く、抱き締められただけでも息が詰まる程だったのに、もう今はそれだけでは足りない。
どうしようもなく、ハジの体を欲しいと思ってしまう。
小夜の体の中心にぽかんと開いた空洞をハジの体で埋めて欲しい。
ハジの指先が小夜の敏感な部分を撫でる時の優し過ぎるそのもどかしさ。
焦らされれば焦らされるだけ、小夜の体はハジを欲して潤ってゆく。溢れ出した蜜が隠微な音を立てる頃、ハジのそれが小夜の襞を探ると、早く貫いて欲しくて溜まらずに腰を揺らしてしまうのだ。
それは小夜が今まで知りえなかった欲求だ。
「…やだ。私…」
真夏の午後、それでもここは濃い森の影と美しい水のお陰で随分涼しい風が吹き抜けてゆくと言うのに、ハジの抱擁を思い出すだけで、どこか小夜の体は熱く火照るようだ。ぱしゃん…と冷たい水を鳴らして、小夜は素足を湖に浸けた。
一枚だけ纏った襦袢のまま、小夜は湖の水に腰までを浸す。
肌を撫でる心地良い水の感触は、不意に小夜にハジの掌の冷たさを思い出させた。この湖は、主であるハジそのものだ…。
どこまでも澄んで美しい…何もかも映し出してしまいそうな程に…。
「覗かないで」…も何も、きっとハジは全てを見通している。
小夜の気持ちも、その体の熱も…。
そう思った瞬間、小夜の中で何かが熱く潤うのが解かる。
濡れてぴったりと肌に張り付く薄い布の感触、まだ腰までしか浸かっていないというのに、もう胸までが水に濡れて、赤く色付く乳首が透けて見える。
触れても居ないのにその先端はくっきりと硬く尖っていた。
そんな自分が恥ずかしいと同時に、体の中心に生まれた熱を持て余して、小夜はざぶんと透明な水に潜った。
小夜の黒髪がゆらりと水に泳ぎ、浮力を借りて一気に小夜の体は自由になる。
澄んだ水中に揺らぐ水草の濃淡、その間を群れて泳ぐ小魚。これまで知らなかった水中の世界は、まるでこの湖畔の様だ。
夢の様に美しくて儚い世界。
ここでの生活は、まさしくそれと同じだ。
何も心配することもなく、ただ愛する男と一緒に居られる美しい場所。

ハジ…
男を想うと、小夜の胸はこんなにも痛い。
 
□□□
 
「小夜っ」
一瞬意識が途切れ、次の瞬間小夜はハジの腕の中にいた。
息が切れ、水中で立とうとした弾みに爪先が湖底の石に滑り、転んだのだ。
木立の向こうに座っていた筈のハジは、まるで疾風の様に小夜の元に駆け寄っていた。自分が濡れる事も厭わず水に浸かり、溺れかけた小夜の体を水中で抱き上げたまま、ざぶざぶと岸へ上がった。
木陰の柔らかな草の上に小夜の体を横たえると、酷く心配そうな表情で覗き込んでくる。
「…どこも苦しくはないですか?」
「ごめんなさい。足が滑ったの…もう、大丈夫だから…」
美しい黒髪から滴が垂れるその艶やかな事、謝りながらも小夜の頬が瞬時に赤く染まる。
「…小夜?」
「な、なんでもないの。ハジ…私着替えるから…」
もう大丈夫…とハジの手を退けようとする小夜を、ハジは反対に抱きしめた。
「…岩で足を擦り剥いたりしていませんか?」
「ハジは大袈裟よ…。私…ちょっと滑っただけなんだから…」
本当に?と覗き込む青い瞳が問うていた。
その気になれば、干乾びた大地に雨を降らせる事だって出来るというのに…。
本人にそのつもりがなくても、きっと彼はこの地を守る上で大きな役割を担う…村人にしてみれば正しく神にも等しい存在であるのに…。
ハジの真摯な瞳は嘘偽りなく小夜の事を心配し労わっていて、小夜にはそれが勿体ない様な、恐れ多い様な気さえしてくる。
それなのに…、そんなハジの瞳の色にさえ小夜は自分の中心が熱く潤んでゆくのがはっきりと解かるのだ。それをハジに知られたくない。小夜は抱き締めてくるハジの腕をやんわりと解こうと試みて、あっさりとそれに失敗した。
「逃げないで…。小夜…」
「ハジ…?」
「……今すぐ、ここで貴女が欲しいと言ったら、許して下さいますか?…小夜」あくまで礼を尽くすかの様にそう言いながらも、小夜を抱きしめる腕に解ける気配はなくて、覗き込んでくる瞳はすぐ唇が触れそうな程間近かった。
「ハジ…。あの…あのね…」
「この唇が、絶対に覗かないで…だなどと、可愛い事を言うからですよ」
「だって…、ハジ…ここ、外…」
ハジの指先が小夜の濡れた前髪を撫でつけるようにして、その秀でた額に唇を押しつけた。
「誰もいません。私達がどこで愛し合おうと…別に構わないでしょう?」
「こんなに、明るいのに…」
やはりハジには小夜の心の動きなど見透かされているのか…。
最初から拒まれる事などまるで考えもしない様な口調で、ハジは小夜を引き寄せた。「それに、明るい方がいい事もあるでしょう?」
そう言って笑って、そっと小夜の唇を奪う。
指先で小夜の濡れた髪を梳き、何度も角度を変えて口付を施し、愛おしげに抱き締める。
濡れて肌に張り付く襦袢の生地の上から小夜の細い肩を撫でると、小夜の背筋にぞくりと震えが走る。そのまま優しく包み込む様に、ハジは片方の乳房の上に掌を置いた。
すっぽりと納まるそれを、襦袢諸共緩やかに揉む。
纏わりつく襦袢の刺激のせいで既に硬く尖っていた先端が、素直にハジに応え、その甘く刺す様な刺激に小夜は堪らずに体をくねらせた。
「あっ…やん。ハジ…いい事って?」
「…良くはありませんか?」
ハジの長い指先がそっと先端を摘みあげる。
「っや…ん。そうじゃ…無くって…」
焦らす様に弄られると、堪え切れずに小夜はハジにしがみ付いた。
「そういう事ですよ。……小夜。素直におなりなさい…」
「ハジ…」
うねる黒髪からぽたぽたと滴が垂れて、小夜の喉元に落ちる。
「欲しいのでしょう?」
ああ、もう…どうしてこうなのだろう…。
その青い瞳の前には、小夜はどうしてもしらを切り通す事が出来なくて、小さく唇を噛むと、ふいと視線を反らす。
とてもハジの瞳を見つめ返したまま、そんな事を言える筈がない。
「………欲し…の」
ハジはそんな少女の片頬に掌を添えると、ぐいと自分に向き直らせる。
良く言えましたね…とでも言わんばかりにそっとその青い瞳を細め、掌を滑らせて小夜の濡れた髪を撫でると、その赤い唇に口付けを落とし…唇を割って小夜の中に入り込んでくる濡れた舌先が柔らかな口腔を擽る。
「っ…ハジ」
少女の瞳が潤んでいた…その柔らかな橡色。
大切にして労わってやりたいと心から思うのに、その瞳を覗き込むと、どうしようもなく泣かせてみたくもなる。
「ハジっ…ハジ…意地悪…」
「…人聞きの悪い。…どうしてその様な事を?」
「そんな風にされたら…私…」
細い肩に触れ、まとわりつく襦袢を剥がす様にして下ろしながら、ハジは間近に小夜を覗き込む。
「されたら…?」
「………………」
「我慢…出来なくなる?」
「…ハジっ。外は…。明るいのは…嫌…」
「…この唇ですよ。欲しいと言ったのは…」
そっとハジの唇が小夜のそれを啄ばんだ。
「だっ…て」
それは『ここでという意味ではない』と赤くふっくらとした唇が戦慄いた。
風に揺らぐ柔らかな木漏れ日が、小夜の白い肌に淡い影を落とす。
ハジは剥き出した小夜の乳房に優しく掌を重ねた。
弾力のある白い肌を、長い指がやんわりと握る。
「や…め…」
そのまま、反対の掌でゆっくりと体の線を辿り、小さく笑みを漏らした。
「…な、何?」
「ああ、少し丸くなりましたね…」
圧し掛かる様にして小夜の身動きを封じておいて、ハジは小夜のその無防備な白い喉元に唇を押し付けた。僅かに掠める犬歯の先が甘く皮膚を噛んでは、きつく吸い上げる。
ハジの唇が位置をずらしながら、赤い花弁を散らしてゆく。
「…私、太った?」
「随分と……柔らかくなりましたね」
気にしていたでしょう?と。
「ハジ…」
「我慢する必要も、…恥ずかしがる事もありません。私がその様に、貴女を仕向けているのですから…。小夜…」
するすると腰紐を解くと、緋色の襦袢の襟を開き、組み敷いた体を露わにする。「寒くはないでしょう?」
「…知らない」
つんと唇を尖らせる様はまだまだ幼くさえあるのに、その白く瑞々しい体は熟れた果実の様に甘い。
「小夜…。お願いですから…私の事だけを考えて…」
「…そんな、私…」
これ以上どうすれば良いの?と惑う程、小夜はハジの事しか考えられないというのに。
圧し掛かってくる男の重みを、小夜はきつく目を閉じて受け止めた。
そのままじっと広い背中に腕を回し抱き締めると、大きく開いた両足の間でハジが腰を押し付けてくる。探る様に指を添えてその先端を小夜に含ませると、ゆっくりと体を押し進め彼が体内に侵入してくる。
「あっ…ああっ!!」
体を割かれるような痛みと苦しい圧迫感。
時間をかけて一旦馴染んでしまえば、その刺激はじわじわと小夜の腰の中心を蕩けさせる程甘いのに、なかなか慣れる事のない受け入れる瞬間の痛み。
きつく閉じた眼尻に涙が浮かび、思わずハジの背中に強く爪を立ててしまう。目を閉じた小夜のすぐ間近で息を飲む気配がした。
睫毛に吐息がかかる。
「小夜…」
優しくその名前を呼んでハジの唇が小夜の涙を吸った。
「…ハジっ」
うっすらと瞼を開けると、愛しい男の背後に木漏れ日が眩しく光る。火照る肌の上を、水面を渡った涼風が優しく撫でてゆく。
先端をくれただけで、ハジは貫くのを止め小夜の様子を窺っている。
体の中心がじわじわと痺れる。
ハジが自分を労わり慣れるのを待ってくれているのだという事は解かる。
しかし、こうして耐えるやるせない時間もまた小夜にはつらい。もういっそ一気に貫いて欲しくて、小夜は男の背中を抱く腕に力を込めると、小さく腰を揺らした。「ハジ…大丈夫、だから…」
早く…と小夜が言い切らない内に、ハジは再び侵入を始めた。
そして肌が密着し全てを収めると、ハジは大きく息を吐いた。
「小夜…痛みは?」
「…大…丈夫。…ハジ、動いて…」
ハジを気遣う様に、小夜は微笑んで見せた。
その痛々しげな笑顔に一つ口付けを落として、ハジはゆっくりと侵入を再開する。愛しい。
全てを擲っても構わない程、初めて愛しいと思った少女。
ハジが気遣いながらも、小夜に求められるままゆっくりと律動を刻み始めると、その動きに合わせ、繋がった下肢から淫靡な水音が響く。
引き抜かれたそれが小夜の一番深い場所を付き上げる度に、小夜の唇からは切なく苦しげな吐息が零れる。
絡み付く濡れた内壁の襞がハジを千切れる程に締め付け、彼もまたその形の良い眉をきつく歪めた。その狭い場所を押し広げる様に小夜の体の奥深くを抉り、再び引き抜く。
小夜はされるが儘になりながら、必死にハジの肩にしがみ付いている。ハジの動きにあわせ、苦しげだった吐息が僅かずつではあるが甘味を増してゆく。
白い頬に赤味が差し、半開きに瞼から覗く橡色の瞳が潤んでゆく様が、ハジは好きだった。まるで可憐な蕾が、朝焼けの光を浴びて艶やかに花弁を綻ばせるかの様で。
幼ささえ漂わせる小夜が、他の誰でもない自分の腕の中で艶めかしい女の表情に変わってゆく。しかもそんな小夜を抱き締めるのを許されたのは自分ただ一人なのだ。
白い衣の上に黒髪を散らし…まるで嫌々をする様に悶える彼女の痴態に、思わず見蕩れてハジがその動きを止めると、熱に浮かされた様子で小夜がそっとハジを向き直り、見上げ、どうして?と声にならない声で問い掛ける。
ハジはそっとそんな小夜の唇を奪い、耳元を優しく擽る様に指先で撫でた。
「…ハジ」
「とても綺麗ですよ。小夜…」
「………ハジ?」
涙に潤んだ瞳がうっすらと開いてハジを認め、弱々しく笑みを作る。
「…止め…ないで…」
無意識なのだろうか…、小夜は細い腰を誘う様に揺らし、受け入れたハジのそれをきつく締めつけてくる。
「小夜…」
「……ハジ。…気持ち…良いの…」
首筋に巻き付いた腕が強く縋りつき、消え入りそうな声で訴える。
ハジは思わず我を無くすように、小夜の体を抱き締めた。
 
□□□
 
自分が何者なのか…。
あまりに長い間一人だった為に、ハジにはそれすらも解からなかった。
遠い記憶の中で、自分をハジと呼んでいた誰か…その幽かな記憶だけが、彼を自分は「ハジ」と言う名である事を教えていた。
あれが誰なのか、母であるのか、父であるのか、自分にもその様なものが存在するのか、それとも全く違う誰かなのか…。
たった一人で、ただ遠くから里の村人の生活を、儚い人の生死を、見るともなしに見詰めてきた。
時折、森深く迷い込んだ村人に姿を見られる事はあっても、あまりにも違い過ぎるその命と敢えて係ろうとはしなかった。
そんなハジを、村人はこの湖の主だという。
この湖に棲まう竜神だと、崇め奉り恐れ、そして時に人身御供と称して村のうら若い娘を差し出す。
それは日照り続きや長雨に、村の存続が危ぶまれる時だ。
確かに、ハジが掌を翳せば雨が降る。そして大雨さえも止ませる事が出来る。
けれど、ハジが日照りや長雨を支配している訳ではない。
雨は降る時には降るものだし、時には地面が罅割れるほど遠ざかるものだ。
ハジが施す事が出来るのは、一時の慰めに過ぎない。
それでもか弱い人間は、その一滴の雨粒に命をつなぐ事が出来るのだと教えてくれたのは小夜だ。
例えハジが瞬きする程の一瞬の生であっても、それは尊い一つの命なのだと、小夜の存在がハジに教えてくれたのだ。
 
□□□
 
優しく髪を梳いてくれる指先が、言葉にしなくともその愛情の深さを小夜に教えてくれているようで、くったりと果てた体をハジに任せて、小夜は至福の一時を味わった。
既に乾いた襦袢を引き寄せると小夜の体をそっとそれで覆い、その上から強く抱き寄せては繰り返し背中を撫でてくれる。
ハジの愛は、時に我儘な子供の様に強引だったけれど、こうして身も心も愛される事を覚えてしまった小夜にとって、この腕は甘い芳香を放つ棘の檻の様だ。「小夜…」
ハジがやんわりと小夜の意識を呼び戻す…覗きこんでくる男の表情には心配の色が伺えた。
「…ハジ…」
「…貴女を、手放したくない…」
「どうしたの?突然…」
青い瞳が痛々しいほどの憂いに満ちている。先程、強引に小夜を抱き締めた彼とはまるで別人の様にも見える。
大きな掌が労わる様に背中を撫でた。
「どうも…」
とだけ首を小さく振って答え…ハジは不安を押し隠すように、そっと微笑みを浮かべた。
「先程…貴女の悲鳴が聞こえた時は…生きた心地がしませんでした」
「…大丈夫よ。だって滑っただけだもの…少し水を飲んだけど…それ位…」
なんでもないわ…と、小夜の表情に本来の無邪気な笑みが戻ると、ハジは寄り添っていた体を起こし、脱ぎ捨てた着物を羽織る。
「…このような場所で求めて、貴女に嫌われはしなかったかと…」
「さっきは、明るい方が良いって言ってたのに…」
小夜もまた、素肌を襦袢で隠す様にして体を起こした。
男の視線がじっと体の線を撫でている。
情熱的に求められる時とはまた違う恥じらいに身を染めながら、小夜が手早くそれを身に纏うと、ハジは黙って枝に掛けられたままの白い衣を取り、小夜に手渡した。
「…ハジも、早くちゃんと着て…」
ちらりとハジを窺って、小夜の頬が赤く染まる。
隠す気もないのか…前を肌蹴た着物からは、引き締まった筋肉やその下方、先程まで小夜を苛んで止まなかったそれすらも露出して、小夜の視線のやり場を困らせるのだ。
「…小夜は恥ずかしいのですか?」
「……恥ずかしいよ」
小夜の答えに仕方なく…と言った風情で帯を締めると、少し笑ってその腕を差し出す。ぴくんと肩を震わせて警戒してみせる小夜に、ハジは尚更表情を崩した。「流石に…もう何もしませんよ。小夜…おいで…」
ほんの少し前に膝を進めた小夜の腕をハジが強引に掴んで、抱き寄せる。逃げる事もままならず、小夜はすっぽりとハジの腕の中に収まった。
「…ねえ、本当にどうしたの?ハジ…」
「どうも、…していませんよ。…ただこうして、貴女の存在を確かめる事が出来る今を…とても幸せに思っているのです」
こんな綺麗な人に…真っ向からそんな風に囁かれて、冷静で居られる女が居るだろうか。
小夜はその胸にきつく頬を押し付けた。
背中を抱き締める腕の力が増し、互いを引き寄せる抱擁が強いものへと変わる。「小夜の体は、いつも温かですね…」
腕の中に永遠に閉じ込めておきたい、この確かな温もり。
しかし、いつかはハジの腕からすり抜けていってしまう儚い命。
ハジは強く頬擦りする様に小夜をかき抱いた。
「…そう?ハジの体はいつもひんやりして、気持ちいい…」
ハジは暫く考え込むようにして黙っていたが、やがて間近に小夜を覗き込むと、問う様に言った。
「…小夜には、まだ見せた事はありませんでしたね…」
暗に見てみたいか…?と問うている。
何を…とも言わず、小夜は答えられないまま、それでも小さく頷いた。
ハジがそっと白い瞼を伏せる。
「さあ…瞼を閉じて。…小夜」
「ハジ?」
ハジは黙って、小夜の額に額を押し当てた。
「これが…本当の私です。…小夜」
小夜の脳裏に、直に流れ込んでくる…それは暗い闇の中に浮かび上がる一頭の竜の姿。大きな二本の角と、鋭い牙を持つ大きな口、豊かなたてがみ。
虹色の光沢を纏った白く硬質な鱗がびっしりと全身を覆う姿は、まるで彼自身が光を放っているかのようで、小夜は思わず唇から感嘆の声を漏らした。
「…綺麗」
…小夜。……怖くは、ないのですか?
瞳を閉ざしたまま、小夜の脳裏に浮かび上がる竜が直接小夜に語り掛ける。首をもたげた竜の瞳が、青く潤んでいる。
「…ハジ」
………あなたは、この姿を見ても…
「……怖くなんてないわ」
…小夜
「…ハジ。……私、…怖くなんかない。……私」
小夜は、目を見開くと震える男の体を強く抱き締めた。
 
 
□□□
 
白い障子を明け放つと、真っ暗な空には大きな黄色い月が浮かんでいた。
水面を渡る風はいつになく心地良く肌の上を撫でる。
それと言うのに、小夜の心はいつになく深い澱の底に沈んでいた。
肌触りのよい、柔らかな衣に身を包み、小夜は解いた髪を指先で弄びながら、男の胸に身を預けている。いつもなら、それだけで至福を感じる事が出来るというのに…。
 
 
…貴女はこの姿を見ても…?
『怖くなんてないわ…』
 
小夜の答えを恐れる様に、それでも何度も問い質すハジの青い瞳。
ハジの真実の姿。
真っ白な美しい竜の姿を目の当たりにしてから、日々は流れ…あれから数年の月日が過ぎようとしていた。
ここでの生活は相変わらず穏やかだ。
湖とそれを囲む深い森は豊かで…ここには小夜の望む全てがある…筈だった。ただ一つの事柄を除けば…小夜は心の底から幸せだと思う事が出来る。
小夜は、ハジに再び会えるかも知れない…と言う思いだけに支えられて、人身御供となった。村の事は勿論、大切に思う。小夜の生まれ育った土地、そして一人きりになった小夜を育ててくれた人達がいる。
けれど、何よりも小夜はハジに会いたかった。
ただそれだけの恋心に支えられていた。
ハジは小夜の当初の願いを聞き入れ、事あるごとに村の様子に気を傾けてくれている。
日照りや長雨に悩まされる事もなくなり、村は以前よりずっと豊かに潤っていた。結果的には、小夜は人身御供としての大役を果たした事になるのだろうか…。
男の、やや冷たい白い肌に頬を押しつける度、彼の体がいつもひんやりと冷たいのは彼が本当に竜である事の証しなのだと、小夜は男の素肌に指を這わせながら…ぼんやりとそれを思う。
ハジの胸から感じる力強い鼓動は、小夜のそれと何ら変わりはない。
こうして居ればハジの肌は小夜と何一つ、どこも変わらない様に感じられるけれど、本当は硬質で虹色の輝きを放つ真っ白な鱗に全身を覆われた…彼は、やはり竜なのだ。
この湖に住まう竜、村人の言う湖の主。
それも無力な人間にとっては限りなく『神』に近しい存在。竜神。
しかし、小夜にとっては最愛の恋人であり、今ではもう夫とも呼べる存在だった。そっと盗み見る様に見上げるハジの横顔、彼の青い瞳はいつも濡れたように憂いを帯びている。
最初はただ美しいとしか思わなかった、その深い水の色。
しかし、今はその色がただ美しいだけのものではないと理解出来る。
彼の瞳はいつも胸が痛む程の憂いを帯びている。
あの日、自分の真実の姿を小夜の前に晒した彼は恐れる様に何度も小夜に問い質した。
『この姿を見ても、恐ろしくはないのですか?』…と。
そんな彼に、小夜は縋る様にしてただ何度も首を振った。
こんなに優しいハジを、怖いと思う筈などなかった。

そもそも、出会った時からハジが人でない事は明らかだった。
幼心に、自分の想う相手は人ではないという事を小夜は承知していた。
あれは夢だったのかも知れない…
もう二度と会えない存在なのかも知れない…
そんな思いが脳裏を過っても、幼い小夜の心の中でハジへの思慕が枯れる事はなかった。
あの日、ああして彼の本当の姿をまざまざと見せ付けられても、小夜の心に浮かんだのは怖いという感情ではなく、思わず唇から零れたのは『…綺麗』と言う感嘆の言葉だった。
『綺麗』…ハジはとても美しい。とても美しくて、優しくて、…けれど本当の彼はとても孤独で寂しい人だ。
まるで初めてこの湖の畔に迷い込んだ時の景色のように…。
綺麗だけれど、生き物の気配は全く感じられない、しんと静まり返った美しくて孤高な世界。小夜がここへ来るまでは、このただ美しく死んだ様な世界で彼はたった一人で気が遠くなる様な時間を生きてきたのだ。数え切れない夜と昼を超えて、図る事の出来ない長い時間を、この世にただ一頭の気高い竜の化身として…。それを思うと、小夜の心はしくしくと傷む。
その孤独だった世界…それが、今ではどうだろう…。
豊かな森には多くの動物が溢れ、空では小鳥が囀っている。
夏の夜長には虫の音が涼しげな風情を一層醗し、湖には多くの魚の姿を見る事が出来る。
彼がこの湖の主であり、つまりそれはこの湖自体が彼の分身の様なものだとするなら、それはきっと彼自身…ハジの心の変化なのだと…いつしか小夜はそう思う様になっていた。
この劇的な変化が、もし自分の存在故なのだとしたら…それは、この上もなく幸せで…光栄で…そして胸を締め付けられる程、苦しい事だ。幼い日の、あの白い椿の花が花弁を散らしても、そして彼の真実の姿を知っても、小夜の心の中でハジへの想いが枯れる事はない。
今も変わらず、小夜の心の中にはあの白い花弁が風に揺れている。
たった二人きりのそんな生活の中で、自分はもうどこかおかしくなってしまったのだろうか…。これほど恵まれて、これ以上を望んではいけないのだと解かっているのに。
自分はもうこの男の事を愛しすぎて気が触れているのかも知れない。
 
自分に出来る事は何?
自分が愛する男の為にしてあげられる事は…。
簡単に答えなど導き出せるものではないというのに、小夜の脳裏には常に同じ思いがぐるぐると廻り心に深い澱を作る。
どれほど大きな力を秘めていようと、彼の心が幼い子供の様に純粋で傷付きやすい事を小夜は知っている。澄んだ水だからこそ、一滴の汚濁が全てを蝕んでしまうのではないか…。
だからこそ、小夜は愛する男の胸に頬を押し付けたまま、たった一つだけ未だに叶う事のない願いに心を囚われている。
一日中、何をしていても…。
それこそ、男の腕に身を任せ、情を交している…その間でさえも…。
ハジはきっとそんな自分の思いに気が付いているのだろう…。
だからこそ、彼は黙っているのだ。
思いの深さにとうとう堪え切れず、口を開いたのは小夜の方だった。
くるくると毛束を弄びながら、小夜は唐突を装ってぽつりと零した。
「…ハジ。やっぱり…私達には…授からないの?」
「…何がです?小夜…」
解かっている癖に…惚けた返答をする男に、小夜はしなやかに体を起こすとハジの顔をじっと見上げた。
「何が…授からないというのです?」
ハジは尚も気付かないふりをする。ハジの静かな青い瞳に晒されると、小夜はいつも何も言えなくなってしまう。そんな男を少なからず恨めしく思いつつも、今夜の小夜は怯む事はなかった。
「私…ハジのややこが欲しい」
「……小夜」
ハジは甘い瞳で見上げてくる小夜の肩をそっと撫でて、静かな表情を崩す事無く口元だけで笑って見せた。その瞳の色からは、何を考えているのは解からない。けれど、小夜は尚も言い募った。
「……ややこが欲しいの。…だってハジは私を花嫁にしてくれるって言ったでしょう?」
これではまるで小さな子供に返った様な言い分だと…小夜にもそれは解かる。ハジは相変わらずだ。穏やかな表情を変える事はない。
「ええ、言いましたよ。…小夜は私のたった一人の花嫁です」
「…だったら…」
「…そんな表情をしないで。…もう一度、ご所望とあらば…」
男の手が急に意思を持ち始め、肩を撫でていたそれがするりと細い腰に滑り下りた。「…違うわ。そんな意味じゃない…それにそんな表情って…」
「今にも、泣きそうですよ…」
真っ直ぐに見詰めてくる彼の瞳の前で指摘されて、小夜は鼻先がつんと痛むのを感じた。
「…小夜」
優しい唇が舞い降りて小夜のそれを塞ぎ、舌先を絡め取られる合間にもハジの右手が緩く結ばれた小夜の腰紐を解き始める。
口付の狭間でハジが言った。微かに離れただけの唇が小さくそう告げる。
「…ややこなど要りません。私はただ小夜さえ居てくれれば良いのです」
「待って…ハジ…」
完全に腰紐を解いた彼の右手を、小夜は強く両手で押さえた。
「ハジ…そうじゃなくて…。…そうじゃなくて」
どうやって説明すれば良いのだろう。心のどこかで、彼がこんな風にはぐらかす事を予想していた小夜は、強くハジの腕を握り締めたまま、込み上げてくる涙を堪え、そんな表情を隠す様に顔を背け、俯いた。
「小夜…」
いつしか腰紐に触れていた手の動きは止んでいた。
穏やかな声が頭上から降って、小夜は尚更顔が上げられない。
ハジは押さえられた反対の左手で、小夜の髪に触れてゆっくりとその湿った髪を確かめる。
愛しげに指に掬い毛先に口付ける、そのどこか神聖なものに接するようなハジの表情を小夜が目にする事はない。
「ややこなど欲しくはありません。…私は…あなたさえ居てくれれば良いのです…小夜」
「…だって。…だって…ハジ…」
「小夜…あなたが、もし本当に、その腕に赤子を抱きたいと言うのならば…。そういう幸せの形を望むというのなら…」
ハジの表情は変わらない。
敢えて残酷な言葉を選ぶように、ハジの形の良い唇が告げる。
「…ハジ?」
「小夜…今すぐ里に帰りなさい。…里に帰って、他の誰か、人間の男を愛しなさい」間髪を入れず、小夜はそれを否定する。
「嫌よっ!私が欲しいのは、ハジのややこだもの…。そのあなたがそんな事を言わないでっ…、他の誰かなんて…嫌…。そうじゃないの…」
そうじゃない。
…そんな訳がある筈がない事を、ハジは知っている癖に…。
勿論、そんな彼の言葉が嘘である事は、小夜にも解かっている。
解かっているからこそ、小夜はもう涙を堪える事は出来なかった。
上気した薄紅色の丸い頬を、玉の様な涙が零れ落ちる。
それはぽたりぽたりと二人の重ねた手の甲を濡らした。
「小夜…」
ハジの掌がそっと小夜の背に触れる。労わりに満ちた穏やかな優しさで、ゆっくりと背をさする。
「…小夜、よく聞いて下さい。……私が人ではないという事は、知っているでしょう?こうしていれば、私は遜色なくあなたと同じ人である様に見えるかも知れない。そのせいで小夜は大切な事を忘れています…私は人ではありません。…幾ら願っても、幾ら睦み合ったとしても…私の精は、あなたにややこを授ける事は出来ないのですよ…」
「だって…。だって…欲しいんだもの…。ハジとよく似たややこを抱きたい…」「聞き分けて下さい…小夜」
「……だって…」
ハジの右手を抑えていた小夜の腕が、男に縋る様にその襟を握った。
涙をぬぐう事も、真っ赤な頬を隠す事もせず、涙に濡れた瞳がまっすぐにハジに向けられる。
「小夜…。無理を言わないで…」
「……だって」
「小夜…さあ…泣き止んで…」
小夜はきつく唇を噛み締めた。
見上げる青い瞳は、変わらずに澄んだ青い湖の色だ。
この澄んだ色が好き。
どこまでも透明で、美しく孤独なあなた。
…ハジ
「…だって。…私…いつかまた…あなたを一人にしてしまう…」
「……………」

ハジは一瞬息を呑むように小夜を真っ直ぐに見据え、強張ってしまった表情を解く様に長い睫毛を伏せた。小さく息を吐いて、自らの襟を強く握り締めた小夜の指を優しく緩め、反対にそっとその両手の中に小夜のそれを包み込んだ。言い聞かせるように撫でるハジの掌の上に、ぽたりぽたりと新たな涙が零れる。
「…小夜。泣かないで…」
「ハジ…ハジ…ごめんね…」
「小夜が泣く様な事は一つもありませんよ。……私は…」
宥める様な指先が黒髪を梳く。
努めて穏やかに発せられたハジの言葉を、小夜は打ち消した。
「一人は慣れています…」
「私は嫌…。嫌っ…」
この青い瞳が、再び深い孤独に沈むのかと思うと、小夜の心は千切れそうに痛む。「それでも、あなたを一人にしてしまうよりは…余程良い。それだけが私の救いなのですよ…。家族に先立たれたあなたを、私までが再びあなたを一人取り残してしまう様な事があってはなりません。私一人がそれに耐えれば良い…」
「ハジ…」
ハジは小夜の衣の重ねを整え、解いた腰紐を再び丁寧に結んだ。
「さあ、いつもの様に笑って…小夜」
笑える訳がない。
とん…と、小夜は弱々しい拳で無理を言う男の胸を叩いた。
繰り返し叩いて、終いには額を押し付ける様にしてその胸に崩れ落ちる。
男の胸の中で、小夜は泣いた。
今ではない。それでも、いつか必ず訪れる別れ…。
自分は間違いなく再び、彼を独りにしてしまう。
その先の長い一人の時間を…彼はどうやって埋めるのだろう…。
また、いつか人身御供と称して…この湖に見知らぬ娘がやってくる事もあるのだろうか…。
その誰かはありのままのハジを受け入れてくるだろうか…。
しかし…もし自分の代わりに誰かハジを愛してくれる存在が現れたとしたら…?そう考えると小夜の心には、もはや繕う事もかなわない大きな穴があいてしまう。我儘でも、身勝手でも、ハジには未来永劫自分だけを見詰めて居て欲しい。
そんな矛盾した思い。
もう、きっと自分はどこか壊れている。
ハジが愛し過ぎて…。
「…あなたの考えは手に取る様に解かります。小夜…」
ハジの青い瞳が嘘を許さない強さで小夜を覗き込んだ。
「……ややこが居れば、私を独りにしないと…。あなたが召された後に私が寂しくないと…思ったのでしょう?」
「……あなたの血を引くややこなら、…きっと…」
きっとハジと同じくらいの長い命を持った存在。
そんな理由で、ややこが欲しいなどと言う自分にはきっと罰が当たる。ハジは濡れた瞳で見上げる恋人の頬に優しく一つ口付を施した。包み込むようにすっぽりと、その華奢な体を抱き締める。
「あなたに…必要以上の心配をかけてしまいましたね…。そんな先の事を案じないで…。あなたと出会う以前、もう随分長い間ずっと…私は一人でした。また一人になっても生きていける。遠い昔、幽かな記憶を辿れば、仲間も居た様に思いますが…。元々…私にとっては、孤独である事が常だったのですから…」
「ハジ…」
「ややこなど…要りません。…あなたの代わりになる存在など、居る筈はないでしょう?」
抱き締める腕の力が、ぎゅっと強くなる。
ハジの体が微かに震えて居て、まるで泣いているようだと小夜は心配になる。けれど、小夜を抱き締めた強い腕の力は、小夜にそれを確かめる事を許さなかった。一人でも生きていけるだなんて…
孤独でも良いだなんて…
今更、そんな強がりを言う…強くて…けれど繊細な、この世にたった一頭の竜。「ハジ…それでも、私…」
「・・・小夜、一つだけ…。一つだけ約束して下さい」
不意に緩んだ腕の中で小夜は顔を上げ、潤んだ視界の中で真っ直ぐに自分を見詰める男を見付けた。
その整った面に浮かぶ痛々しい微笑みの前に、小夜は言葉を無くす。
そして心の中で、何度も彼に頭を下げる。
 
…ごめんね。
 
……ごめんね、ハジ。
 
「…命は巡ります。いつか再び、あなたはこの世に生まれてくるでしょう。その時、私は必ずあなたを迎えに行きます。……どんなに離れていても、それがどんなに困難であっても、必ずあなたを見付け出します。ですから…どうか小夜…私の事を忘れないで…。私の記憶を…留めていて…」
「忘れる筈ない…。忘れられる筈がないよ…愛してる。………あなたを愛してるもの…ハジ」
誓いの証しの様に、ハジがそっと唇を寄せた。
優しい口付を受け止める。
愛してる。
ただ、それだけの事。
重ね合わせた指先を強く絡め合い、体を押し付ける様にして褥に沈み込む。
見上げる男の頭上に、柔らかく輝く月の光…。
 
あなたも…覚えていて……
私達の、この約束を……
 
優しい風が吹く。素肌の上を心地よく宥めるそれが、雲を呼ぶ。
睦み合う二人の姿に恥じらう様に、月がその姿を雲間に隠す。
やがて、音も無く…雨が降り出した。
 
雨はまるでハジの涙の様…。
優しくて、
…悲しい。
 
男に抱かれながら、小夜は視界の隅に撥ねる雨粒を見詰め…その記憶を体に心に深く刻み込んだ。
 
ごめんね…ハジ…。
 
夜更けの雨は全てを受け入れ、包み込み、やがて本降りの様相を呈していた。
 
                              ≪了≫