正座した制服のプリーツスカートから覗く膝小僧が、酷く惨めな気分だった。

白くてガリガリの膝小僧には、昼間…体育の時間に転んで出来た擦り傷がうっすらと瘡蓋を作り赤

く腫れている。

私はなんて子供なんだろう…。 

この足にストッキングなんてとても似合わない。

今ここに鏡はないけれど、お化粧の慣れない私には真っ赤な口紅だって、きっと似合わない。

彼の周りには、綺麗な大人の女性がいっぱい居るのに…私なんかが最初から相手にされる訳がない

事は、自分でも解っていた筈なのに…、それでも、私の気持ちはもう抑える事の出来ないところま

できていて。


だから、こんな風に彼を困らせてしまうのだけれど…。

本当にもう、この気持ちは自分ではどうする事も出来なかった。

初めて会った時から、あなたの事が好き…。

そんな風に思いつめる事自体が、子供だと言うのに…

殺風景な六畳程の和室。細く開いたカーテンの隙間から、細く長く西日が影を落とす。

部屋は片付いていると言うより、物自体が存在しない。真ん中に小さな座卓が一つ置いてあるだけ

の、全く生活感の感じられない部屋。けれど、掃除だけは行き届いていて、彼がこの部屋をとても

大切にしている事が解る。


私は、その片隅で…日に焼けた畳の目を一つ二つと数えるでもなく目で追いながらじっと顔を上げ

ることも出来なかった。視線はさまよう様に、畳の縁と自分の小さな膝とを交互に行き来するばか

りで…、どうしたら良いのか解らない。


背後に座った彼もまた、先程からじっと動かない。

その気配だけで、顔を見なくても彼が明らかに困っている事が解る。

困らせているのは、私だ。子供っぽく、むきになってこんなところまで押し掛けて、彼が困らない

筈は無かった。彼は私よりずっと大人だから、感情に流される事なんかあり得ない。


まだ、拒絶された訳でもないのに、私はもう泣き出してしまいそうだった。

時間が止まってしまったみたいに、部屋の中は静まり返っている。

もしかしたら、これは夢…

じっとしていると、そんな思いが浮かんでは消える。

これは私が見ている独り善がりな夢で、朝がきたら…私はいつも通り自分の部屋のベッドで目を覚

まし、同じ年代の友人達と、何の変哲もない学生生活を送る。
そんな期待にも似た思いを、表の道

路を通り過ぎてゆく車のエンジン音がふいにかき消して行った。


私が彼を困らせているんだ…。

そう思うのと、背後に座る彼が立ち上がるのとはほぼ同時だった。

「何のもてなしも出来ませんが、お茶くらい召し上がって下さい」

落ち着いた静かな声だった。私は、きつく膝の上で握り締めた掌の汗を感じながら、ゆっくりと顔

を上げ、振り返った。


いつの間にか、座卓の上にはお盆に載せられた急須と湯飲みが揃えてあって、彼は私を招くと座布

団を勧めた。ほんの少し躊躇する。
けれど、私が彼の言葉を拒める筈も無く、私は痺れに覚束無い

足を庇いながら彼の前に座りなおした。


こうして、狭い部屋に二人きり…彼を困らせているのは私の方だ。


彼は私よりずっと大人だから、きっとこんな私の我侭を呆れている。
「生憎、茶菓子はありませんが…」

「…あの、私…ごめんなさい…」

見惚れる程優雅な手付きで湯飲みにお茶を注ぐ、指先まで…彼は綺麗。

思わず謝罪の言葉が漏れる私に、彼は意外そうな表情を浮かべ、一瞬の後にゆったりと微笑んだ。

「何故謝るのです?」

「だって…ここは…」

思い出の大切な場所なんでしょう?

じっと見詰める私の視線に、初めて彼の視線が絡みついた。

今ならまだ引き返せますよ…

彼の瞳は、そう私に語りかけてくる。
「掃除だけはしていますが…、普段ここでゆっくり過ごす時間など滅多にありませんから…。何も

ありませんから退屈でしょう?」
「…」

優しい彼の青い瞳、まるであの日の…澄んだ五月の青い空みたいな色…

あの日、私達が擦れ違わなかったら…全ては違っていたのだろうか?





碧空・前編   三木邦彦





それ以上、言葉に出来ないでいる私に、彼は静かに首を振った。

「貴女が謝る必要など…どこにもないのですよ…。私の方こそ…、年頃のお嬢さんをこんな場所に

連れ込んで…ご両親にも合わせる顔がありません」


「…連れ込む、だなんて…。私が勝手に…」

「同じ事ですよ。あなたは未成年の…それも女子高生なのですから…。世間の目と言うものは、そ

ういうものです」


世間の目なんてどうでも良い…そう言いかけて、私は唇を噛んだ。彼の言う事は、きっと正しい。

彼に非があろうが無かろうが、きっと私達の言い分なんて誰も耳を傾けてさえくれない。どんなに

背伸びをしたって、私は
17歳の何の変哲もない女子高生で……。

世間に避難を浴びたら、困るのはやっぱり彼の方で…。

「そのお茶を召し上がったら、帰って下さい。まだ外が明るいうちに…。そしてここへは、もう二

度と来ない方が良い」


「…それってどういう…?」

「もう会わない方が良いでしょう…と言う事です」

「嫌よ…」

私はとっさに拒否していた。そんなつもりでここへ来た訳じゃない。

「あなたが好きなの…。もう家にも学校にも帰れなくても構わない。…帰らないわ、私」

「困らせないで。堅気の…しかも上流の家庭に育ったお嬢さんが考える程、この世界は甘くはあり

ません。あなたの居場所はここではありません」


「…嫌よ。私はあなたの傍にいたいの…帰らないわっ」

重ねて叫ぶと私は彼の返事も待たず、立ち上がると制服のブレザーを脱ぎ捨て、赤いリボンタイを

外した。
「…どうするおつもりですか?…止めて下さい!」

止めようとする彼の腕を振り払い、白いブラウスの襟元に指を掛けた。

「帰らないから…」

そのまま力任せに両手で引っ張ると、あっけなくボタンがはじけ飛んだ。

ブラウスの前が裂けて、下の白いブラジャーのレースが露になった。自分でそうしておきながら、

見る見るうちに頬が熱くなる。じんわりと視界が涙で歪む。


嫌われてしまう。こんな事をしたら、今度こそ間違いなく。でも、もう引き返せるはずがない。

後悔なんてしない。彼を好きだと思う自分の気持ちに嘘なんかつけない。

気まずそうに目を逸らす彼の胸に、私は飛び込んだ。

「…落ち着いて下さい。小夜さん…」

「……小夜って、呼んで…。お願い…一度だけで良いの」

「無理を言って…困らせないで下さい…」

「お願い…私を、女にして…」

見上げる瞳と、覗き込む瞳とがぶつかった。

青い瞳が揺れている。私が困らせているんだと思うと、尚更涙がこみ上げてくる。

頑なに抱き寄せる事を拒んでいた腕が、そっと私の肩に触れた。

「恋愛ごっこがしたいなら、…私ではなく、同じクラスの同級生にでも、相応しい相手が居るでし

ょう?」


「ごっこじゃないわ!あなたが好きなの…あなたの代わりなんて居ない…」

この気持ちに偽りなんてないのに…

私が子供だから相手にさえしてくれないのだろうか…

もう零れる涙を堪える事なんて出来なかった。

拭う事さえ出来ないまま、涙は後から後から頬を伝っていく。

彼が小さく吐息を零した。

指の先でそっと、私の頬の涙に触れて、揺れる青い瞳がほんの僅かに緩んだ。

「…この小さな肩を抱き寄せてしまったら、私はもう貴女を離せなくなってしまう。腕の中に閉じ

込めて、誰にも渡さないように…」


「………」

「貴女に焦がれているのは、むしろ私の方でしょう…。屈託無く笑う貴女の笑顔に惹かれました。

初めて会ったあの瞬間から…。…私の様な者にも偏見無く接してくれる貴女に…いつしか心の安ら

ぎを覚えていました。こうして共に居られさえすれば、もう他に何も望まない程に…。」


「……」
「でも、だからと言って…許されるものではないでしょう?貴女は、住む世界の違う女性だ…」
何を言っているのだろう?
小夜が大きな瞳を見開いた。
ハジの表情は相変わらず静かなままで、何を考えているのか…小夜には読めなかった。
貴女に焦がれている…と言ったのだろうか…。
男は、深い青色の瞳を考え深げに細めると、やがて言った。
「自分を傷付ける様な真似をしないで下さい。…この家には、貴女の着替えなどありませんよ。…

どうやってここから帰るおつもりですか?」
「……帰らない。ずっとここに…居るもの…私…」
「怖いもの知らずで…とんだお転婆ですね。…度が過ぎていますよ。…小夜」
『小夜』と、ハジの唇が小夜を呼んだ。
一瞬空耳かと疑う。信じられない思いで、ハジを見ると、彼もまたどこか慣れないぎこちなさでも

う一度小夜を呼んだ。
「…小夜」
「…ハジ…さん?」
困った様に男が微笑む。どこまでも深い優しさと労わりに満ちた微笑みの前に、小夜は状況が読み

取れない。
「……さんは、要りませんよ。……小夜。…おいで…」
白いシャツの胸元、その黒いネクタイを、ハジは無造作に緩めた。
差し出される男の手に、小夜は夢を見ているような心持で一歩彼に歩み寄る。
「…怖いもの知らずのお姫様ですね…」
「………ハ…ジ?」
「そうです…」
前に立つ小夜の瞳を覗き込むようにして、ハジの指先が小夜の前髪を梳いた。
「初めてなのでしょう?」
そんな問いに、一体どう答えれば良いというのだろう?
「………」
ハジの指先は、そっと前髪から移動して小夜のふっくらとした頬に触れる。
小夜を覗き込む瞳は、ふっと小夜を通り越してどこか遠いところを見ているようだ。
「…母は妾でした。私がそれを知ったのは、小学生の時…母の葬儀の日でした。確かにそれまでも

…どうしてうちには父親が存在しないのだろうと疑問に思った事はありましたが、それを寂しいと

感じた事はありませんでした。母が突然の事故で亡くなり、私は否応なく父に引き取られる事にな

ったのです。父は堅気の人間ではありませんでした。田舎のヤクザとは言え、宮城組組長を名乗っ

ていた父の…私は長男です。年齢の離れた弟がいます。自分が跡目を継ぐつもりはありませんが、

体を壊した父の代わりに弟が成人するまで…今実質的に、組を動かしているのは私です」
「………」
「この世界で生きて行く事に、戸惑いがなかった訳ではありません。いつか足を洗う事が出来たな

ら、音楽の世界で生きたいと思っていた頃もありました。しかしこの世界は…案外に自分には性に

合っているのかも知れない…」
「……ハジ?」
「小夜……初めての相手が、こんな男では…後悔するのではありませんか?」
「…しないわ。それに、あなたが初めてで、………最後の人だから…。ハジ…」
「もっとご自分を大切にして下さい」
頬に触れた指先が、優雅に小夜の髪を撫でた。
「子供の頃から多くのものを諦め、そして失ってきました。それでも…欲しいものを、我慢する事

が…こんなに辛いと感じたのは初めてです」
「……ハジ。もう…我慢なんかしないで…」
ハジは労わる様に、肌蹴たブラウスの前をそっと合わせた。
そして何も言わず、小夜の細い体を抱き上げる。
「…ハ…ハジ?」
「…初めてが、畳の上では…あんまりでしょう?」
「え…?」
戸惑う小夜を抱き上げたまま、ハジは和室を出る。
長い廊下を渡り、辿り着いたのはこじんまりとした寝室だった。
ベッドの他に家具らしき物は何もなく、壁際に立てかけた黒いチェロケースが小夜の目を引いた。
ハジは抱き上げた小夜の体をベッドの端に下ろし座らせると、自分は小夜を見上げる様にして床に跪く。
黒い絹の様な長い髪、青い瞳。
母親は東欧の人だといった。
彼は…
とても美しい人。
形の良い眉を、僅かに寄せて、優しげな口元が微笑む。
彼にそんな表情をさせて…困らせたのは、自分なのだと小夜の瞳に新たな涙が浮かんだ。
「泣かないで…。今なら、まだ…間に合いますよ」
「…ごめ…な…さい…」
「本当は…怖いのでしょう?」
「…違うの。…怖くなんか…」
どうやって、この気持ちを伝えれば良いのだろう?
「…怖くなんか?」
「………」
「ありませんか?」
ハジの指がそっと小夜の髪を梳き、そのまま頬に触れた。
覗き込む真っ青な瞳は、あの日…初めて出会ったあの日の晴れ渡った空の様だ。
吸い込まれそうなその青に、小夜は魅入られる。
「怖くなんか…ありません…」
「小夜、目を閉じて…」
言葉と同時に唇が下りてくる。
柔らかな唇の感触が小夜のそれに触れて小さく啄ばむと、惜しむように離れてゆく。
「その前に…シャワーを使いますか?」
ハジの言葉に、ぐっと現実が迫ってくる。
こんな時、普通はどうすれば良いのだろう?
このままではやはり汗臭いだろうか?
シャワーを浴びたら、その間に彼の気持は変わってしまわないだろうか?
本当はシャワーを浴びて、体の隅々まで綺麗に洗っておきたいけれど、
そうして心の準備をしなければ、激しい胸の鼓動に潰されてしまうかもしれない。
あんな無茶を言って迫っておきながら、こんな風に唇を寄せられたら…思わず『待って』と泣き言をいってしまいそうで…。
しかし、着替えもないというのに、シャワーを浴びたところで、バスタオル一枚のまま彼の前に出

る勇気はない。
しどろもどろに惑う小夜を見て、ハジは小さく笑った。
「…本当に初めてなのですね」
「……いけませんか?」
「……まさか」
むきになる小夜を、ハジは笑わなかった。
「……部屋を出て右の突き当りがバスルームです。あるものは自由に使って下さって構いません。

…給湯器の使い方を説明しましょう」
ハジがするりと立ち上がるのに、小夜は黙ってそれに従った。
前を歩いてゆくハジの背中はとても広く、小夜の知る誰のものとも違い、大人の男を感じさせた。
バスルームの前に立つと、ハジは不意に振り返って言った。
「…それから、一度ご自宅に連絡して下さい。何か理由を考えて…今夜は帰れないと。…でなけれ

ば心配されるでしょう?」
「…………帰れないって…」
「出来ますか?…今日はそのつもりだったのでしょう?」
小夜の一瞬の躊躇いを逆手にとってハジがそんな風に皮肉るので、小夜はつい必要以上に大きな声

で答えた。
「で、出来ますっ!その位…」
バスルームのドアを開け、ハジが『どうぞ…』と小夜を中へ通す。
ごく有り触れたユニットバスには長く使われた形跡はなかった。彼の几帳面な性格ゆえだろうか…

それでも洗面の横に据えられた棚には清潔なバスタオルがきちんと揃えて置いてある。
給湯器の使い方の簡単な説明を受け、小夜はその横でただこくこくと頷いた。
説明を終え、『では…』と背中を向けようとするハジを無意識に小夜は眼で追っていた。
「…睨まないで下さい」
「私、睨んでなんかいません。……ちゃんと待っていて下さいね…」
「…逃げたりしませんよ。…貴女がここで冷静に頭を冷やして、『やはり止める』と言ってくれな

いだろうかとは…思っていますが…」
「そんな事…言いませんってば!」
「では、約束しましょう?」
ハジはそう言って、小夜の額にそっと唇を落とした。
 
                                 後編へ続く




20080819  
すみません。以前にこちらのPBBSにのせたやつの続きです。
そしてあとはやるばかり(笑)